声が小さい人がいる。私の聴覚が劣化しているという事実はある。

他人が何を言っているのか解らなくなることが多い。

私は逆に声が大きい。

なので、声が小さい人にそのことを指摘するのに躊躇してしまう。

声が小さい人と付き合うにはどうすればいいのかネットで検索してみたが。どれもこれも端的で声が大きな人の意見であった。そんな意見は求めていない。

情報があふれていて簡単に入手できる時代に、その程度かと勝手に落胆する。

自分で解決するしかない課題なのか。

 

 振り返り反省することに、声の大きさがある。

また、自分が何を喋っているのか解らなくなる時が多々ある。

他人に説明するということが苦手なのだと、最近になって気づいた。

逆に、他人の話す内容に意見することは簡単にできるのだが、その場合でも稀に何を質問で喋っているのか解らなくなる時がある。

頭の回転数が遅くて、喋ることと、考えることが同時に処理できていないのだと思っている。

対策のひとつとして、自分が喋るときには原稿を事前に用意することもあったが、

そいつを読み上げていると何を喋っているか解らなくなるときがある。

どうすればいいのだろう。緊張が与える影響も否めない。

改善したいことは沢山あって、どれも解決ができておらず頭を抱えている。

不安は本当に拭いきれない。

 

 周囲の空間が秋めいてきた。人間は自分が生まれた季節が一番すきなんだと、聴いたことがある。だからなのか、この季節が一番すきだ。

気持ちがクリアーになる気がする。

体の内側に濁った思考を抱えていても、この澄んだ季節が与える感性に変わりはない。

 

 昨日は弟と二人で、同じ県内にある城跡にいく。

夕刻に到着して、観光時間は過ぎており客足はもうなかった。

その場所は手入れされていて美しく気分がよかった。

歴史を想えば、叫びが聞こえてくるので複雑な気分になるのだが、終わった過去という形で観れば、感傷的ですごく美しいと感じる。

勇逸、その空間に異物として存在している自分の容姿が残念だと思いながら。

美しいと感じるものに直面したとき、自分の存在が醜く感じてしまい悲しくなる。

容姿に関して、自信に溢れている若者を見かけることもあるが、私の美的センスとはもちろん違うため、私の価値観に置き換えると残念である。

部分だけよくてもダメで、全体が美しくなければならない。

みんな何かしら尖っている。

 

 通常生活ではコンビニを利用しないし、チェーン店は特色を感じないからできる限り行きたいと思わない。

けれど、こうやって知らない土地にくるとき、トイレとアルコールが安定した価格で購入できることは嬉しい。ビールの種類が増えてきたのも嬉しい。

缶で飲むエールビールは、少し味気ない気もする。

けれど、食べ物もなく単体で飲むから、一番ビールと向き合っているシチュエーションなのだと考えを改める。

移動時間にビールを飲み続けることに小さな幸福を感じる。