語学力の向上が永遠の課題のひとつである。何時も英語を勉強しようと思い立って、即行動をとるようにしているのだが、成果を感じたことはない。振り返ると、今まで学んできた知識はどこに消えてしまったのか、不思議なくらい何も身についていない。それでも思い立ったように、勉強しようという意欲が定期的に湧き上がってくるのでしばらくは奮闘している。何度も無駄に終わる結果ばかりなので、自己肯定感が高い若者たちが優長な英語で会話しているのを傍目にみかけてしまうと、悪態をついてしまう。彼らは何も悪くないのにいい迷惑だろう。老災とは年齢と関係がないことを証明している一つだと思う。過去を振りかえってみて、はったりだけで成長してきた人生の結果だと思う。生き方を後悔しているわけではないので、過去に負い目があるわけではないのだろうが、基礎をつくってきた他人を直視できないのは、そんな歪んだ根底があるからだろう。
どんな感情をもっていても、勉強しようと思う前向きな気持ちは定期的にやってくる。そのたびに行動は起こすところは素晴らしいと自賛している。
先日申し込んだのは、グループになって勉強しようという活動である。活動指針に助けあい・励ましあいと、使いまわしで枯れてしまったキーワードを並べている安っぽさを感じさせるグループである。キックオフミーティングに参加してみて、自分をまとめられないくらい色々な感情が湧きたっている。自分とは明らかに違う種類の人間達。場違いと錯覚するような居心地の悪い空間と肯定感がにじんであふれている人達。参加したからには前向きに取り掛かろうと考えているが、何とかしなければならないのは自分のこの歪んだ考え方のような気がしている。新しい事を初めるときは、何時もこのような違和感と劣等感、差別感が支配している。希望を矢面に立ててやりたいものだが、自分の性格はすぐに変えることはできない。自分に期待できる能力は忍耐力なのかもしれない。場所が変われば忍耐力は非常に低いのだが、人は環境によって人格が変わるいい例だと思う。