2022.1.11 やっと日常に | 棟上寅七の古代史本批評

2022.1.11 やっと日常に

●何か松の内もその認識が薄れて過ごした日々でした。1月9日に設定されている古代史の会の「安徳大塚古墳」について調べたことの報告の準備で頭がその方に向きっぱなしでした。

まあ、寅七の早とちりは今まで何回も経験しています。今回の発表について思い違いがあれば、と調査報告書の作成元那珂川市(調査報告作成時は那珂川町)の教育委員会に、「このような報告をする予定ですが、なにかご意見はありますか」、とメールで報告概要をつけて問い合わせたら、5日にお会いしましょう、と年末に返事をもらえました。

先方に出かけ、調査にも携われた方にご意見を窺い、その意見も報告に入れることにしたり、バタバタさせられました。幸い、というか年末年始を高知で過ごしませんか、と婿殿からお誘いがあり、コロナ禍で相棒殿の体調のこともあり、今回はお断りしていて時間的には余裕もできていたのですが、気持ち的には落ち着かない日々でした。

 

そのような時に、昔『鏡王女物語』を出した時に挿絵を描いてくれた孫のノリキオ画伯が連休を利用したのか突然現れ、丁度良い気分転換が出来ました。相棒殿も最近体調が今イチでしたが、一回り大きくなり三十路に入った孫の手で肩をもんでもらい、昔話をしたりで良い気分転換が出来た様です。

 

まあ無事に古代史の会の発表も済ませ、昨日は孫殿の希望で高速道路休日割引を有難く、熊本は山鹿の「蔓薔薇」のピザを食べに出かけました。サラダピザ・魚介類ピザ・マルガリータと三枚で満腹になりました。、相棒殿の南関あげ、孫殿の希望のイキナリ団子、寅七の好物「からし蓮根」などの買い物も済ませ、さくら湯でひと風呂浴びてやっと年が改まったんだなあ、という気分になれました。

(まるで鍾馗様のように育ったノリキオ画伯)

●今回の古代史の会での報告の中で、弥生時代末期の遺跡の判断基準がどうやら出土物によって判断されていて、出土物がなければ、古墳状の築山でも「古墳」という判断がなされない、という考えが現在の考古学会に根付いていることが良くわかりました。

3世紀の頃の北部九州では「棺あれど槨なし」という墓制であったと『三国志』にあります。ただし、このような墓制であれば、時代の流れで消滅しない副葬品がなければ、その「古塚」は「墓」と認定されない、ということが、今回の報告に関しての教育委員会の判断でも、また古代史の会の「古墳についての第一人者」と自称されるKさんの意見でもありました。

 

副葬品が出なくても、その築山自体のつくりや、その形状と文献記録との照合など、所謂状況証拠を積み重ねて推定する、というやわらかい判断力がその遺跡の評価には必要なのに、という思いです。

 

まあ、古田武彦師も後年は、陳寿の述べた卑弥呼の墓については物的証拠を探し求められ、錦の組紐が出土した、須玖岡本遺跡を最有力とされている(『俾彌呼』 第九章女王の知られざる生涯 4「冢」と「廟」 倭人伝にみる「絹と錦」p266)のですから。

 

尚発表内容はホームページにアップしました。

 

●「新しい歴史教科書(古代史)研究会」のホームページのURLは次です。

http://torashichi.sakura.ne.jp/