外出しての、呑みは楽しい。
吞みの席では、高い確率で新しい他人と席を合わせることが多く、その他人と会話をしなければ、聞こえてくる会話の喋り方や容姿の第一印象でその人を決めてしまう。
自分が苦手と思う第一印象であることが多いと思う。そして、喋らなければそのままであり、そのように苦手だと突っぱねてしまう自分が悲しい。勝手に敵を増やしているので、自分で自分の首を絞めていることになる。
これは直すべき自分の傾向である。
お互いアルコールが好きであることは、共通しているのだから、結果として、会話をして打ち解けることがほとんどである。
笑顔がデフォルトである人は少ない。
皆心に想うことがあって、その態度と雰囲気を作っているのだろうと思う。
自分はどうなのだろうと振り返る。
大人になるにつれて自分をさらけ出すのを躊躇ってきている。他人を受け入れる、人の話を聴ける人になりたいといつも思っている。出来ている人は少ない。
皆、華やかな経歴やエピソードがある。隣ではしゃいでいるグループも、私から見れば華やかだ。私は一人でいる寂しさはあるけれど、喋る相手が必要かと問いかければ必須ではないし、グループに入ってしまえば、息苦しい境界線を見つめてしまう。
一人であることが行動しやすいこともある。
魅力的な人物であれば、他人は意識をする。一人で居ても誰かが意識してくれる。
そんな人でありたい。
自分の思い通りにならないことで腹を立てる。
では、自分に思いがあるのかと自問すれば、明確な思いはない。
静寂な生活、自分の望む音しか聞こえてこない世界ならどうだろうか。
どこか不安な気がする。
自分の美的センスだけの世界であればどうだろうか?
飽きてしまうのが怖い。それが世界の終わりだろう。
ごみを投げ捨てても、うまくごみ箱におさまらない。
会社は時間どおり終わる。サービス精神はない。余裕もない。
卑屈になっているわけではないが、今の給料に見合う能力ではないと思っている。
しかし、きっちり給料は欲しいし、余分に仕事をするつもりもない。会社に対して義理人情はない。会社という組織は抽象的なのだろうか。
具体的な他人。他人に対して義理人情はないのだろうか?
優しくしてもらえれば、優しく返している。これは道理、義理だろう。
久しぶりに寄った、スーパーでビーツを買う。
ビーツは土臭いけれど、つい買ってしまう。
いくらかの調理方法を試してみたのだが、いまのところ一番なのはボルシチだ。
アルコールが身体中に廻ってくると煮込み料理を作りたくなる。
食べたいという欲望よりも。美味しいものを作りこんでいるといった感想を得たいのだろう。
ただ煮込むだけなので、何の技法もない。味は毎回ぼけてしまっているのだが、煮込みという調理方法は魔法がかかっているような気がする。