兼川ワールドのお話でした 20.8.09
息子一家が夏休みを石垣島でのキャンプで過ごすので、冥土の土産にきれいな海を見に来たら、とのお誘いを受けました。
お盆の休みの期間は飛行機の座席も取れないだろうし、と渋っていましたら、取れたら行ってみようか、とわが奥様の後押しで、インターネットでみてみたら、まあ何とか空席はあるようです。14~16日東シナ海を眺めて、浜辺でゴロ寝をしてくることにしました。
http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/
今日の久留米大学の公開講座の講師は、兼川晋さんでした。兼川さんお得意の、百済の二系列王朝論を発展させ、倭の五王と関連させた新説を展開されていました。
その仮説のキーワードは「諒闇」と、「倭王済と百済王比有の没年が同じ」、ということです。それから、「倭王済が息子興に倭王を譲り、自分は百済王に就いた(近蓋婁王)」という説に発展させています。
そうすると、近蓋婁王は476年に死んでいるから、武王の兄、倭王興が死んだのが477年と近接している。倭王武が上奏文に「父兄を奄になくし諒闇にあり」書いたことと矛盾しない、と説明されます。
まあ、それなら三国史記あたりに、その辺の経緯が少しは匂わされるような記事があっても良さそうなものですが、まあ、兼川さんも、「私が思っているだけですけれどね」とおっしゃっているので、「諒闇」についても意見を云っても良かったのですが、冷房が効いた教室で、うつらうつらしながら、兼川ワールドのお話を楽しみました。
今日話題になった倭王武の上奏文は、ホームページ槍玉その19安本美典「虚妄の九州王朝」批判で検討しています。その折「諒闇」の解釈も、いろいろ検討した思い出があります。兼川さんは、「倭王武の近親者の服喪」、という解釈です。しかし、これは、「宋の順帝が、父の明帝に対する服喪期間(倭王も宋朝の一員なので)」と捉える方が、全体の文章から理解しやすいと思いました。