三浦佑之氏の『金印偽造事件』は論証不十分 25.12.30 | 棟上寅七の古代史本批評

三浦佑之氏の『金印偽造事件』は論証不十分 25.12.30

●土曜日は今年最後のゴルフの例会でした。一週間前から天気予報を眺めていましたが、雪マークが消えることはありませんでした。まあ、天気予報は悪い状況を予想しているから、実際は大したことはないだろう、と出かけました。

確かに、雪はチラッとだけでした、が、寒さと風は厳しい年末の締めのゴルフとなりました。今年最高打数を叩いて、上がって浴槽に浸かり生き返りました。来年も元気でグリーンを回れる健康を願っています。


●奴国調べをしていて、金印の真贋説まで行きました。

2007年夏の志賀島の金印に関するシンポジウムが志賀島の小学校でありました。古田先生も聴講者としてお見えになっていました、その3か月後、福岡コミュニティ短波放送で、金印は亀井南冥等によって埋められたもの、という話をされました。


その話の根拠について、その後なにかお話か発表があるか、と思っていましたが、今度、村山義男著『邪馬台国と金印』新人物往来社1974年を読んでみて、その村山説がタネ本なのかなあ、と思われましたが細部では違っています


金印偽造事件

著者は朝倉の古代史研究家で、邪馬台国筑紫平野夜須説の方です。

史料的にも詳しく紹介していていますが、簡単にいいますと、金印は、糸島の小さな神社の神宝であったのを、神主が売り飛ばし(買い手は同じ糸島出身の亀井南冥)、金印の発掘状況を亀井南冥が小細工したという説です。


南冥はそれをとがめられ、廃嫡的な処分を受けたが、秋月支藩の講義は続けていた。晩年は徘徊など奇矯な行動が多く、今でいう認知症的な行動が多く失火で死亡した、と云うものです。


これは、古田先生の以下の話と骨子では殆ど同じです。ただ、村山さんは、さざれいし神社宮司の話、とまでは述べていません。

①金印の発見時の古文書、甚兵衛から郡役所への口上書には数々の不審点がある。

②仙崖和尚の「天明四年丙辰・志賀島小幅」に書かれた内容と、「甚兵衛口上書」とには相違点がある。

③細石(さざれいし)神社の宮司の、「金印は神社の宝物であった」、という証言がある。

④金印は王墓から出ているべきなのに志賀島の田圃からという不審。(福岡の考古学者塩屋勝利氏は、志賀島の調査を永年行ったが叶の浜付近にはその痕跡は全くないといわれる。)

⑤天明時代に井原ヤリミゾ遺跡が発見され、近在の農夫が出土品を勝手にとった、という記録がある(久米雅雄大阪芸大教授も言及している)。

⑥亀井南冥の子供 昭陽の話として、「南冥が金印を買った」と言ったことが残っている。

⑦南冥は、「金印の判定」の約八年後、理由不明で藩より閉門蟄居を命ぜられ、終生家を出ることがなかった。

以上の諸点をクリアーできる推論として、次のように「五方皆得の話」として古田説を展開されています。


・井原・平原などの弥生遺跡(王墓)から出土したのではないか

・金印発見者が地域の神社の細石神社に納めたのではないか。

・社宝が、何らかの理由で人手に渡り、売りに出された。

・漢学者亀井南冥がそれを一五両で買い取ろうとしたが、百両といわれ値が折り合わなかった。

・福岡藩がそれを知り、金印の鑑定を、南冥と藩校の修猷館(しゅうゆうかん)の両者にさせた。

・南冥は、中国からヤマトノ国王に下賜されたものであり、出土の経緯を南冥が創作した。

・修猷館側は、源平の壇の浦の戦いで安徳天皇が入水された折、紛失されたものが流れ着いたのであろう、とした。

・南冥の方が理に適うとされ、南冥は面目を施し主宰する学校、甘棠館〈かんとうかん〉の方の名が上がった。

・藩は五〇両で買い上げ、天下の秘宝を手に入れることができた。

・売り手は、おそらく二〇両くらいで、(社宝を)手に入れたのであろうからかなりの儲けになった。

・志賀島は那珂郡であり、郡役所の津田源次郎も面目を施した。

・発見者とされた甚兵衛も白銀五枚程をもらえた。

・このように関係した五者がそれぞれ得をしたことになる。



一方、同じように村山説を紹介しながらも贋作説を唱えられたのが、三浦佑之『金印偽造事件』幻冬社新書2006年です。

村山説と同じような疑問点を消化できる説として贋作説を唱えています。


邪馬台国と金印

郡役所津田・商人才蔵・学者南冥の三者が同郷であり、その三者が結託して贋物を作成した、というものです。しかし、村山説の方が説得力に富むと思われます。


三浦説では、

①何故贋作する材料に「金」を選んだのか。夷蕃の王に金印を与える筈がない、というのが従来贋作説の根拠になっていた。(後年1956年滇印が出土してはじめて消えた)

②何故陰刻の印を選んだのか。下賜する印綬の印は、古代は陰刻(封泥のため)で、紙が使われるようになった後は陽刻となっている。もし、封泥ということを知らなければ、印の刻み方はV型カットで済む。しかし、封泥用であればU型でなければ用をなさない。


この、金印の材料選び、と、U字溝形の篆刻について、三浦さんは贋作説からの理由を展開されていません。


現在、福岡市博物館では金印の調査内容を詳しく展示報告されています。篆刻の拡大写真が、50倍くらい拡大されて見せてくれています。そこには、明らかにU型で刻まれていることが判然としています。


金印詳細写真 金印「奴」の部分。底の部分が平らになっているのが見える。


●本年もあと2日足らずになりました。なんとか、ブログを細々と続けてこれました。幾人もの読者諸兄姉が、誤字脱字変換ミスや早トチリの批評などについて、ご指摘ご教導頂いたおかげと感謝しています。

このブログも、ゆるむネジを締めながら、何とか続けていきたいものと思っています。来年もよろしくお願いいたします。よい新年をお迎えください。