語学力の向上が永遠の課題のひとつである。何時も英語を勉強しようと思い立って、即行動をとるようにしているのだが、成果を感じたことはない。振り返ると、今まで学んできた知識はどこに消えてしまったのか、不思議なくらい何も身についていない。それでも思い立ったように、勉強しようという意欲が定期的に湧き上がってくるのでしばらくは奮闘している。何度も無駄に終わる結果ばかりなので、自己肯定感が高い若者たちが優長な英語で会話しているのを傍目にみかけてしまうと、悪態をついてしまう。彼らは何も悪くないのにいい迷惑だろう。老災とは年齢と関係がないことを証明している一つだと思う。過去を振りかえってみて、はったりだけで成長してきた人生の結果だと思う。生き方を後悔しているわけではないので、過去に負い目があるわけではないのだろうが、基礎をつくってきた他人を直視できないのは、そんな歪んだ根底があるからだろう。

どんな感情をもっていても、勉強しようと思う前向きな気持ちは定期的にやってくる。そのたびに行動は起こすところは素晴らしいと自賛している。

 先日申し込んだのは、グループになって勉強しようという活動である。活動指針に助けあい・励ましあいと、使いまわしで枯れてしまったキーワードを並べている安っぽさを感じさせるグループである。キックオフミーティングに参加してみて、自分をまとめられないくらい色々な感情が湧きたっている。自分とは明らかに違う種類の人間達。場違いと錯覚するような居心地の悪い空間と肯定感がにじんであふれている人達。参加したからには前向きに取り掛かろうと考えているが、何とかしなければならないのは自分のこの歪んだ考え方のような気がしている。新しい事を初めるときは、何時もこのような違和感と劣等感、差別感が支配している。希望を矢面に立ててやりたいものだが、自分の性格はすぐに変えることはできない。自分に期待できる能力は忍耐力なのかもしれない。場所が変われば忍耐力は非常に低いのだが、人は環境によって人格が変わるいい例だと思う。

 

 

 絵を描いて本にしようかと計画している、行動にうつせればいいのだけれども腰がおもたい。元気の隙間を見計らって、ネットショップで画材を注文したが誤配送で商品届かず。返金だけされてふりだしに戻る。何時だって新しいことをしようとしたら、すぐにハードルはやってくる。体力のない私はすぐにばててしまいリタイヤ。新しいことを始めるには、エネルギーが必要であると思い知る刹那である。ハードルはよほど私の事が好きなのだと思う。

とりあえず呑んで、アルコールは止まらず酩酊で一日が終わる。日々このような生活をしていては駄目だと思い、脳内会議を開催する。何が駄目なのか証明できずに、保守派に変革派はへし折られる。
 日本酒が呑みたいと思い、近くの食料品店をのぞいてみようかと思案するが、わずか5分の移動が億劫である。部屋の中には読みたい本が平済みで、観たい映画のDVDも平積みで膨れ上がった塔は今にも倒壊しそうである。資本社会のディストピアを模した小さな世界を再現している。なぜ動けないのだろうか、何時も答えを導くことができずに、とりあえず呑んで酩酊を繰り返す。

 

 毎朝起きて最初に瞑想をしている。その日は体調がすぐれないと感じ、一日の予定すべてキャンセルする。その日を休養にあてようと思い、平積みの本を取って読みだす。読みだして頭に浮かぶ言葉は、とりあえず寝るべきである。ベッドに横になり睡眠時間を稼ぐ。睡眠時間は大切だと思っているけれど、やりたいことは沢山あり消化していくには睡眠時間を削っていくしかない。削りすぎると、このように付けが回ってくる。もっと活動したいけれど、体力のない私は他人と比べて活動できる時間が短い、ハートの器を増やす活動をしなければならない。そのためには睡眠時間を、、まるで駄目な思考である。

目が冴えてしまったので邦画を1本見るが、現実をリアルに描いていて恥ずかしくなって観るのを途中でやめる。その点洋画は、どんなに日常を描いていても私にとっては非現実である。

 

 

 朝食にシジミ汁をとるという習慣は身についたと思う。インスタントだけれど、身体にいいと思い込んでいる。インスタントの何がすばらしいかは、調理時間がないことである。お湯を沸かすだけで、注いだ後に3分待つこともないのだから。週末は朝起きてやりたい事が沢山あっても、やる気が起きない。イベントの日であってもやる気が起きない朝もある。そんな無気力でも朝食をとることができる。何も考えずにお湯を注ぐだけで、切ったり盛ったり、外観を彩ることも不要。

週末に習慣づいた事がもうひとつある。早朝のウォーキング。朝起きてシジミ汁を飲んで、歩きに出かける。コースも決まっていて、最後に階段を昇り降りする。足腰に不安を感じることで導入している。1段15cmの階段を136段。計算すると204Mの高さを昇り降りする。一往復だけれど、ちょっとしたランドマークタワーを昇って降りている。何時も心に否定的な意見があって、1週間に一度程度のトレーニングは時間の無駄だと囁いてくる。血肉になるかどうか、科学的に証明されているかもしれない。賢い人達は効果における損得を考えるだろう。自分は考える能力がないのではなくて、考えたくないから行動しているのだと思う。この程度のトレーニングだけではボクサーのような肉体は得られないことは解っている。

他人が一日で出来ることを、何日もかけて実行する。自分の能力を他人と比較することが無駄なことは、理解しているつもりだけれど何時も悲しい。毎日自分のために実行している習慣が、実って何になったのか解らない。期待をしているわけでもないので、結果が欲しいわけでもない。ただ継続するものが欲しかったから、沢山集めた結果が現在である。だからもう得られていることになると思う。

 

 最近日本酒を呑む機会が多くなっている。酩酊率も高く再現性は高い。酒蔵の人と直接話ができるのも興味深く、日本酒にひきつけられる要素のひとつだと思う。話をきけば、自社製品に愛情をもっていると感じてしまう。売れればいいだけという影はみじんも感じない。商売を考えたときに、もっと売りあげを上げる方法はあるように思う。そうしないのは何故なのかわからないが、プライドのようなものが根底にあるのだと思っている。勝手に想像して羨ましく思う。

私は比較的大きな会社に所属している、色々な考え方の人がいる。皆同じ方向を向いてはいない、その中で私も他人と違う方向を向いて仕事をしている。

 

 駅のホームで遅延した電車を待っていると、通学中の学生集団とタイミングが重なる。仲間同士でじゃれあいながら、さわいでいる。体が疲れていたので、ベンチに座って本を読んでいるのだが、隣の席で周りが目に入らない興奮した学生達のはしゃぎぶりが、若い自分を振り返ってみているようで辛く、うざったらしい。どうしたものかと考えてみたが、イヤフォンの嫌いな私は移動して離れるしか思いつかなかった。そんな日に限って雨が降っていて、学生の集団がいないホームの先端には屋根がないのであった。学生達を憎むのは筋違いであると、脳内会議では可決されている。

 

 自分が目指している人物像はいまだに抽象的である。そのくせ振り返って反省ばかり自嘲している。正直この反省が辛い。

家の外でアルコールを呑むと量と比例して自分のリミッターが外れていく。古いアニメでヒロインが男性キャラにむかって”おしゃべりな男はみっともないわ”と叱咤するシーンを今でも覚えている。ヒロインに認められたいわけではないが今でも記憶に残っていて、街でアルコールを呑んだ次の日にこのセリフを当て嵌められる。

寡黙な人物になりたいわけではない。色々な人と楽しく会話したいと思っている。他人と交流する以上この反省はついてまわるだろう。だからアルコールを呑んでいないときから、自分の表現は気にしている。すぐに忘れて気を抜いてしまうけれど。

 家の外で見かける鳥と猫にラブコールを出すようにしている。いつか彼らと一緒に、アルコールを呑み歩くことができればどんなに人生が楽なのかと思っている。人間世界の通貨がないのであれば、私が皆の分払ってあげてもいい。

鳥は焼き鳥屋でどんな思いで食べるのだろうか。姿形が違っているから気づかないだろう。猫は頑張って手を使うことができるだろうが、鳥は手がない。

猫も構造上、箸をつかうことはできないだろう。彼らのために専用の義手を作ってもいい。他人がみたら動物虐待だと騒がれるのだろう。

 我が家の生活に余裕のある猫達とも、まだ一緒に飲んでいない。アルコールの味を知らないせいか、まったく興味を示さない。彼らのためにも上質なお酒を仕入れてもいい。これも他人がみたら動物虐待だと騒ぐのだろう。

何者も嫌がる姿は観たくない、人間含めて強制することはないだろう。ただ服を着るまでは少数なりにも普及している。そのうち手を使うようになって、一緒の食卓で晩酌を楽しめる時代も来るのではないかと思う。

 

 一人で胃袋に何かを詰めたいときは、ラーメン屋にいくことが多い。

先日いった先では、大盛、特盛無料と張り紙が貼られていて、迷った結果大盛を注文する。私の胃袋は決して大きいほうではなく、並盛または小盛で十分満腹感を得られる体なのだが、脳が得だと判断してしまうと欲張ってしまう。結果残すことは無いのだが、無理して食べることになって辛いおもいをする。食に関しては、何時も何度でも繰り返されて、学習することはない。頭が悪い人の考え方だと何時も思っている。

賢い選択が出来る人になりたいと思うのだが、賢い選択とは何だろうか。

 

 一人で行動するひとつに美術館がある。先日も時間があったので美術館に行くと、特別展を開催していて、興味があるわけではないがチケットを購入する。そのアーティストに、興味を深く感じたりインスピレーションを感じれたときは心躍る。世界的に有名なアーティストの展示には集客が期待できるし、物販にも力が入っている。いろいろな人がかかわっているから、物販の売り上げも大切なのだろうと思う。作品を満喫し、展示室の出口に物販があるので、皆財布が緩むのかもしれない。そのアーティスとのファンには、まったく見えない女性客二人組のグッズの買い方はすごかった。クッキーが入った箱を何段も重ねて、ざっくり計算で数万円やわとはしゃいでいる。地方からの旅行客なのかもしれない。私も心躍ったときはポストカードを買うようにしている。単体で買おうと吟味していると、周囲が視界に入らない女性が横から、セットのポストカードをごそっと買っていく。その女性の部屋はどんなことになっているのだろうかと、勝手に想像する。東京などの大都会になれば、特別展の入場に何時間も待つと聞いている。並んでまで観たいものがある人であるれかえっている、都心部に住むと芸術に貪欲になるのかもしれない。

時間があったので常設展ものぞいていく。特別展は人がにぎわっているのに、常設展は貸し切り状態である。美術館にはこれを求めて通っているのかもしれない。贅沢な時間の一つだと想っている。アルコールをサーブしてくれるサービスがあればいいのだが。

 

 チェーン店より個人店が好きだ。手作りであるほど好きであり、通うように努力しているほどである。近年は電子マネーが普及してきたのだが、個人店ではまだまだ現金が必要である。

安定した収入がある身なので小銭に困ることはないのだが、先ほど財部をのぞくと

現金が入っていない。銀行のATMに行くのは面倒であるが、背に腹は代えられないので時間を作る。最近は銀行口座とスマートフォンを連動させることでATMの手数料が安くなるなど、アプリを普及させるために色々な仕組みがある。小さな手数料を節約するために、アプリの設定で1時間経過である。便利な機能は多岐にわたって、いろいろな物事に連携しつづけていく。小心者なので抽象的に不安である。ガラパゴス化していく高齢の方たちにも同情してしまう。

時代の流れには無頓着なのだが、呑みに行けるように準備することには努力を惜しまないのかもしれない。とりあえず明日は呑みに街に出る。

 

 

 

 

 気分が高揚してくるとアルコールを呑むペースに加速がかかる。そして記憶がなくなってしまうのが常である。気分が高揚するのは他人と呑んでいる時なのかと思い返してみるのだが、一人で呑んでいるときも興奮するときはある。作った肴があまりにも美味しかった時、観た映画や聞いた音楽のセンスが自分好みすぎた時、アルコールに旨味が増すわけではないが、ペースに加速はかかっている。インプットする物事に集中しているのだが、作業しているわけではないから口と手は空いている。では他人といるときになぜペースに加速がかかるのか、喋っているのであれば口は空いていない。聞き役なのだろうかと振り返ってみるが、どちらかといえばお喋りなほうである。振り返ってみると、他人との会話の合間に息継ぎのようにアルコールを挟んでいるから、呼吸の回数グラスを口に運んでいるのだ。どうりでペースが速いわけである。アルコール分解能力が低い私は、そうそうに潰れてしまうのである。

 

 友人と夕刻に呑みにいく約束をする。同日の昼間に映画館でイベントがあり、興味があるので参加しようと考えて昼間から街に繰り出す。問題は隙間時間の過ごし方である。自分が行く先はアルコールがある場所ばかりである。呑み屋を経由しながら時間を過ごす。待ち合わせの頃には泥酔状態である。そして会話は盛り上がり酩酊状態である。友人と会ったことは記憶しているのだが、どのような形で別れたのか全く記憶にない。そして自宅のベッドに寝ていて目が覚める。すばらしい本能であるが、記憶がないとは恐ろしいことである。出来る限り振り返らないように、何事もなかったように今日もアルコールを呑む。

 

 

 

 

 ネットのニュースは理不尽なニュースであふれかえって、映画をみていても理不尽なストーリで、街に出たら理不尽に思えるようなふるまいをする人達が目に入ってくる。どうしたら私の精神は安らぐのだろうか考える私は暇人なのだと、おいうちをかけるように自分の首を絞める。どうすれば自身の感情を穏やかにすることができるのだろうか、答えは簡単でインプットを辞めればよいのだが簡単ではない。

 

 映画の趣味は雑食でどんなジャンルでも観る。最近連続して観ているのはホラー映画である。さらにカテゴリーは分れていて、サスペンス・スプラッタ・ミステリーなど、ホラーといえども説明しなければ他人には伝わらない。好んで観ているのは70年から80年代の作品なのだが、先日観たは90年代である。映像や描写の技術が近代化されてきているのだが、立派なスプラッタ映画であった。シリーズであれば体力が続く限り観るようにしているが、シリーズ化されたものに拍手を送ったことはなく、全体をとおして疲れた苦話しか出てこないような気がする。90年代になると次回作の伏線を張った映画の作り方が多く、まだ引っ張るのかと、芸術作品からかけ離れていくような俗物的な気持ちが浮かんでくる。今回鑑賞した映画は監督が2作目の制作後亡くなっているようなので、正統な続編はないのだろう。暴力的な映画であったので、それでよかったのだと思うのは自分勝手だと思う。

どんな作品であっても、観終わったあとにエゴサーチをして他人のレビューを読むことがおおい。これは他人の意見と答え合わせをしているのだと思う。気持ちがブラックになりすぎるので、ハートウォーミングな作品を間に挟んだのだが、ささくれた気持ちは単純に感動を与えてくれない、歪んだフィルター越しに作品を観てしまう。単純に感動するのも騙されたようで、感情が波経ってしまうと身体が拒否しているのだろうと思う。

 

 同人イベントに参加してみたいと思う気持ちが最近高まっている。参加するには自分も出力できるものを用意する必要があると考えている。自分はどのような作品を作って持っていくか、アイデアは浮かんでくるので後は実行するのみである。そんな脳内会議を数年も続けている。この作品を作るというプロジェクトに関しては会議室を出た事はない。しかし、最近になって私の周囲が影響を与えてくれるようになってきた。自分の行動の変化が、そのような刺激をもらえる環境に結びついているのだ。私の本質には、行動力があると思っている。考えるより先に行動してきたが、いつだって出る杭を打つ者に止められて、それが続いて今の環境に収まってしまっている。今行動するときである。そのためには、、と考えるのは悪い兆候である。

 体力の衰退に危機感を感じるようになってきたので、週末はウォーキングを再開するように考えていた。再開を検討して1か月、ようやく実行する。習慣化するのはすぐなので、少しは体力の幅を広げられると思う。先日古いボクシング映画を観た、単調な作りの映画なのだが、盛り上げ方が好きで気持ちが高揚する。公開から40年くらい寝かせてみると、その時代の街並みを描写しているだけで立派な資料だと思う。ボクシングに憧れがあった、今は身体的に絶対不可能である。仮に病気にならなかったら現実になったのかと自問しても、殴られるのが嫌なので選択していないだろう。ボクサー的な肉体を作るだけなら出来るのだろうが、ウォーキング程度のトレーニングだけでは現実しないことも解っている。そんなことを考えながら、鳥の囀る朝に136段の階段を昇って下を見下ろしている。せめてジョギングなら、映画のワンシーンに入り込んだような気持ちになれたのかもしれないが、周辺でジョギングしている老齢の男性達のほうが健脚である。

 

 ステージで演奏する機会があり、曲によっては暗譜しないといけない曲もある。楽器の演奏は身体にしみ込んだ癖をつかって、譜面が無くても演奏できる曲がある。あらためて暗譜するというのは、すごく難しくてステージに立つと忘れるのが常である。そんな時、プロじゃないんだからとか言い訳を自分にして、適当にごまかしているは悪い癖である。今以上成長しないことを自分で制限している。いつだって向上心は持ちたいと思う。朝昼晩同じフレーズと音符をくりかえし練習する。効率のいい暗記はどんな方法だろうか、楽な方法を検討しながら、繰り返し練習する。

 

 古本をネットで購入したのだが、角が立った新品と思えるような古本が3冊届く。

このレベルの本が常に手に入るのであれば、もっと利用したいと思えてくる。ニッチな本であるがこそのコンディションだろう、そもそもなまじファンが専門書を買うのか?という疑問がある。話題や評価もされない専門書はニーズに限りがあると思っているのだが、間違いなのだろうか。私の知らないところで評価されているのかもしれない。世界は広大だと感じる瞬間である。

購入やレンタルする量と、読むスピードはバランスがとれいない。そうなるとレンタルは返却期限があるので、購入の割合が増え、蔵書があふれる結果となる。

人生を全て使っても全部は掃けない。卑しい私は上質なものだけを望むのだが、簡単にそれが選択できるわけでもない。自分の感性を信じるしかないのだろうと、平積みの上から消化していく。

 

 

 公共の場に出ると理不尽に感情を乱す時がある。家の外に出なくても理不尽を感じることもあるから、確率として確実に上昇するということになる。自然現象や生理現象に感じる理不尽はあっさりしていても、他人に感じる理不尽は粘りがあって濃い口である。理不尽に感じたからといって加害者に対して反撃したり、威嚇したりしても更に心を削るだけで何のメリットも見いだせない。基本的に口を閉じるように心がけている。我慢して耐えているだけであって、いつか心が決壊する時があるその時を不安に思っている。フラストレーションが増えたら少しずつ減らして、許容量をこえないようにコントロールしている人もいるだろう。そんな器用な人は長持ちするかもしれないが、一瞬で決壊する人もいる。いずれの場合も結末は決壊するしかない。人それぞれに許容量の差はあるだろうけど、その差は微々たるものだと思う。日々すれ違う他人に色々な感情を抱き、その人に気持ちを伝えることもなく、自分ひとり勝手に憤っている。そんな感情は、自分以外知る由も知らない。私の存在すら気づいていないかもしれない。私の目立ちたがる行動は、こんな背景を根底に持っているのだと思う。皆に認識してもらいたいのだろう。

仕事や街中で理不尽な場面に遭遇したとき何度も振り返っているのだが、進歩していない。

 

 強い雨が好きだ。もちろんデメリットのほうが多く、自分が濡れたりするのはすごくストレスである。けれど雨はいい天気だと思える気持ちはある。それは自分が映画の登場人物のような感覚なのだとおもう。具体的な映画作品があるわけではないが、抽象的なイメージでそう感じている。雨をテーマにした映画作品は多数あって、いずれも上質な作品だと自己評価していて、映画における雨にはネガティブなイメージがない。映画の主人公に自分を重ねているのではなくて、スクリーンに映る空間に自分を登場させるイメージを重ねているのだと思う。

先日、酒場で呑んでいたときに雨が降り出して、それをネガティブにいう客がいた。雨を被害と被る人には、筋のとおった主張である。私も濡れて帰ることになるので被害者であることは同じ。けれどその時もネガティブには思わなかった。

なぜなら心に余裕があったのだと思う。

 週末が晴れたときはなぜか嬉しい。出かける予定がないときは家に籠っているのだが、自主的に出かけようという気分になる。結果として出不精な気持ちが勝ってしまい、出かけないのだが。ポジティブな精神が生まれることに、未来に少し希望が持てる。歴史を振り返ってみても、暗黒時代の中にはいつも白い光がある。同じ時代が永遠に続くことはなく、白い光がひっくり返すことになっている。何年かかるか解らないが、出不精な気持ちをひっくり返す時がくるのだと希望に思う。100年もかかったら、私はもういないけれど。

 

 最近うまくいった料理は白身魚の酒蒸しである。簡単な調理で料亭の気分がそれなりに味わえる。アルコールは日本酒がいい。単品で呑むのも好きなのだが、料理に併せて呑むのも気分が向上する。しかし、私が住んでる周辺エリアには魚屋がなく、買いに行くには出不精な精神と戦わなければならない。仮に戦いに勝って鮮魚を仕入れにいったとして、週末の交通渋滞と市場の人だかりに体力を消耗して、やる気がなくなってしまうだろう。だから、、、このように考えさせられるのが出不精の弁論なのだと分析している。誰か釣れたての魚を土産に、遊びに来てくれないかなどと非現実な期待をいだいている。

文章に出力すれば、買い物に出かけられるかと期待したが、経過時間と比例して気持ちは萎えてゆく。今日は美容院の予約を入れているから、行かねばならない。魚屋も予約をいれておけば出かけられるのだが、料理したいものはその時の気分で移り変わりやすいもので、予約を入れて縛られるのは嫌だ。

 

 書斎のデスクの上には、ルービックキューブが置いてある。借りてきた新しいCDを聴きながら、手持ち無沙汰に久しぶりに触ってみるのだが、まず1面をそろえるのがすごく時間がかかる。次に2面めを挑戦しようとするのだが、やる気はなくなってしまっている。集中力と脳をつかったからだ、この程度で疲れてしまう脳に現状と将来に不安を感じてしまう。過去に”脳トレ”というブームがあったのだが、一過性の流行だったと思い返す。脳も筋肉と同じで使わなければ劣化してゆくだけである。みんなそのことにはきづいているのだが、トレーニングは続かない。楽を選択して転がらないストイックな人は存在している。トレーニングが続く期間も人それぞれなので、比べるものではないことも知っている。やはり自分の敵は自分なのだと思う。