美術館の特別展に行く。一般客なので入場料は発生する。
特別展の内容が自分の価値観と会わなかったとき、この内容でこの入場料は高いよなと仲間内で喋ろうと思ったときに踏みとどまる。
鼻につく指摘ポイントは多数あるけれど、それを喋るのはと思っていしまう。
髪の毛を染める。以前は美容院でそめていたのだが、プロユースの薬剤やグッズが一般でも入手できるようになったこともあり、自分のメンテナンスコストを削減している。技術はない。それを差し引いても、美容院側に勝ち目は少ないのではないかと考えてしまう。技術の高い美容院があることは否んでいない。ただ単純に金儲けはできない世の中になってきている。全て皆が私と同じ感覚にはいたっていないが、いままではそうだっのが変化してきているということ。時は流れている。
安泰という言葉は、一般大衆の手には届かなくなっている。
先日は夕刻から呑み会があるため、昼に睡眠をとっておこうと考えている。
朝7:00には起きているのに、スケジュールは一杯で、睡眠時間を確保するにもわずかである。昔は時間をもてあまして、今のような生活に憧れを抱いていたこともあったのだが、いざ当事者になったとき、昔を懐かしんでしまう。
いつだってないものねだりだ。
先日、寺沢さんが亡くなった。寺沢さんの作品のなかで、ないものでなりをくりかえしているという、自嘲な表現が頭の片隅で繰り返した。
最近読んだ本で、自分にヒットした表現。端的な判断は怠惰しているという表現。
紛争が収まらない。お互いの意見を引っ込められない。ならば原子爆弾をおとしてリセットする。弱者が虐げられてヒエラレルキーの世の中だ、ならば全部壊してリセットする。方法としては案の一つかもしれないけれど、端的だとだれもが考える。そして誰でも考えることを実行するのならば、システムなんて必要がないのではないか、核爆弾やぶちこわすのなんて、判断をするのは怠惰だという表現。納得してしまった。自分は単純なのかもしれないけれど、否定する要素はないと思っている。
考えることを放棄すれば別だけど、国民みんなが放棄するとも考えにくい。
いつの時代も引率する人が必要なのだと思うし、そいつが私ではないとかんがえている。どうしたらいいのか、もやもやした気持ちで中流階級の生活を送っている。
底辺でも上位でもない生活。生活に不満はない。社会問題は自分から観に行けば、観ることができる問題があって、どれだけの人が社会問題に直視しているのか疑問である。自分自身、無知であったと今でも思う。社会問題を議題にした本やコラムを大衆皆が目にするとも考えられない。
自分さえよければそれでいい社会。
順番が自分の意識がなくなるまで待ってくれればいいのだろうけど、そう都合がいい結末があるとは考えにくい。大概の人は辛い未来が待っているだろうと思う。
ただ、問題をとらえて、何とかしなければならない問題だという認識をもつことが未来への道のひとつだと考えたりもする。