最近は、自費出版のZINというのがテーマに出されることが多くなったような気がする。星の数ほどある出版物の中の数冊なので流行とは言えない事と、最新の出版物ばかり読んでいるわけではないので、世の中の流行ではない。自分がひきつけている物が、テーマにしていることなので、言葉には出さないけれど気にしているのだと思う。

 過去に一度、ZINを発行したことがあるのだが、つくったきり継続的に続けられていない。心のどこかで継続を望んでいるのかもしれない。そんなこともあって動き出そうと思う。そして、このブログも要素を加えたいと思う。加える要素は人並みなのだが、猫とアルコール。どこにでも転がっているようなテーマが浮かぶ自分は凡人なのだろう。

尖っているほうが括弧はいいけれど、生きにくいと思っている。保守的な考えの自分には、凡人がはまっているのかもしれない。

今日は休肝日なのでアルコールなし。猫の唐突な叫びに苛立つ。今、アトリエでは誰しもがピリピリしている。

 週末に他府県にでも出かけてみようと思い立つ。どこへ行こうか、何をしようかと考える。最初のうちは色々と考えるのだが、

だんだんと面倒になってくる。きっと選択肢が多いからなのだろう。自分では気づいていない優柔不断が表れているのだと考える。時間をかけたわりには、何も決まらないことに嫌気がさしてやめてしまう。だから今ではンドアの生活なのだと思う。もっと気楽に

物事をとらえて考えられる力が必要なのかもしれない。昔はもっていたのに、証拠のない回顧思考がすぐに浮かんでくる。相変わらず自分の敵は自分だ。アルコールを呑みたいのだが今日は休肝日で残念。

 

 視界を遮られるとストレスを感じる。以前は意識をしていなかったことが、最近になって具体的に意識を感じるようになってきている。直近であれば、首に巻いたマフラーである。巻き方は多岐に渡るので、人それぞれ思い描く姿は違うのだが、ミラノ巻と指定する。首に巻いた状態で地面に置いているカバンや物を取ろうと体を曲げたとき、垂れ下がったマフラーが視界を遮ることになる。

拾うもの、目標に対して身体の中央で体を折り曲げるのだから、首から垂れ下がったマフラーが視界を遮るのだ。そのことにストレスを毎回感じる。対策が出来ないのは、そのストレスは直ぐに消えてしまうからなのだろう。表現をかえれば、キレがいい。では、なぜそんなことを文章化するのか。そんなストレスが多すぎるからなのだと思う。蓄積されたガスを抜くように文章にする。健全なことではないかと自分に言い訳をする。

 時間があれば本を読んでいる割合が多くなってきたと感じる。ジャンルにこだわりはないので、タイトルなどで興味をひかれたものを読んでいる。雑誌や読書会で紹介されて興味をひかれた本はメモを取っていて、読む本がなくなったときに参照している。私が参加している読書会は、ミステリーの傾向があるようで、最近は小説を読む確率が高い。読んでみると、文学的な雰囲気よりもエンターテインメントによっていると思う。不思議なのは、読みだすと止まれないのだ。失礼な話だが飛びぬけて面白いわけではない。それでも止まれないのであれば、面白いのだろうか。ミステリーにエンターテインメントの恐怖を感じる。

 冷凍庫を整理していたら、忘れられた鴨のコンフィーが発見される。通常なら冷凍食品は自然解凍するのだが、パッケージにはこのまま熱湯に30分と書いてあるのが目に入ったのが引き金となる。頭の中にはアルコールを呑みながら鴨肉を食べるイメージに支配される。早速鍋に湯を沸かして解凍を始める。静かなレストランで鴨を食べ方ことがないのだが、皿に肉だけが乗っていることはないだろうと思い、盛り付けを考える。野菜室には人参しかなかったので、人参のマッシュを造る。鴨肉に合うソースを作ろうとネットで検索するのだが、オレンジもバルサミコ酢も持っていない。冷蔵庫にあるもので、酒粕とマスタードのソースに決定する。大きな皿の中央に人参のマッシュを盛り付け、その上に鴨のコンフィーを置く。ソースは直接かけずに、少し離れたところに落とす。

我ながら絵になる大皿の料理だと、気分をよくしてワイングラスにアルコールを注ぐ。味も悪くない。残念なのは食べ終わった姿。

ソースと脂でお皿の大半を塗りたくって、鴨の骨が残骸のように散らばっている。食べ散らかすとはこのことだと思う。もっと上品になりたい。

 

 過去の出来事になるのだが、PCのキーボードに呑みかけたアルコールをこぼしてしまったことがある。ふき取るレベルではなく、キーボードを裏返して水分をコップで受ける量である。幸いショートするなどの被害はなく、乾けば使用できていることもあり、今でもそのキーボードを使っている。しかし、テンキーの3のボタンの動きがわるい。押さえるとすぐに起き上がってこないのだ。使う度にストレスを感じるので、水洗いをしようと思い一年が経過している。PCをさわるたびにストレスを感じて、使い終わったときには忘れている。喉元をすぎれば忘れられる、そんな楽天家になりたいと思っていた。最近になって素質はあるのだと気づく。

 

 予定のない週末に仕事をしてしまう。心のどこかで、追い詰められているからやってしまうのだろうと思う。、余裕を取り戻した週明けは堕落している。余裕が作られたのだから、もっと余裕を広げるなど前に進むのは理想だ。その小さな余裕を成長させたことはない。何時も小さな余裕をつくってすぐに消費してしまう。だから何時もこの位置なのだろうと思う。確実に年齢をとるのだから、どちらかといえば衰退しているのかもしれない。過去をふりかえってみても位置が変動していないのなら、小さくても前進しているのではないかと考え直す。相殺されて同じ位置にとどまっているのかもしれない。

 自分が立っている位置なんてどうでもいいのだと思っているから、やりたくないことは極力しないようにしている。最近は知識欲が肥大してきたような気がする。それが衰退に対抗している要因の一つなのかもしれない。

 

 

 

 一日かけてつくた仕事のデータがすべて消滅する。頭の中にはひとかけらも資料になるものは残っていない。それでも仕事なのでまた一から作らないといけない。消滅した原因を追究することもなく再び下から積み上げていく。これで成長できる要素もあるのだろうが、できれば選びたくない経験である。誰かがわざと経験させているのだったら、そいつを殴ってやりたいと思うのだが、小心者の自分はそんな行動をとれないだろうと空想する。捨て台詞を吐いてその場を去る程度だろう。近年読む本はそれが一番正解だと書かれているが、己の小物ぶりに自嘲してしまう。だから、そんな場面があったら捨て台詞を吐かないでおこうと思う。もしかしたら、捨て台詞が自嘲の原因なのかもしれない。

 

 PCに集中して一日が終わる。身体が開放をもとめている感覚になる。仕事は毎日同じようなことを繰り返しているのだが、自分が常に力んでいることが判る。集中すればするほど力が込められていく。キーボードを打つ力が強まるのではなくて、身体の関節に対して圧迫を与えている感覚だ。それは面白い本に出合った時の集中した読書と同じものだと思う。仕事はしたくなくても興奮しているのかと考えると、もっと報酬を求めたいところである。最近はプロセスより結果だと言われていて、ところ変わればプロセスだという。他人に対して都合のいいように解釈が変化していくことにあきれてしまう。だから自分にもあきれてしまう。自己肯定感を高めるために今日もアルコールを呑む。

  アトリエに設置しているPCとプリンターは別々の部屋に置いてある。プリンターを何台も設置したくないので、使用頻度が高い場所に設置した結果である。譜面を大量に印刷することがあり、PCで操作をすると用紙が足りないとメッセージがでる。部屋を移動するのが億劫なので、別のことをすることにする。しばらくするとまたメッセージがポップアップする。それでも無視をするとまたメッセージ。催促にもほどほどがあるだろうと苛立ち、PCをシャットダウンしてやろうかと思ったやさきにPCがフリーズする。何度呼び掛けても応答がない人間への、次の手段なのかもしれない。これは端的だと思う