最近わすれていた言葉を思いだした。”同じことの繰り返しで行動して、違う結果を望むことを狂気と呼ぶ”

思い返してみて、自分の周りを観察する。自分も他人も狂気の塊である。

狂気からは脱したい。成長したいという意欲はあり、少しずつの変革はしているつもりだ。小刻みすぎて自分の今の年齢には小さすぎるのではないかと思う時もある。

こんなことに年齢は関係ないだろうとも思う。体力の関係はあるだろうけど。

このように堂々巡りを繰り返して、時間を浪費していく。

 

 昼食に半生の素麺を食べた。まずくて腹が立つが、なぜなのか理由の説明はできない。誰に腹を立てているのかも不明確だ。理由もわからずに感情は動く。

例えば、これが食堂ならどうなのだろうか?店主のこだわりでわざと、このような茹で方であればどうなのだろうか?食堂は誰が食べてもおいしくないといけないのだろうか?自分のなかで疑問を繰り返す。

昔、なんの味もしない飯屋があった。

今は潰れてしまってもうない。私の知人達の誰が食べても同じ感想であった。

思い返せば、あれはお店のこだわりだったのだろうか?塩を使いたくなかったのか?しょうゆを使いたくなかったのか?素材の味をわかってほしかったのではないか?

疑問を繰り返す。今は検証することもできない。

 

 有言実行という言葉が目についた。これができる人はかっこいいと思ってしまう。

自分の描くヒーロー像のひとつだ。しかし、見方をかえれば、出来ることをアピールして過剰にアピールしている人もいるわけで、本音は伝わらない。

ただのパフォーマンスであれば、魅力はなくなってしまうと思う。

なので不言実行のうほうがかっこいい。いちいち宣言してほしくもない。

どのような状況でこのパフォーマンスを使うかによるので、どちらかの優劣はつかないけれど、自分は不言実行で行こうと思う。

アウトプットとしての文章には記録を残すけれど。

なぜなら、他人は私の結果を求めても、宣言は求めていないからであり、自足を目指すのであれば、自分を大きく見せる必要もないからである。

他人に興味をもってもらうことは嬉しい。そして必要とさせることも嬉しい。

だから自分をアピールしてきた。けれど根底には自足という言葉があり、過去はその言葉がぼやけて見えていなかったのだと思い返す。

今にしてようやく自足という言葉がみえてきたと思っている。

他人の目を気にしないというハードルはまだまだクリアーできないが。

 

 

 

 

泣かせようと作られた脚本は、単調ながら

冷静に分析した