~アラフィフ親父の「日本蜜蜂」奮闘記~ -31ページ目

~アラフィフ親父の「日本蜜蜂」奮闘記~

私、「toratoralion」=tora=飯田友一が、「日本蜜蜂」で養蜂を始めた日々を綴ります(*^o^*)

皆さん、こんにちは!

それでは、今回はミキティさんのコメントに対する私の見解を掲載させていただきます。

まず、再度ミキティさんからいただいたコメントを以下にコピペいたします。
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生きる=自分の存在をしっかり認識すること。

たしかに 間違ってない。。。

でも わたしには謎があります

認知症の母は 自分の存在を認識できているのかしら?
幸せを感じることがあるのかしら?
自分の世界を作ることは?

こんな 認知症の人の生きる意味はなんなんでしょう?

今 そんな母に会いに行くのが辛くてなかなか行けない私です(+o+)

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それでは以下に私の見解を掲載させていただきます。

例えば、赤ちゃんは自分が何者であるかを自覚し、自分が幸せであるかどうかを感じているのかということを考えてみましょう。

赤ちゃんは、自我が芽生えるまでは、「自分は何者か?」とか「幸せか?」と考えることも、感じることもない状態と私は認識しています。
逆に「全てが自分」の状態です。この状態こそ、「大いなるものと一つ」、「ワンネス」、「本来の我」と言われる状態と言えるかもしれません。
この赤ちゃんの状態こそ、「悟り」の状態と言えると私はとらえています。

この状態から、人は成長するにつれ自我を芽生えさせ、「あ~でもない、こ~でもない」という分離感覚に満ち溢れた人生を歩みます。そして、エゴに満ち溢れた状態のまま生きていく訳です。

翻って、「認知症」の方を考えた場合、医学的には「認知症」の状態をいろいろな段階に分類したりするのでしょうが、「魂」という視点に立った場合、まさに「本来の自分に還っている」状態であると言えます。ある意味、「赤ちゃん」と同じ状態です。言い換えると「生きることを生きている。」状態です。

では、この状態で、「幸せか?」ということになります。

すると「幸せ」とは何か?を探求する必要が出てきます。
・「お金をいっぱい持っていれば、幸せか?」
・「世間的に成功者と言われれば幸せか?」
・「立派な家に住んでいれば、幸せか?」
・「高級外車に乗っていれば幸せか?」
・「玉の輿に乗り、しかもイケメンだったら幸せか?」
なんてことを考えると、普通、人は「この状態になったら幸せ~!!!」などという砂漠の先にオアシスを探し求める幻想(オアシスにたどり着いたら、単なる蜃気楼だったと気づくような・・・)に取りつかれているのではないでしょうか?別の言い方だと、「幸せの青い鳥」を常に追い求めているような・・・

例えば、あなたが不幸のドン底にいると認識している人に「あなたは、間違いなく不幸ですね?」と質問しても、その人が、「いや~、私ほど幸せな人間はいないよ(^_^)v」と感じていれば、幸せなんです。

もっと別の言い方をすれば、「幸せも不幸」をなく、その「状態」に意味付けする「人」がいるだけです。
さらに言うと、「人生そのものには、意味も意義もない」ということです。

先日、話の流れで、後輩に対して「いいかい、耳の穴をかっぽじって、よ~くお聞きなさいよ。特別に人生の秘密を教えてあげるから。(^_^)v『実は人生そのものには、意味も意義もないだ』わかるかい?」と言ったところ、後輩はドン引きでした。(←約100mくらいドン引き)
「人生そのものには、意味も意義もない」という言葉だけをとらえると、「はー?何いってるの?」というような前述の私の後輩の反応が普通だと思います。

それでは、この「人生そのものには、意味も意義もない」ということを私の実際の体験を踏まえて、説明させていただきます。

せっかくなので、「認知症」に絡めた話しを書きます。
約35年前、祖父が認知症になり、約6年間、家族内は、大変な状態でした。家で母が介護していたので、家族団欒などというものは、殆どありませんでした。

幼かったこともありますが、「早く、亡くなってしまえばいいのに!」と思っていました。そうすれば、元通りの家族団欒が戻ると考えたのです。
祖父が亡くなったときは、正直「うれしかった!」です。

しかし、その後、お通夜の席で、血もつながっておらず、一番介護で苦労したはずの母だけが号泣している姿を見るにつけ、「あ~、自分の考えは間違っていたな~」と幼いながら、頭とハートで感じることができました。

では、ここで私の心情が変化したのは、祖父が亡くなる前の状態が過去に遡って何か変化したのかというと、そうではありません。
単に「ことが起っていた」だけです。そして、その「起こっていたこと(祖父が認知症である状態)」に対する私のとらえかたが変わっただけです。

「起ったこと」自体に意味も意義なく、「起ったこと」に対して、意味付けしていた幼い私のとらえ方が変わっただけです。

同一人物が、ある事象に対する意味付けをしても、時の変化によって、その意味付けが変化します。
ましてや、人間が100人いれば、ある事象に対する意味付けは、100通りあるのです。
そういう意味で、「人生そのものに意味も意義もない」という表現になる訳です。



最後に私の考えを箇条書きにしますと、

・「認知症」の方は、「悟って」いる人である。
・ 人生そのものに意味も意義もない


だからこそ、
「今、この瞬間を精一杯感じて、生きよう!」
ということが言いたいことです。

私の本日の見解は、ミキティさんが思っていること、感じていることを否定している訳ではありません。世の中の根本原理、「神の視点」から考察すると、こんな考え方もあるということです。
そして、最後にミキティさんはじめ、皆様のコメントによってこのような「場」が形成できたことを深く感謝いたします。

まさに「魂の交流」ではないかと感じました。
今後もこのようなコミュニケーションを皆様とできたら、幸せです!!!













皆さん、こんにちは!

前々回のブログ記事で、「『生きる』ってなんだろう?」ということについて書きました。

この記事にコメントいただいた方々(→宮沢法義さん, 哀神 龍さん, BridalOutemachiさん, ごうさん, megさん, tuneさん,  ミラクル☆Rayあまてるさん, ミキティさん, )あらためてありがとうございました。

その中で、ミキティさんからいただいたコメントをそのまま以下に引用させていただきます。

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生きる=自分の存在をしっかり認識すること。

たしかに 間違ってない。。。

でも わたしには謎があります

認知症の母は 自分の存在を認識できているのかしら?
幸せを感じることがあるのかしら?
自分の世界を作ることは?

こんな 認知症の人の生きる意味はなんなんでしょう?

今 そんな母に会いに行くのが辛くてなかなか行けない私です(+o+)

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確かに「認知症」の方は、どういう状態なんだろうか?という視点を私は全く気付きませんでした。

私も幼少の頃、(約35年前)、まだ「認知症」という言葉もなかった時代に祖父が認知症になり、その家族の大変さ、やりきれなさを身をもって経験しています。それ故、ミキティさんのコメントは他人事ではないという気持ちが正直なところです。

私なりの見解は既に手元に書いていますが、広くいろいろな方々の見解を聞いてみたいと思いました。そのほうが、ミキティさんにとって最善のアドバイスを見つけられるような気がしました。

このミキティさんのコメントに対するご見解をみなさんからいただければ、幸いです。私の考えは、次回のブログ記事に掲載させていただきます。
私の見解は、「それでは、赤ちゃんはどうなんだろう?」という視点で考えてみました。

皆様、何卒よろしくお願いいたします m(__)m



みなさま、こんにちは~!

最近、ボーっとしているときに「あっ、これブログに書こう~」と思いつくことが多いです。

ただし、「ボーっとする」にもどうも2種類あるようで、「単に怠惰から起こってくるボーっとしている状態」と「何か根源とつながっているようなボーっとしている状態」の二つです。

この二つの違いは何か?というと・・・




実は、未だよく分析できていません。


ということで、「単に怠惰から起こってくるボーっとしている状態」と「何か根源とつながっているようなボーっとしている状態」の違いはどこから出てくるおわかりになる方がいらっしゃいましたら、コメントいただけると幸いです。

それでは、本日はこのあたりで・・・
ごきげんよ~





皆様、こんにちは!

昨日のブログ記事で、「生きるってなんだろう?」ということに関して、感じていることを書いたところ、皆様から多くのコメントをいただき、本当にありがとうございます!

ただ、ただ、感謝!感謝!感謝!です。

独り言のようなつもりで書きましたが、真剣にそれぞれご自分のお考えを書いていただき、予想外の展開に正直驚いています。

このような雰囲気で、今後ブログを続けられればいいな~と、ちょっと目をうるませながら思っています。

コメントいただいた皆様、そして私のつたない文章をご覧いただいている皆様、いつも本当にありがとうございます。

この今の私のうれしい気持ちを皆様と共有させたいただく、取り急ぎ記事をかかせていただきました。

今後とも、ご指導、ご鞭撻よろしくお願いいたします。

皆様、こんにちは!

先日、阿部敏郎さんと雲黒斎さんの「降伏のススメ」というDVDを観たことをブログで書きましたが(過去記事は、→こちらから!)観終わったあと、あらためて「生きる」ってことは何だろう?ということを感じてみました。(←「考える」ではありません。)

古来から人間は、「生きる意味と意義」を「考え」続けてきました。それが、哲学であり、宗教であると思います。でも、私が思うに「考え」ても答えは出てこないのではないか?ということです。「考える」のではなく「感じる」ことが大切なんだと思います。(いつものお約束ですが、映画「マトリックス」のモーフィアス曰く、「考えるな!感じろ!」ということです。)

で、私はどう感じたかといいますと、以下に列記します。

・「いまここ」に生きるというのは、自分の「存在」をしっかりと認識すること。
・「悟る」とか「目覚め」とかは、ちょっと横に置いておいて、今の「幸せを感じ尽くす」ということ。
・自分の世界は自分が作り上げているのであり、誰のせいでもなく、自分自身に全ての責任があるということ。
・自分に対する絶対的な信頼感があること。

まあ、こんなことを引き続き、つらつらと書いていこうと思います(^_^)v

今後とも、皆様よろしくお願いいたしますm(__)m





皆様、こんにちは!

先日、阿部敏郎さんと雲黒斎さんの講演DVD「降参のススメ」を観ました。

観終わった感想は、「う~ん、いい!!!」これです。


DVDの中で、お二人はこの世の仕組みとか「悟り」「目覚め」に関して話していらっしゃいます。
(お二人のことをご存知ない方は、是非お二人のブログ→「いまここ」、「あの世に聞いた、この世の仕組み」
をご覧ください。)


それで、このお二人の説明が実にわかりやすいんですね。
「あ~、なるほど!!!」とか「そういう説明があったか!!!」という感じです。

私がお二人が好きなのは、基本的に体験に基づいた話であること、それからどう表現したら受け取る側がわかりやすいかを考えて表現なさっているところです。


機会がありましたら、是非皆様もご覧ください。

お薦めです!!!
皆様、こんにちは~!
ちょっと、ブログ更新をさぼっていました・・・

さて、今日は、「常識を疑え!!!」ということについて、書きます。

以前、息子と北京に行ったのですが、最終日に北京の印象を息子に聞くと、
「なぜ、中国人は、信号を守らないんだろう!信じられない!!!」というコメントがありました。

それに対して、私は「オマエ、馬鹿だな!世界中で、信号を忠実に守るのは、日本人だけだぞ!」と言いました。私のコメントをきいて、息子はどうしても納得できない様子でしたが・・・

私から言わせると「日本の常識とらわれている」息子が小学5年生のときのことを今日は書きたいと思います。

「常識を疑え!!!」という言葉を思い浮かべると私はいつもある光景を思い出します。

それは、息子が小学校5年生のときのことでした。
(既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、息子には小学校1年生のときから「シュタイナー教育」を受けさせています。)

ある時、父親の有志が集まって、子供達の野球チームを作ろうということになりました。早速、グラウンドを借りて練習をしようということになり、父親五名くらいと子供15名くらいが集まりました。

まず、準備運動をし、その後身体を温める為にグラウンドを何周かランニングすることになりました。準備運動までは特に何も起こらなかったのですが、ランニングを始めた途端、父親全員の目は「点状態」となりました。

先頭に立った父親が、「じゃ、皆んな行くよ~」と言って走り出しました。通常、何の疑いもなく、その父親に皆んがついて行くことが私は「普通」と思っていました。(思っているということも意識しないくらい常識という感じです。)

が、しかし、そこで繰り広げられた光景は・・・

・ある子供は、先頭の父親とは逆の方向へ、全速力で走り出しました。
・別の子供は、その場でバレリーナのようにクルクル回りつつ、少しずつ移動しています。
・デングリ返しをして、グランドをまわろうとしている子供もいますし、
・暴走族のようにジグザグ走行を始める子供もいます。
・側転を始める子供もいます・・・

誰一人として、先頭の父親と同じように普通にランニングを始める子はいません。

父親達は、茫然自失、目の前で起こっていることが理解できません。一旦、子供達の動きをストップさせ、父親達だけ全員集合で、円陣を組んだ状態です。


Aさん:「この状態は、何なんでしょうか?」
Bさん:「これは、シュターナー教育の賜物ではないだろうか?」
Cさん:「そうだね!グランドを周るということに対して、それぞれがどう周ろうかと考えて、自分なりに『グランドを周る』ということを表現しているのでは?」
全員: 「なるほどー!!!そうだね。。。」

ということで、父親全員がそれぞれ自分なりにシュタイナー教育の「賜物」を感じつつ、それはそれとして、先頭を走る父親について走るということを子供達にさせました。


このときの話しになると、やはりそれぞれの父親は、相当な衝撃を受けたらしく(自分も含め)、我々がなんの意識も持たず、「常識」と感じていることが、本当の意味で「常識ではないかもしれない・・・」ということを噛み締めたようです。

まあ、そんなことを思い出して、日々の目の前に起こることを当たり前ではなく、新鮮な目で見つめて、淡々と生きていこうと考えている今日この頃です。。。

皆さんも、「これって常識?」と当たり前のことだと思うことを時々疑ってみてください。そこに新たな発見があるかもしれませんね・・・

それでは、ごきげんよー




皆様、こんにちは!!!

以前もブログにアップいたしましたが、311の後にこの歌を聴き、魂が震えました。
先日、天河神社を訪問した帰りの夜行バスの中でも、この歌を聴いてジ~ンときてしまいました。

震災の際、我々は「生きる意味とは?」とか「自分の人生は何なんだろうか?」とか「生かされているだけで、ありがたい!」とか、いろいろと考えたと思います。

年末をひかえ、再度皆様とあの時の気持ちを思い出したいと思います。

どうぞ、お聞きください!

Nataliya Gudziyさんの「いつも何度でも」


ちなみにNataliya Gudziyさんは、あのチェルノブイリの事故で被曝なさっていらっしゃいます。この歌を歌う前に「過ちを繰り返さないでください!」と自分の体験を話している部分もあります。その話を聞いてから、この歌を聴くとグッくるものがあります。体験談を話している前半部分も含んだ映像は、こちらから
→http://youtu.be/ry_WACFd8Ds




皆様、こんにちは!


先日、喧嘩別れをしていた後輩と3年ぶりに再開しました。


その彼が話しの流れの中で、「toraさん、先日のダライラマ氏訪問の際の記者会見の映像みました?」というじゃあ~りませんか?!


彼と初対面のときは、「私、今、経済を勉強してるんです(^_^)v」と言いつつ、「週刊ダイヤモンド」も知らなかった人間が、「ダライラマときたもんだ!」という感じでしたが、


私 :「いや、不勉強で、まだみてないんだけど・・・」
後輩:「いや~、あれはみたほうがいいですよ。私は本当に凄い人だ!と感じましたよ!」
私 :「では、早速、家に帰ったら観てみます・・・」
後輩:「まあ、人間一生勉強ですから、いろいろと吸収しないとね・・・」
私 :「ご教示、ありがとうございます。。。」


う~ん、3年間の修羅場をくぐり、後輩は大きく成長し、とてもうれしくなりました。


という流れで、ダライラマ氏の先日の来日時の記者会見をユーチューブで観ました。





んー、一言、「愛の人だ!!!」と感じました。


そして、「なるほど、やっぱり『愛』か!」という言葉が頭をかけめぐり、「そういえば、マザーテレサもそんなことを言ってたな・・・」なんてことを思い出し、
「愛」に生きる人間として、「常に在ろう」と再度、心に誓いました。


「マイプレジャーな人生」「はい!喜んでの人生」
          
      ↓  イコール!


=「愛に生きる人生」なんですねー。。。


それでは、ごきげんよ~