PCに入っている音楽ライブラリが消滅した。生成AIの協力を得ながら数時間頑張ったが、生成AIからあきらめの言葉をかけられる。たかが音楽データなのだが、今まで構築した時間と気力を想えばあきらめたくなかった。日ごろから頻繁に無気力状態になっているので、要素が一つ増えた程度では生活に変化はない。けれど、また音楽から遠のいてく。こうやってひとつづつ要素がなくなっていったら、最後は無気力しか残らないだろう。無敵状態だが、なりたいとは思えない。

 バンドのリハーサルが終わって録音を聴いてみる。何度聞いてみても自分の演奏はひどい演奏である。これで辞めないのが自分ながら凄いことだと思う。何年も同じことを繰り返している。何時になったらそれなりの演奏に聞こえるのだろうか。大した努力もしていないので半分狂気だろう。とりあえず練習をしようと思ったのだが、その途端に次々とやらなければならないことがやってくる。隙間をみつけて練習することも可能なのだが、その隙間にはアルコールが順番を待っている。順番抜かしは嫌な言葉なのでアルコールを呑んでまた考える。

 

 一日中仕事でPCを触って日が沈んだ頃に終了する。電子データを作成する仕事。これを仕事と呼んでいいのだろうかと疑問に思うが、自分のためではないので給料はもらう。何事も自分が望んでやることで報酬が発生するのが理想だと思う。自分の周りを探せばそんな環境の人も見つかるかもしれない。けれどそれは実はそうではないのかもしれない。個人が判断することなので真実を知ることはできないから、こんな思想は幻想なのかもしれない。理想の仕事には一生逢えない自信はある。何時も何かになりたくて、ばたばたと乱れて、ものまねだからと傷心してやる気を失ってしまう。最初の一歩を踏み出すのも年々困難になってきている。代わりにアルコールと一緒の時間は増えているから良しとする。

 

 昨日は頑張ったと自賛する。そんな次の日は、身体が重たくやる気もでないので無気力に一日を過ごすことになる。けれど本を読むことと、アルコールを呑むことは出来る。そのためなのか分からないが、自慢できるストックの量だ。買い物に出かけるのも億劫であり、身体の動作は最小限にとどめたい。未読の本は平積みで、アルコールの瓶はところどころ設置している。アトリエの中では這っていても本とアルコールは途絶えない。問題はグラスとタンパク質だろう。グラスもところどころに設置していたが、洗わないのでカビが生えてくる。食べ物も生鮮食品を無造作に置けば腐敗するし、乾燥食品ばかりだと飽きてくる。だから次の日には活力がわくのかもしれない。繰り返し。変化がある日々のように見えて同じことの繰り返し。それでいて変化を望んでいるのだから、狂気だと思う。明日は頑張ろうと思う。

 

 自分には他人に売り込むものは何もない。何もないなんて言えば、ある他人は複雑な感情になるのかもしれないし、考え方の違いによっては反感をいだくこともあるかもしれない。けれど、正直な気持ちであることは真実である。酒場に一人で赴いて、注文以外一言も話さないなんて当たり前にあるし、誰かに話しかけてもらうために酒場に行っているわけではないのだから、それでいいのだけれど寂しい感情はある。隣り合う他人の会話を聞いているとこの感情は増長する。仮に自分に会話を振られても、面白くない回答や実のある情報を提供して他人を喜ばしてあげることはできない。楽しそうにやっている周りの他人は、その場では大きくて魅力的なのだろう。事実以外を話せば大きな張りぼてを作ることも可能だと思うけれど、演じるのにもエネルギーをつかうのだから、体力の少ない自分には困難である。虚勢がばれて、がっかりされることを恐れているのかもしれない。いつまでたっても他人の評価から逃げられない自分が嫌になってしまう。逃げ切ることは出来ないのだから別の方法を考えないといけない。酒場に一人でこんなことばかり考えている。

 

 

 

 夕刻まではやる気があったのだが、なぜ夕刻になるとだらけてしまうのか。小さな一歩でも出さなければ、いつまでたってもここから動けないことは知っている。無気力な日の翌日は、自分が設定した日々のタスクをこなせている。ということは、タスクはあきらかに負荷なのだ。負荷をさけるのは体力が無いこととつながっていて、体力が消耗しているから踏ん張れないのだ。

回復方法は睡眠くらいしか思いつかない。効率が良くなるのは睡眠時間がみたされている状態だと気づいている。やりたいことは沢山あるから、睡眠時間を大幅にとることができない現実。頭の中でおもっていても実行に移すことができない。アルコールは優しい、ずっと隣にいて黙って注意をそそいでくれるから。だから回復する時間をあげよう、貴重な時間を費やそうと思う。

 

 

 

 

 

 日々の過ぎていく速度が速いと感じる。早く振り落とされれば楽になるのにと思うのだが、遊園地のジェットコースターと同じで振り落とされないように固定されている。興奮だけ与えられて何も残っていない。遊園地のようなところには長らくいっていないし、乗りたいとも思わない。日々感じる時間の流れも同じように冷静にみれたらいいのに、感情が多過ぎて一喜一憂の繰り返し。日々の生活に大きな出来事や変化があったわけではない。小さな当たり前のようなことで感情が乱れているのだ。とりえず今やっていることが終わったら、アルコールを呑もうとおもう。

 

 訃報は突然にやってくる。予想もしていないし備えてもいない。例えば病気になって床に臥せる人がいても、回復するとしか思えないし、死の匂いがわかるほど感覚も鋭くない。思えないようなところから突然訃報が届く。涙が自然と流れてくる。いまだに流れを止める方法を知らない。自分よりもっと悲しむ人を思って、そちらにも泣く。何に対して泣いているかもわからなくなる。何年も逢っていなかったのに、悲しくて、寂しい。もっと逢っておけばよかったと思わなくなったのは、大人になったからなのだろうか。

 通勤に使っている駅、利用する時間帯に駅員が常駐しなくなる。鉄道会社も不景気の気配がする。帰りの電車をまつために、ホームのベンチに座り、質素な風景に目につくのは利用者によるごみ。校内にゴミ箱を設置しなくなったから、持って帰れない容量の小さい人はそこに放置していくのだろう。背負っているものが大きいのかもしれない。どんな気持ちなのか昔の自分にも聞いてみたい、こんなにひどくはなかったと自我を庇うが、程度の問題でもないので同じ種類の人間なのだと思う。

 以前は駅員が掃除していたのを見かけたことがある、それがなくなるからホームはゴミで埋め尽くされるかもしれない。ごみを捨てた人は自分の作品を見てどう感じるのだろうか。機会があれば聞いてみようと思う。

 

 

 

 焚火をしたいと思い立ち、中庭でキャンプ用品を広げる。数年前に購入して使いきれなかった薪もあり、あらためて買い物に出る必要もなかった。道具が不足していたら、ホームセンターは時間帯を気にしなくても混雑することはないのだが、近隣にないことから買い物にいくのに億劫なってしまうだろう。また、ネットで注文することもできるが、早くても次の日になってしまい、日が変われば気持ちは萎えていただろう。もしかしたら、焚火をすることは決まっていたのかもしれない。

 薄暗くなったころに火をつける。炎が揺れるのを見ながらアルコールを呑む。最近は、いろいろと心が揺れることが多かったのだが、そんな気持ちを一時だけ忘れさせてくれる。昔、こんな小説を読んだことがあることを思い出す。作者もタイトルも、内容も思い出せないのだが、焚火を囲むことだけは覚えている。時間をかけて本棚を探せば見つけられるかもしれないが、明日になればそんなことも忘れてしまうだろう。嫌な記憶は覚えているのに、選べるなら小説のほうがいいと願う。