フォーカスという人の持つ能力機能を意識的に活用して観ると、観たいもの景色世界をより見付けることが可能かもしれないと考えて観ました
失礼致します
ごうさんといペンネームで
ブログを気ままに更新して観ます
日常的に自身は、どれくらい自分が見たいものを観ている印象を受けるのでしょうか
意識の問題無意識の問題と片付けられてしまうと
何事もストレスのせいだよ、なんて診察されてしまい煙にまかれて結局どうすればいいのか、よく分からなくなるような物語性に似てるようで、何でもかんでも意識のせい、だと落とし所を頭で知識で理解はしようとして何とか理解はしたできるとしても、良いこと聞いたなぁとよしと想ふ半面、普段の生活では自分自身が何を観たくてそれを欲して観ているのかなんて、つぶさに感覚することは難しいこともあるかもしれません
だからといって自分のその状態が続いていて、成長していないとか、同じこと繰り返しているとか、今のままでいいのかわるいのか、というお話ではなく、自分自身にはシンプルに何かをフォーカスする力、何かに特化して見付ける力があるんだ、ということだけでも想い出して観る物語
その力その能力を意図して自分自身の為に使うか活用するのかは、又別々人それぞれのお話ですが、兎に角自分自身には見付ける力があるんだ、あるようだ、そうなんだという物語
例えば、近頃は急に暖かくなってきて、春も通り越して自然の躍動感もぐんぐんだなぁ、なんて暑さを心配する世間さまとは裏腹にちょっとるんるんしつつ、道端を歩いていて、ふと、地面に目を向けて自分自身の足元を見たとき、ありがたまたま自分自身の歩くすぐそばの地面にいたとします、あ、アリだ、と声には出さないんですが頭ではそのような認知がされて蟻を認識したのちに、例えば更に、気が付かなかったけれども蟻も生きてるんだなぁ、暖かくなったから毎日やることが増えて来たのかな、これから忙しいのかな、ちょっと踏まないように気をつけて歩いて観ようかな、なんて想ふうちに、最新の1匹を観た途端に、ゾロゾロとあっちにもこっちにもそこにもここにも、おっきいのやちっさいのがいっぱい地面を歩く様子が見受けられて、その内踏まないように歩くことがちょっと困難なステップになるくらいに蟻をフォーカスして観る自分自身に気付くことを知ります、アリのことなんて普段何にも気にせずに歩いていて、何なら知らないうちに誰かを踏んづけちゃってたりするかもしれないんだけども、いざ意識して観ると、こんなにいたんだ、くらいに自分自身の目にはそのフォーカスした対象が見付けなくてもいいくらいの数を見付けてしまう、その能力は、人それぞれですが、日常生活のあらゆる場面に発揮される力なんだなぁと考えて観ました、逆説的に想ふと、観ないものは観えないんだし、今それが見えてる見えてくる見付けてしまう、という事は、アリを踏まないようにして地面にいる蟻を勝手に見付けるようにして、存外自分自身という人は、普段着で見たいものを勝手に見付ける能力を発揮しているんだなと、嗚呼、なんて事だ現実を観てがっくしする自分自身に対して、現実がどうのではく、自分自身からフォーカスして見付けに行っているんだなと、これが見たくて観ているんかなんて考えて観ると面白いかもしれない物語
意味付けの課題や思い込みに縛られてしまう自分自身を知ることもありますが、それらは置いといても、意識しようと無意識であろうと、人はそれぞれ何かにフォーカスする力があって、フォーカスして観る対象にレンズを絞って観る限りは、それ以外の対象にはピントが合いにくいでしょうし、視野が狭くなったり盲点が増えたりすることは仕方ないように想い観ました、したらば、どうせなら、自分がほんとうに見たいものだけにズームフォーカスしたいものだと考えた場合、蟻を踏まないように歩いて観る例えばよろしく、何かしらの自分の意図して観る物語性が見付けたいモノを見付ける上では大切な物語のようにも考えて観ました、現実を観たとき、何故このような景色を自分自身に見せるのか、と不可解に想い外側のせいにして問いかけても答えは見つからないかもしれないけれども、それは意外にも単に自分自身のズームフォーカス機能との付き合いがうまくバランスしていないだけかもしれない物語、自分自身が見たいものを知るには、今何を観ているのかを知ることがてっとり早いかもしれず、アリを踏まないようにして歩いている渦中で、アリばっか観ている自分に気付いて観ると、嗚呼こんなことに夢中になってる場合じゃないや、早く仕事行かなきゃなんてそう、意図せず気を散らして、何かにダイブする常々な自分を知るキッカケやヒントに成り得るかもしれない物語
以上
大変失礼致しました
本日もよきかな一日をどうぞ
ありがとうございました