本稿はかなりローカルな郷土史に関わる記事です。こんな記事を記載したのは、郷土の不思議な痕跡について事情を知りたいと思っている人がいるのではないかと思うからです。だが、その可能性は薄いかも知れません。

↑高崎市岩鼻町~倉賀野町にある不思議な痕跡(1960年航空写真)クリック拡大
この痕跡に気が付いたのは10年程前になるが、『初代「日本で一番短い鉄道」?《岩鼻軽便鉄道》』を記載した時でした。その後も上画像の中にもある倉賀野東古墳群の削平状態を調べていて、この痕跡について思い出し、都度調べたが分かりませんでした。
私は小学校に入学する前の1年間、高崎市岩鼻町にある高崎市立岩鼻保育所という公立の保育所に通っていた。今はもう移転してしまって建屋はなく、どう見ても空地にしか見えない公園があるだけです。

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↑画像は保育所の跡地にある児童公園と南側にある狭い道路です。

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↑跡地の児童公園には今でも保育所の入り口にあった門柱がそのまま残っている。表札も付いたままです。この小さな門から見た建屋と庭の光景が今でも記憶にはっきりと残っている。
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↑中央の空地が岩鼻児童公園クリック拡大
↑この児童公園の北側と南側には並行した狭い道があります。局所的に見れば特段変わったことはありません。

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しかし、上空から見ると違和感のある道路です。まず、周辺の道路と方位が合わない。もともと岩鼻町は江戸時代の岩鼻代官所=岩鼻陣屋があった場所です。後の明治政府は同地に岩鼻県庁を設置した。岩鼻県の管轄は現在の群馬県と埼玉県に及びます。私が通った岩鼻保育所は岩鼻陣屋跡地と道一本隔てて隣接していました。因みに、岩鼻代官は時代劇ドラマでは必ず悪玉として登場します。本当のところは不明ですが、代官時代もその後の県知事も相当な悪政であったという伝聞があるのは確かなようです。

↑岩鼻陣屋図面と保育所の位置関係
この地域には古くからの街並みがあり、区画整理されていません。その中で児童公園を挟む2本の道路だけが異様に真っすぐに伸びている。その長さは約1kmもあり、付近を流れる烏川まで続いています。2本の並行する道路は明らかに細長い区画の南北両端に位置している。その区画の中にはかって何かがあった事が想定されます。しかし、それが何であったのか、いくら調べても分かりませんでした。
(1)痕跡の範囲
岩鼻町の岩鼻陣屋跡地域から倉賀野町のJR高崎線烏川橋梁上り線橋台部まで存在することが確認できる。痕跡は岩鼻陣屋跡地内にもあり、同地を貫通しているらしき事は前掲図面の道路図を見ても明らかです。

↑1947年の航空写真(点線部が岩鼻陣屋を貫通する痕跡地)クリック拡大
また、上画像は1947年の航空写真だが、痕跡地を囲う植生の並びから岩鼻陣屋を貫通して、当時の陸軍岩鼻火薬製造所の敷地内に向かっているらしい事が分かる。ただ、前掲の岩鼻陣屋図面を見ると痕跡地の中には天神山古墳があり、この山は2026年現在も残っている。従って、この痕跡地は少なくとも道路にような地上施設ではない可能性が高い。1947年画像でも陣屋跡地には森が残っており建設物があったようには見えない。
(2)形状
幅約45メートル、長さ約1kmの、一見、道路や建築物跡のように見える細長い矩形状を呈す。烏川接触部では面積が広い区画がある。もう一方の岩鼻陣屋跡地から先は角度が変わり、その先は地上部水路状となる。

↑1960年12月2日撮影航空写真クリック拡大
※日本化薬とは陸軍岩鼻火薬製造所が、戦後、日本化薬という製薬会社に土地を払い下げられた事による後継会社で現在も存続する。
(3)確認できる時代
航空写真では1942年まで遡って確認できるが、1894年(明治27年)の古地図にも二重点線で示されている。従って、明治時代中期以前に遡る施設の跡地であることは明白である。

↑1942年の航空写真

↑1894年(明治27年)の古地図
上画像の古地図には図解凡例が添付されているが、凡例の中を見ても同じ標記のものは示されていない。狭い道路標示にも似ているが他の道路部は点線がもっと細かい。また、明治時代の田舎に幅40mの道路があるとは思えない。
結局、この痕跡が戦争中の陸軍岩鼻火薬製造所に関わる施設跡地の可能性が高いという事は推定できる。しかし、それがどんな目的で構築され、機能を担っていたのかは不明のままです。そこで、高崎市役所の建設関連課に問い合わせれば、何か情報が得られるのではないかとメールを送ってみた。以下がその返信です。
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○○様
お問い合わせいただいた件名のことについて、担当部署等はないため、大変恐れ入りますが、詳細は分かり兼ねますが、出来る範囲で調査したところ、参考となるような資料が見つかりましたので、アクセス先をお送りします、ご確認ください。ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
追伸
推測ですが、土地形状からすると川から川へ繋いでいますので、船等を利用する計画で用地取得をしたが、計画だけで実際は、後に出来た鉄道を利用したのではないかと想像します(あくまでも推測です)。
高崎市 管理課
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結果、教えてもらったアクセス先はURLが有効でなく参照できなかったが、URLの解析から国立公文書館のホームページであることが分かった。そこでホームページの中を検索してみたところ、以下の画像がヒットしてダウンロードできました。この画像は10MB以上もあるものですが1/20に縮小して掲載します。

↑陸軍岩鼻火薬製造所管理地図(国立公文書館保存0001_附A00187100)
2段クリック拡大
この画像には図面の作成年月日が記載されていないが、図面の中の建築物がごく少ないので、施設の計画段階の図面である事が分かります。おそらく明治12年(1879年)頃の物と思われる。そのように判断した根拠として陸軍岩鼻火薬製造所の沿革を参考に記載しておきます。ウイキペディアの記載をベースに独自に編集追記したものです。
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【陸軍岩鼻火薬製造所沿革】
明治12年(1879年)群馬県西群馬郡岩鼻町に陸軍火薬製造所を建設することが決定。用地買収開始。5月、西郷従道陸軍卿(西郷隆盛の実弟)と大山巌参謀本部次長(西郷隆盛・従道兄弟の従兄弟)らが建設地を視察。
明治13年(1880年)5月 火薬製造所建設開始。
明治15年(1882年)11月 東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所として操業開始。敷地面積10万1386坪。
明治17年(1884年)井野川対岸に八幡原火薬庫の建設が開始される。
明治23年(1890年)八幡原火薬庫(面積1万5972坪)使用開始。
明治27年(1894年) 高崎線倉賀野駅が開業。工場との間の荷物輸送は荷馬車を利用。
明治38年(1905年)5月 構内にダイナマイト工場建物43棟、1616坪完成。
明治39年(1906年) 珪藻土ダイナマイト、膠質ダイナマイトの製造を開始。
大正6年(1917年)4月28日 岩鼻軽便鉄道が営業開始。
大正12年(1923年) 陸軍造兵廠の発足により陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所となる。電力設備が改修される。
昭和2年(1927年)目黒火薬製造所の設備移設に伴う工場拡張のため、2万4500坪の土地買収を実施。
昭和9年(1934年)陸軍がG無煙火薬を採用し、岩鼻火薬製造所で製造される事となる。
昭和13年(1938年)前年の軍需動員発令に伴い、急激な火薬増産が進められた結果、この年だけで4回の爆発事故が発生。死者24人を出した。12月19日午後2時35分に発生した爆発事故は、誘爆により3ヶ所で黒色火薬計4800キログラムが爆発し、死者13人、重軽傷者5人という創業以来最大の惨事となり、民家560軒に被害が出た。
昭和15年(1940年) 陸軍兵器本部の設立により東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所となる。製造所の最終的な総面積は32万5000坪に達する。
昭和20年(1945年)5月 暗号名「ト号工事」と呼ばれた火薬製造所の地下工場建設が開始。8月14日 伊勢崎・玉村方面の空襲に伴い工場周辺にも着弾したが被害はほぼ無し。
昭和20年(1945年)戦後は火薬製造事業は縮小し、染料事業、医薬事業に転身して社名を日本化薬株式会社に変更。岩鼻火薬製造所跡地の南部が払い下げられ高崎工場とした。
昭和31年(1956年)岩鼻火薬製造所跡地北部に日本原子力研究所が創設される。現在の量子科学技術研究機構の前身に当たる。
昭和49年(1974年)岩鼻火薬製造所跡地中部に群馬の森公園と群馬県立近代美術館が開設される。
昭和54年(1979年)群馬の森公園内に群馬県立歴史博物館が開設される。
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陸軍岩鼻火薬製造所管理地図から懸案の痕跡が火薬製造所の管理地であった事は分かりました。しかし、各部の目的については、やはり不明のままです。高崎市役所の管理課見解では水運目的で取得したが利用されなかったと推測しています。しかし、明治12年は鉄道高崎線が開通する5年前とは言え、この時代に重要軍事物資の水運は考えにくいのではないか。むしろ、火薬製造過程で水の利用があったと考える方が可能性が高いでしょう。
以前、このブログで『烏川に架かる橋』に関する記事を書きました。その時に参考にした文書に『群馬県近代化遺産総合調査報告書』という1992年に群馬県教育委員会がまとめた文書があります。群馬県の古い橋梁等の建築物について纏めたものです。その時は見落としていましたが、最後尾に軍事に関する記述があった。そこには岩鼻火薬製造所の建設に関する記載がある事に最近気が付きました。この文書を読んでみて本稿記載の疑問は解決するに至った。
岩鼻火薬製造所は黒色火薬の製造に始まり、後にダイナマイト、無煙火薬(ニトロ化合物)へと製造が進みます。初期の黒色火薬製造では、電力設備が十分でなく、水力水車の動力に頼っていたようです。詳細は以下に前掲の報告書から転記しました。
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① 黒色火薬地帯における工場の配置
創設時の岩鼻火薬製造所で製造された火薬は、硝石・木炭・硫黄を混合して製造された黒色火薬のであった。この黒色火薬の製造工程と工場配置は密接に対応しているので、黒色火薬の製造工程について述べたい。まず、硫黄と木炭をエ味混和機で混ぜ(二味混和)、さらに硝石を仕込む(三味混和)。この混和剤に注水しながら圧輪を回転させて、圧磨作業を行なった。圧磨後の火薬は、破砕機で破砕し大きさをそろえ、成分が分離しないように水圧機で圧搾して固い薬板とする。次に造粒機で粒状にし、ふるい分け、乾燥、光沢、分粒の作業を行ない、包装・収函して製品が完成した。現存する黒色火薬地帯の火薬製造工場は、以上の黒色火薬の製造に従って、二味・三味・圧磨という順序に、爆発の恐れのある作業工程ごとに工場が配置されている。また、爆発防止から作業に要する火薬だけを使用するために、嗦分の火薬を納めた火薬一時置場も現存している。
② 水車動力と土木施設
黒色火薬を製造するための圧磨機・破砕機などの動力としては、創設時から大正12年に電力設備が改修されるまで、後述する水車が使用された。水車は、現在の高崎線烏川鉄橋脇から暗渠で烏川の流水を引き込み、製造所内に築造した陸軍掘とよばれた水路(用水溜掘)に導いて、粕川との落差を利用して動かされた。この水路は日本化薬(株)構内に現存しており、水車を動かすための落差が当初8フィート(約2.4m)とほぼ一致することから、創設時の遺構と考えられる。さらに付近の住宅街には暗渠の通気孔・暗渠に使用された煉瓦が現存している。このように、火薬製造のための水車・土木施設などが一体となった水力供給システムが現存することは、希少な例であると言える。なお、今後の本格的な現地調査で、創設時の遺構が確認される可能性がある。
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昔の地図や航空写真に残る痕跡は、水力水車を回すために烏川から引水する水路(暗渠)だったのです。岩鼻町付近は烏川の河川水面からは比高15mくらいはある台地ですから、水路は地下を通っていたはずです。だから地上部には特に建築物なかった理由が分かります。水路の管理用に細長い矩形の土地だけが表面上は残っていたという事です。1894年(明治27年)の古地図に点線で描かれた二重線は地下水路を表わしていたのでしょう。

↑烏川の取水口付近
おそらく電力設備が改修された大正12年(1923年)以降は、この暗渠は使われなくなり、土地も民間に払い下げられたものと推測します。私の通った保育所も水路跡地の上に建設されたのでしょう。
- 後記 -
話しはがらっと変わりますが、この保育所は私の実家から3kmも離れていました。5~6歳の子供が一人で片道3kmの道を毎日通うなど、現在なら考えられませんね。当時は舗装もされていないバラス道でした。私事ながら「はじめてのお使い」よりも凄いと思います。昭和中期はのどかな時代だったのでしょう。おかげで頭はだいぶボケましたが、脚だけは今でも丈夫です。
了
【参考・引用】
■新編高崎市史 近代編 「岩鼻陣屋」「岩鼻県庁」「岩鼻火薬製造所」
■国土地理院ホームページ 航空写真アーカイブ 1942/1947/1960年
■今昔マップ 1894年(明治27年)の官製地図
■Google MAP 画像マップ~ストリートビュー画像
■国立公文書館ホームページ 「陸軍岩鼻火薬製造所管理図」
■群馬県近代化遺産総合調査報告書 「第11項・軍事・旧陸軍岩鼻火薬製造所」
■ウィキペディア 「岩鼻火薬製造所」