『倭人とはなにか』批評その5 29.1.13 | 棟上寅七の古代史本批評

『倭人とはなにか』批評その5 29.1.13

寒波襲来ということで大雪で難渋する列島の風景をテレビが流しています。

孫娘Nちゃんが明日からのセンター試験を受けるのですが、関東地方はまあ交通途絶状況は免れてくれるようですが。

以前、娘のところに泊まったおり、Nちゃんの高校の日本史の教科書を見せてもらったことがあります。もうセンター試験の準備も完了したのか、不要になったから寅七に上げる、と教科書と副読本とを送ってくれました。その教科書本文には「タリシヒコ」のことは全く記載がありませんでした。

 

●寒波は九州の地には届いていないようです。倭人伝にある「倭地温暖、冬夏食生菜」の表現は間違っていないようです。

この場合の「倭地」は朝鮮半島の倭の地、よりも、九州の倭の地を言っているのは間違いないことでしょう。

 
●今夜は大学同窓の新年会が都心のホテルであります。寅七よりも10歳以上年長のT先輩が元気に乾杯の音頭を取られることでしょう。自分より年長者が多い会合はなんとなく気が休まります。

 

●今回で五回目

『倭人とはなにか』の著者は、倭人伝の行路記事の出だしの文章、「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里」で完結している文章とされ、そのなかの「其の北岸」を次のように説明しています。

 

【「従郡至倭」から「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」を一文とする見方もありますが、そうすると文章の文字数が三二二文字あり、一文としては長すぎます。「倭」は朝鮮半島の倭であるし、倭人伝の行路記事、「従郡至倭で始まる文章は、到其の北岸狗邪韓国七千余里で完結する文」であり、「到其北岸狗邪韓国」の「北岸」は九州から見た位置を示すとするのが日本の歴史学者の通説ですが、中国の学者は「其(の)」は「朝鮮半島の倭(の)」、北岸は魏使の船から見た北岸と解釈します】(p148)ここで「中国の学者」の意見が紹介されていますが、具体的な「証言」は紹介されていません。

そして、【「到其北岸狗邪韓国」は、「其の」は朝鮮半島の「倭」であり、「其の(倭の)北岸の狗邪韓国という地域」に着いたという意味である】(p149)と述べられています。

 

前回にも書きましたが、理屈を言えばそう解釈するのも可能かもしれませんが、この『三国志』の洛陽の読者はどうとるだろうか?という疑問がわきました。

おまけに、不思議に思えるのが著者の「到其北岸」と「陸行」との関係の説明です。

【陸行の場合、内陸部から狗邪韓国に到達するのであり、そのまま岸に到達するのは船以外考えられない】(p156)とあります。

「陸地から海岸に到る」という表現は、中国人には理解できないことなのか、中国人でない寅七には著者の説明が理解できません。現在の日本人の表現では、「海岸に出る」という表現でしょうが、「海岸に至った」と表現しても何ら違和感はありません。

 

狗邪韓国の南岸に着いたのに、なぜ「到其北岸」と書いてあるのか、については、その例として、南中国広東省の北海市という地名を例に挙げられます。

【中国大陸の南岸であるのに北海とされる。これはそこの地域の漁民からの目で見た表現である】(p156より要約)と説明されます。

 

また、【なお、この「北岸」を日本列島の側から見た「北岸」と解釈される方もおられるようですが、間に「大海」を挟んでいるので、朝鮮半島の岸を「北岸」とするのは中国語的な解釈からすればムリがあり、倭人の国の「北岸」は九州の地続きの「北岸」以外にはありえません。そうすると、魏使の船から見た「北岸」以外に説明のしようがありません】(p156)

「大海」を挟んでいるから中国語的な解釈からは無理、とされます。「大海」というのが大海原という意味なのか、国の沿岸の領海域を外れた無国籍の海域という意味なのか、そのあたりの「中国語的」な「大海」の意味はこの本の中からは汲み取れません。

以前上海で仕事をしていましたが、長江下流の揚子江河口付近では対岸が見えません。うっすらと中州の島、崇明島が見えるだけです。河口付近の川幅は40kmを越すそうです。中州の崇明島が出現したのは唐の時代だそうです。『三国志』の時代には揚子江の対岸は目視できない「大海」並みであったと思われます。ですが、中国の「領海」であったことは間違いないでしょう。

 

ともかく、「其の北岸」が朝鮮半島の通常の意味での南岸を指していることは間違いないことでしょう。それがなぜ「北岸」と形容されるのか、ということがカギと思います。

 

【古田武彦氏は「倭」を日本列島と朝鮮半島にまたがる海洋国家としてとらえました。(中略)私たちは古田氏がいうような「倭」の定義を唱える人に幾人か出くわしましたが、「その定義は何ですか」と問うた時に答えが返ってきたことがありません。歴史学は証拠や論拠で成り立つ学問ですから、これはどうしてもおかしいのです】(p140)

 

しかし、「倭人国」についてどのように倭人伝では表現しているでしょうか。「倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑」であり、また、「参問倭地絶在海中洲島上或絶或連周旋可五千余里」とあります。

ともかく、倭人の国は、郡から韓国を経て七千里で倭種の国狗邪韓国に着き、それからぐる~と廻って約五千里ほどの、島やその海の繋がりからなっている国だ、と記述していると思います。

また、対海国や一大国の描写に、食料を得るために「南北に市糴〈シテキ〉する」とあり、倭人たちは、その島々とそれを囲む海を生活の場にしています。漁民というか海に生きる人々でしょう。

 

そうすると、著者が例に引く北海市の場合と同様に、領海を含んだ地域国家組織という目で見れば、その(海域も含む)地域の北岸の町、「其の北岸」という表現になったのも自然でしょう。

近年、中国の南シナ海での領土領海紛争が多発していますが「九段線」なる中国の古くからの領域に関する語がマスコミ上でも見受けられます。これもそういう見方が現在にも中国でも生きているのではないでしょうか。

この問題は「韓国内水行」と絡んだ問題でもありますので、次の「歴韓国」と「乍~乍~」問題つまり、「韓国内は陸行か水行か」に移りましょう。

 
●著者出野正さんから、「極南界」の解釈について前回その解釈について疑問を述べたことについて、メールがありました。
長文のメールですので、全体を紹介するのは又の機会にしたいと思いますが、著者の結論は次のようです。
【『後漢書』においては「倭国之極南界也」の「倭国」は朝鮮における「倭」と北部九州の「委奴国」の集合体で、「委奴国」は倭国内「極南界」になると思われます。「極南界」は一番南側の意味だと思います】
この「倭国之極南界也」の解釈についての文章が、全体を縮小して読みやすくするという意図のもとに、出版元からカットされた、ということでした