「日本百名城制覇の旅:城という名の物語」 ④安土城 滋賀県蒲生郡安土町

登城日 2008年10月3日

 

 

 

こんにちはみなさん!今回は、「日本百名城制覇の旅:城という名の物語」の第4弾として、滋賀県蒲生郡安土町にある安土城についてご紹介します。

 

「西側上段廓前の石塁」

 

安土城は、1576年(天正4年)から7年間をかけて築城されました。

この城は、織田信長が琵琶湖畔の標高198メートルにある安土山に築いたもので

築城当時は琵琶湖(小中之湖、伊庭内湖 琵琶湖の内湖)に面していました。

その戦略的な立地から、交通や物資の流通においても重要な役割を果たしました。

 

「安土城縄張り」

 

織田信長という人物は色々な説がありますが、筆者の私が思うに経済の勝者だと思います。

尾張の小領主の時は津島湊と常滑の焼き物に代表される伊勢湾経済圏の一角を掌握し、

美濃攻略後は中山道を掌握、そして近江攻略後は琵琶湖水運の掌握........

経済圏を掌握しその財力を背景に兵農分離を推し進め、三間半槍、火縄銃などで

武装を強化し凄まじい勢いで近隣を従えました

 

安土城も物資の流通を考えると立地条件に納得がいきます

当時の物流は水運中心です

 

「琵琶湖の内湖に面した安土城」

 

1571年(元亀2年)比叡山焼討後、明智光秀に志賀郡を与え坂本城を築城させます(近隣の大津、堅田は琵琶湖水運の水揚げ地です)

1574年(天正2年)浅井氏の旧領を羽柴秀吉に与え長浜城を築城させます

(東近江最大の湊で北国街道と東山道の合流点)

1576年(天正4年)の安土城築城........

1578年(天正6年)近江高島郡に織田(津田)信澄に大溝城を築城させます

(安曇川の水運の掌握)織田信澄は織田信長の弟、信行(信勝)の子です

 

みなさまも一度Googleマップで見て各城跡と物流の流れを想像してみてください

琵琶湖を使って運ぶ水運の凄さを

 

若狭小浜方面から安曇川水運を使用し大溝城へ

北国街道(敦賀、日本海)方面から、また美濃、尾張方面から東山道を使用し長浜城へ

その物資、物流を安土城城下町、坂本城で水揚げし当時人口最大の消費地、京、大坂へ......

 

湊の運上金からどれだけの財力が...... 妄想がとまりません 笑

 

「琵琶湖の水運」

 

妄想がとまりませんので、そろそろ

安土城の話に戻りましょう 笑


安土城の最も特徴的な要素は、5重7階の天守閣です。この天主は、金、朱、黒などの鮮やかな色彩で彩られた異彩の姿をしており、その壮大さと美しさは一見の価値があります。(近くの安土城考古博物館、安土城天主信長の館で模型をご見学ください)

高さ32メートルにも及ぶ天主は、現在の姫路城とほぼ同じ高さであり、築城当時の安土城の威容を想像するとたまりません.......

 

「天主台の礎石」

「天主台跡の説明版」

 

 

安土城は、総石垣の縄張りに囲まれています。この石垣の堅固さと美しさは見事であり、城全体の防御力を高めていました。さすが穴太衆の仕事です

 

「二の丸の石垣」

 

また、城へと続く大手道も復元整備されており、当時の様子を垣間見ることができます。大手道の両側にはかつて家臣団の屋敷跡が広がり、屋敷自体が小さな櫓並の防御機構があります

 

「大手道の両脇には家臣団の屋敷跡」

「伝羽柴秀吉屋敷跡」

 

「伝羽柴秀吉屋敷跡の説明」

 

 

安土城の歴史は一筋縄ではいきません。1576年(天正4年)1月の築城開始から3年後の1579年(天正7年)5月完成した天主に信長が移り住みました

1582年(天正10年)6月、本能寺の変が起きたことで、安土城も大きな転機を迎えます。本能寺の変は織田信長の死をもたらし、その後一時的に明智光秀が入城しますが山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れた後、安土城の天主や本丸周辺が焼失してしまいました(焼失の理由経緯は諸説あるが不明です)

 

「黒金門付近も天主とともに火災に」

 

この悲劇的な事件によって、安土城は一時的に機能を喪失します。

その後しばらくは織田氏の居城として信長の嫡孫(織田信忠の嫡子)秀信が清須会議後に入城するなど

二の丸中心に機能はしていました。入城の際に安土城の再整備が行われた模様です

 

 

その後、豊臣秀吉が政権を打ち立て養子の豊臣秀次の近江八幡城築城に伴い、

1585年(天正13年)には安土城は廃城となりました。

しかし、その存在は後世に名を残し、

その魅力は今も多くの人々を惹きつけています。

 

「二の丸の石垣」

 

安土城の築城から廃城までの短い期間にも関わらず、

その存在は日本の城郭史において大きな影響を与えました。

安土城築城後やその後の豊臣政権で

全国に織豊型と言われる総石垣作りの縄張りの城が増えていきます。

信長は寺院建造技術を再結集し新たに築城技術集団を作りました。

 

 

 

安土城は、戦略的な立地と新しい象徴としての城郭によって

織田信長の天下布武の拠点として栄えました。

天主の美しさやその建築技術、美意識は、当時の時代精神を象徴しています。

 

「大手道横の家臣団屋敷の石垣」

 

現在の安土城は、石垣の一部が復元整備されています。

天主や石垣、大手道など、かつての栄華を偲ぶことができる場所です。

訪れた際には、天主石垣からの眺めや城内の屋敷跡、曲輪跡をゆっくりと観賞しましょう。その壮大な姿と歴史的な背景に思いを馳せながら、安土城が持つ物語を感じることができるでしょう。

 

「つづら折りの大手道」

 

また、安土城周辺には滋賀県立安土城考古博物館や町立安土城天主信長の館があります。

 

 

これらの施設では、安土城の歴史や織田信長の生涯について深く学ぶことができます。安土城への訪問を予定している方は、ぜひこれらの施設も合わせて訪れてみてください。

「安土城再現模型」

「安土城天主信長の館にある再現天主五階、六階」

「六階内部」

「五階内部」

 

安土城は、その築城から廃城までの短い期間でしたが、その存在は日本の城郭史において重要な位置を占めています。

 

「金箔瓦」

 

「火災の痕跡」

 

当時の歴史的な背景と壮大さによって、私たちに城という存在の魅力を再認識させてくれます。壮大な姿や石垣の堅固さは、当時の人々の知恵と努力の結晶であり、城という文化的な遺産を象徴しています。

 

「安土城築城工事のジオラマ」

 

きっとみなさんも訪れると、安土城の築城から廃城までの物語を追体験することができます。織田信長や戦国から安土桃山時代の歴史を通じて、安土城の存在意義やその役割を垣間見ることができるでしょう。

 

ぜひ、「日本百名城制覇の旅:城という名の物語」の一環として、滋賀県蒲生郡安土町の安土城を訪れてみてください。その壮大な古城跡と物語を追いかける旅は、きっと貴重な思い出となることでしょう。

 

次回もお楽しみに!