以下、ベスト用記事
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10112793517.html


【思索】モテるということ



日本語で「モテる」という言葉があるね。


「モテる」とは、どういう意味だろう。


「モテる」ということは「愛される」ということとはどう違うのだろうか。



言葉の定義を調べてみると、「もてる」とは「持つ」の可能動詞だそうな。


つまり、「もてる」は「持てる」=「持つことが出来る」であって、かつ、これは受動態=「持たれる」ではないらしい。


では、ここで言う「持てる」とは何が持てるのだろうか。


人気とか、好意とか、そういうものだろうか。



それにしても、今日、日常会話で使われる「モテる」とは若干ニュアンスが違うような気がする。


そこで、上の2種類の言葉を、それぞれ、両者を以下のように定義してみたら、どうだろうか。


「愛される」:=「他人から自分自身(人格)が好まれる」


「モテる」:=「他人から自分の所有物が好まれる」


ここで、「所有物」とは、その人が持つもので、本質的ではないもの。


例えば、容姿の美しさ、名声、学歴、家柄、所得、財産、高級スポーツカーなど。


(なお、ここで、「人格」はその人自身のことであって、その所有物ではないとする。


つまり、「人格」:=「人間の本質」)


そう考えてみると、ある人がモテるというのは、他人とその人の所有物との間に関係が生じることであって、その状況において、当の所有者とは直接関係のないことになる。



例えば、今ここにとても容姿の美しい女性(A子さん)がいたとしよう。


で、彼女がそれによって、回りの多くの男性からモテたとしよう。


その状況において、何が起きているのかといえば、「多くの男性」と「その女性の美しい容姿」との間に「前者が後者を求める」という関係が生じているというだけのことだ。


そして、その状況において、人格としての彼女はまったく蚊帳の外なのだ。


そう考えてみると、人間にとってモテるということは、それ自体には何の価値もないのだ。



しかし、それでも、モテる人は他人からうらやましがられる。


それは何故だろうか。


それは、「モテる」ことが「愛される」ことに繋がる可能性が高いからだ。


(人間にとって、『愛される』と言うことは、えも言われぬ価値がある。)


要するに、


命題1 「モテる人は愛されやすい。」


しかし、これはあくまでも可能性であって、実際に愛されるためには、以下の条件が満たされなければならない。


条件1 「その人自身の人格が好ましいこと。」


もし、A子さんがどんなに美しかったとしても、人格に問題があれば(性格が悪ければ)、モテることはあっても、愛されることはないわけだ。



そう考えてみると、モテる人は案外不運なのではなかろうか。


モテる人は、モテる(属性がある)が故に、いろんな人たちから求められる。


実際には、その人自身が求められているわけではないのだが、その人の好ましい属性に目が眩んだ人たちは、それを得るために言葉巧みに近づいてくる。


また、彼らのうちのある人たちは、本来はそのモテる人と相性がまったく合わないのにもかかわらず、調子を合わせて近づいてくる。


モテる人も、そのモテる経験の豊富さから、大抵の下心は見破ってしまうが、相手の方が一枚上手であれば、結局は騙されてしまう。


騙されて始まった交際は、騙した側の人間が、そのモテる人の属性に飽きて、騙す(調子を合わせる)のを止めた時点で破綻する。


結論として言えば、モテる人は他人に振り回されるという不運に陥りやすい。



ところで、命題1が真だからといって、以下のように言えないわけではない。


命題2 「モテない人が愛されないわけではない。」


なぜならば、ある人が他人から愛されるためには、その人の人格が好ましければよいのであって、モテるような属性を持っていることが必須ではないからだ。


しかし、それでも、ある人が愛されないのは、以下のふたつのどちらか、あるいはその両方に原因があるからにほかならない。


原因1 「その人の人格に問題がある(性格が悪い)から。」


(命題3 「性格の悪い人は愛されない。」)


原因2 「その人の人格が他の人たちに知られていないから。」


(命題4 「知らないものを愛することはない。」)


(命題4’ 「知られていないものが愛されることはない。」)


だから、愛されないことで悩んでいる人は、愛されるためにモテなくても、自分の人格を好ましいものにし、自分の人格が他人に知られるように心がければよいのだ。


つまり、愛されるためには、好ましい印象を与えるような自己紹介や気持ちのよい挨拶をするように心がけていればよいのだ。



モテることは、愛されない原因2を解決するために好都合ではあるが、必ずしも必須ではない。




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2007-08-03 22:39:59
【思索】愛から憎みを差し引いて、なお残るもの



例えば、こんなことを考えてみるわけじゃ。



あるところにAさんっちゅう無一文の人がおった。


あるとき、Aさんは消費者金融から50万円を借りて、自分の銀行口座に50万円預金した。


さて、ここで、問題じゃ。


この時点での、Aさんの預金額はいくらじゃろうか。



そら、言うまでもないが、表向きは50万円で、実際は0円じゃろう。



わしゃ、常々思うんじゃけど、人間が生み出す愛憎や善悪っちゅうのも、これと同じようなもんなんじゃなかろうか。



いろんな人を見とると、ときどき、とても愛情の深い人っておるよのう。


たくさんの人に愛情を振りまき、誰からも愛されるような人。



ほいじゃが、この愛情の深い人っちゅうのも、さらによく見たら2種類あるのう。


ひとりは、愛することが多く、憎むことの少ない人。


もうひとりは、愛することは多いんじゃけど、憎むことも多い人。



わしゃ、若い頃、この違いが分からんかった。


ほいじゃけど、今はこの違いがはっきりと分かるわ。



両者は別物じゃ。(`ω′)!



後者は、「愛情の深い人」じゃのうて、「愛憎の激しい人」じゃろう。


その人が愛する量から、その人が憎しむ量を差し引いたら、そこには何も残らんのじゃなかろうか。



わしゃ思うんじゃが、世間的に「愛情の深い人」て思われとる人が、実は「愛憎の激しい人」に過ぎんかったっちゅうことは、わりとあるんじゃなかろうか。



そもそも、人間が愛を得る方法って2種類あるのう。


ひとつは、愛そのものを生み出すことによってそれを得る方法。


もうひとつは、憎悪と引き換えにしてそれを得る方法。


前者は愛の「生産」じゃけど、後者は、いわば、愛の「借り入れ」、ないしは「転売」でしかないわのう。


そら、ある人への愛を削って、ほかの人に振り向けとるに過ぎんのじゃ。



ついでに言う話じゃけれども、「敵の敵は味方」っちゅうわのう。


例えば、A軍と敵対しとるB軍が敵対しとるC軍は、A軍にとっては、何の敵対関係もなかったら、味方も同然じゃ。


ほいじゃが、そのC軍は、A軍にとって、必ずしも盟友になるとは限らんわのう。


B軍がつぶれたら、あっという間に、お互いに敵対関係になってしまうかもしれんのじゃけん。



世の中には、噂話や陰口が好きな人たちっておるね。


酒の席なんかで絶えず、その場におらん人のことを悪く言うたり、面白おかしう言うたりして、その場におる人たちだけで盛り上がっとる人たち。


あの人らは何をしとるんかっちゅうと、ふたつのことをしとるらしいわ。


ひとつは、嫌いな人間の悪口を言うて、憂さを晴らしよるんじゃ。


もうひとつは、その場におらん人のことをみんなで嫌いあうことによって、そのひとたちだけで、ある種の連帯感、仲間意識みたいなものを感じとるんじゃ。それがその人らの心の糧なんじゃのう。


ほいじゃがのう、そがあなことをしたところで、「休みの国」の歌うところの「追放の歌」が聞こえてくるばかりじゃ。


わしゃ、こういう人たちに対して、先の言葉を言い換えて、こう言うたるわ。



「敵の敵は悪友じゃ。(`ω′)! 」



そがあなもん、得んでもええよ。


陰口によって得た友は、陰口によって去っていくもんなんじゃけえのう。


呉越同舟じゃ。



結論として、わしゃ思うんじゃけど、「愛憎の激しい人」っちゅうのは、結局のところ、「愛を生産する能力のない人」なんじゃなかろうか。



世の中には、愛を生産する能力のない人がおる。


ほいじゃが、そういう人でも、愛が欲しい。


ほいじゃあ、その人は、どがあにしたらええんじゃろうか。


そこで、最初の話に戻ってみるわけよ。


元でなしでお金を作るのは大変なことじゃけど、借金をしてお金を用意するのは簡単なことじゃったのう。


それは、愛においても同じことなんじゃ。


恐ろしいことに、愛は、憎しみを「質入れ」することによって、簡単に「前借り」することが出来るんじゃ。


ほいじゃがよ、借金をして預金をしても意味がないように、憎悪と引き換えにして愛を「借り入れ」たところで、全体的に見たら、何の価値があるんじゃろうか。


その場はしのげても、長い目で見たら、金利の差で借金(憎悪)を膨らませるばかりじゃなかろうか。


ほいで、世の中には、「質流れ」した憎悪があふれるっちゅうわけじゃ。



キリストが言うておるね。



「あんたらも聞いとろうが、『隣人を愛しんさい、敵を憎みんさい』っちゅうて命じられとるよのう。


ほいじゃが、わしゃ言うとくど。


敵を愛しんさい、自分を迫害するもんのために祈りんさい。(`ω′)!


あんたらの天のとうちゃんの子となるためじゃ。


とうちゃんは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいもんにも正しゅうないもんにも雨を降らせてくれるんじゃけえのう。


自分を愛してくれるもんを愛したけえいうて、あんたらにどがあな報いがあるっちゅうんじゃ。


そがあなことは徴税人でもやっとるわ。(`ω′)!


自分の兄弟にだけ挨拶したけえいうて、どがあな優れたことをしたことになるっちゅうんじゃ。


異邦人でも、同じことをやっとるわ。(`ω′)!


ほいじゃけん、あんたらの天の父が完全でおられるように、あんたらも完全なもんになりんさい。」


(マタイによる福音書 5 43-48)



「汝、敵を愛せよ」って、どういう意味か。


それはのう。要するに、あんた自身の「愛の総生産量」を考えんさいっちゅうことじゃ。


借金(憎悪)で借り入れた金(愛)を何ぼ預金しても、あってないようなもんじゃ。




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2007-08-06 19:30:44
【思索】心の傷に触れる



生きておると、他人の心の傷に触れてしまうことがあるね。


人は、誰しも、心に触れられたくないこと、心の闇ってあるもんじゃのう。


じゃけん、わしらは、むやみに他人の心の傷に触れんように、お互いに配慮をせにゃいけんのじゃろう。



ほいじゃけどよ。その一方で、わしは思うんじゃ。


人間は、自己責任において、自分自身の心の傷には、己のために触れた方がええんじゃなかろうか。


何でか言うたら、それは自分自身の人格をゆがめておる潜在的な要因、もっと言うたら、「元凶」に他ならんからじゃ。



よう、こう言う人がおるね。


「今を生きよう。過去を振り返るな。」


ほいじゃけど、それはどうじゃろうか。



例えば、じゃ。


こういうことって、ありはせんじゃろうか。


あるところに、Aさんっちゅう人がおった。


Aさんは受験生じゃった。


Aさんはカンニングをして東大に入った。


その後、東大を卒業して、一流企業に就職した。


その後、仕事の面白さに目覚めて、一生懸命がんばり、出世した。


そのとき、Aさんはこう言うかもしれんのう。


「今を生きよう。過去を振り返るな。」



また、あるところに、Bさんっちゅう人がおった。


BさんはC子さんのことが好きじゃったが、C子さんはDさんと付き合うておった。


そこで、Bさんは計略をめぐらして、二人を仲たがいさせて、分かれさせた。


そして、Dさんと別れて落ち込んでおるC子さんを慰めて、ついでに口説いた。


そのうち、二人は付き合いはじめた。


そして、結婚し、子供ができて、今は二人で幸せに暮らしておる。


まあ、夏目漱石の「こころ」みたいなもんじゃのう。


そのとき、Bさんはこう言うかもしれんのう。


「今を生きよう。過去を振り返るな。」



それはほんまじゃろうか。



人間は、絶えず、うそをつき、不正をして、生きておる生き物なんかもしれん。


そうすることで、自分に有利なチャンスを掴んで生きておるんかもしれん。


ほいじゃけど、そのたびに、そのひとの知らんうちに、心の中に不純物が入り込んでくるもんなんかもしれん。


ほいで、それらは、だんだん堆積してきて、長い歳月を経て、その人の心の中で凝り固まってくる。


あるとき、わしらは、他人からこれに不意に触れられて、ぎょっとする。


このぎょっとするもんが、ほかでもない、「心の傷」っちゅうやつじゃ。


ほいじゃけん、上のように考えてみると、これは「心の胆石」っちゅうて言い換えてもええかもしれん。


そがあなもんを長年放っといたら、その人はどうなってしまうじゃろうか。



ついでに言えば、「逆鱗に触れる」っちゅう言い方があるね。


この言い方がされる場合、触れる方が悪いかのように言われることが多いけれど、問題の原因そのものは触れられる人の側にあるんかもしれんのう。


何でか言うたら、この「逆鱗」ちゅうのは、その人の心の胆石が肥大化したものにほかならんからじゃ。



ようキリスト教徒の人が、「悔い改めよ」っちゅうね。


キリスト教徒ではない、たいていの人は、そういわれると、疎ましく思うもんなんかもしれん。


ほいじゃけど、それはおそらく、言われる人の受け止め方が、言うとる人の思惑と違うとるだけなんかもしれん。



「悔い改めよ」っちゅうのはどういうことか。


それはのう、要するに「心の胆石」を取り除けっちゅうことじゃ。


それは他人に強要されるもんじゃなかろうが、そうせんと、結局は、自分のためにならんもんでもあるんじゃ。


虫歯の治療を放っといたらどがあになるかは、誰でも知っとろう。



ほいじゃけど、念のために言うといたら、悔い改めるっちゅうのは、心の問題の解消であって、そのために、実際に何かをせにゃいけんかっちゅうと、それは一概には言えんわのう。


例えば、上のたとえで言うたら、Aさんが、いまさら、「実は、カンニングして東大に入りました」っちゅうて同僚に告白せにゃいけんのか。


あるいは、Bさんが、これこれでC子さんを口説き落としましたっちゅうて、C子さんに告白せにゃいけんのか。


ちゅうたら、これはまた別の問題じゃのう。



諸行無常ちゅうように、この世は、絶えず変化するもんじゃし、運命はどんどん変わってしまうもんじゃろ。


ほいじゃけん、AさんやBさんが上のようなことをしたところで、いまさら、とりかえしはつかんじゃろう。


ひとそれぞれじゃろうけれども、余計なことはせん方がええのかもしれん。


それはわしには分からんわ。


ほいじゃけど、そんな彼らでも、心の中で反省することぐらいはできるじゃろう。


それを「悔い改める」っちゅうんじゃ。


ときには「過去を生きる」のも悪うはないど。



最後に言うとくわ。



他人の心の傷にはむやみに触れんように気をつけんさい。


ほいじゃけど、自分の心の傷には触れられるようになりんさい。




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2007-10-08 11:15:17
【思索】人生を速読する人



昔、僕の友人でAくんという人がいた。


あるとき、彼が自分の特技は速読だと言った。


どんな分厚い本でも30分で読めるのだと。


すると、みんな感心していた。


しかし、僕は疑問に思った。


それで僕は彼に聞いてみた。


「どんな本を読んでるの?」


すると彼は、流行のベストセラー本、特にミステリーや恋愛長編小説の名を上げた。


ああ、なるほどと思った。



個人的な読書体験から言って、分厚い本を30分で読めるわけがない。


可能だとしたら、それは中身のない本を読むときだけだ。



ゲーテは言った。


「近頃の詩人はインクに水をたくさん混ぜる。」


もし、我々がある分厚い本を30分で速読できたとしたら、それはその本が水の混ざったインクで書かれているからに過ぎない。


水を混ぜたインクで書かれた本は、どんなに分厚いものであったとしても、その水分を抜いたら、ただの小冊子に過ぎなくなる。


いや、もしかしたら、紙切れ一枚にもならないかもしれない。



芥川龍之介は言った。


「人生は一行のボードレールにも如かない。」


まして、大抵の長編小説においては。


(僕は長編小説は読まない。)



考えてみれば、アインシュタインの「相対性理論」を速読できる人がいるだろうか。


新約聖書や法句経を、その意味を見落とさないで、速読できる人がいるだろうか。



上のような話をすると、ある人は速読にもそれなりの価値はあると反論するかもしれない。


それはそのとおりだ。


僕はここで速読という「スキル」に価値がないと言っているのではない。


例えば、ある人が公認会計士を目指していて、そのための試験問題を読んだり、会社の経営者が経済情報に目を通したり、英語を習っている人が、長文読解のために、たくさんの英文を読んだりすることはあるだろう。


そういう場合に、速読が出来れば、非常に有益なのは言うまでもない。



そうではなくて、僕が今ここで問題にしているのは、Aくんのような速読が好きな人の「読書傾向」、もっと言えば、「人生の嗜好」についての話だ。


速読が好きな人は、速読しやすい本を選ぶ。


速読しやすい本とは中身のない本だ。


だから、速読が好きな人が選ぶのは中身のない本だ。



余計なお世話かもしれないが、Aくんのような人が、中身のない本ばかりを読んで暮すのは、人の生き方として何かもったいない気がする。


たまには、速読できないような中身が詰まった本、考えさせられるような本を読んだ方がいいのではないか、と僕は思うのだが。



ショーペンハウエルは言った。


「ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく」


それは一理あるが、その多読に選ばれる本が中身のある本であって、考えながら読むのであれば、必ずしも考える力が失われることはない。


つまり、多読それ自体が問題ではない。


ところで、我々が多読をするためには、よほど時間に余裕のある人でもなければ、それらの本を即読せざるを得ない。


その上で言えば、上のショーペンハウエルの提起する問題の本当の原因は、多読ではなく、速読にあるのではないか。


何故ならば、人間は、多読しながら深く考えることは出来るが、速読しながら深く考えることは出来ないからだ。


だから、僕は上の言葉は、以下のように訂正した方が正確であると思う。


「ほとんどまる一日を速読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく」



話を最初に戻すけれども、上の恋愛長編小説などは、もともと時間つぶしを目的として書かれているものだろう。


それなのに、Aくんのように、それを30分で速読してしまうのは、本末転倒のような気がする。


そういう生き方をする人は、結局のところ、彼自身の人生をも速読して過ごしているような気がする。


そうでなければよいのだけれども。





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2007-08-01 00:03:32
【思索】映画的な感動について



「いいことをしたあとは気持ちいい」って言うわのう。


確かにその通りじゃと思うわ。


ええことをしたら、気持ちがええもんじゃ。


ほいじゃけど、人間っちゅうのは困ったもんでのう。


ええことをしたら気持ちええんじゃけど、別にええことをせんでも同じように気持ちようなれるんじゃ。



例えば、ある人が映画を見ておったとするわのう。


で、その映画の中で、主人公が電車の中でお年寄りに席を譲ったとするわのう。


ほしたら、見とる人もええことをしたような気持ちになるんじゃ。


ほいじゃけど、考えてみると、この気持ちのよさって、どっから出てきたもんなんじゃろうか。



わしゃ思うんじゃけど、映画を見ることによって得られる感動っちゅうのは、実はある意味で人間として不正なもんなんじゃなかろうかっちゅう気がするんじゃ。



ええことをして気持ちようなるんは、ええことをした人だけに与えられる特別なもんじゃ。


ほいじゃけど、映画やテレビドラマっちゅうのは便利なもんでのう。


自分自身は何もしておらんのに、主人公が自分の代わりにいろんなことをしてくれて、その感動を、払うた料金(広告料)に応じて、与えてくれるんじゃ。



もし、マラソンを完走した人だけが味わうことの出来る達成感を、実際には42.195km走ってない人間が味わっておったら、それはおかしいじゃろう。


それは、無果汁のジュースを飲んだ人が、一滴も天然果汁を飲んでおらんのに、天然果汁のジュースを飲んだ気になっておるのと同じじゃろう。何の滋養もないのに。



もちろん、映画を見て、感動した人が改心して、実生活に生かそうと思うちゅうことはあるじゃろう。


それはそれでええんじゃけど、わしが気になるのは、上のような映画的な感動に味を占めてしもうてから、実生活の時間を削りに削って、映画やDVDのレンタルばっかり見ておるような人。


実生活では人嫌いで引きこもって暮らしておるのに、映画の中では、主人公になりきって、あるときには老人に席を譲り、あるときには貧しい人に分け与え、あるときには悪漢にひるまず立ち向かい、あるときには幼い命を守るために命を惜しまず、火の中に飛び込んでいく。


そのつど、生きていてよかった、人のために生きられてよかったって思う。あんたは何もしとらんのに。


あんたあ、それはやっぱりおかしいじゃろう。



映画によって得られる感動の正体はあくまでも、他人である主人公に対する「共感」であって、それ以外のものではないように、わしゃ思う。


「共感」っちゅうのは、あくまでも「他人に対する共感」であって、「自分自身がええことをしたあとの気持ちよさ」とは別物じゃろう。


そう考えてみると、上のように、ある種の映画マニアの人が、他人の人生に対して、共感のはしごばかりしとるのはいかがなもんかっちゅうて思うんじゃ。


他人の人生に共感ばっかりしておったら、自分の人生の時間がなあなるじゃろう。



人間の人生における本当の感動ちゅうもんは、やっぱり自分がリスクを負って、自分の手でしたことに対してのみ、得られるもんなんじゃないか。



ヒルティが言うとるのう。


「実際の苦悩と苦痛に対しては、いつでも神の助けを得ることができる。しかし、ただ自分で想像しただけの、あるいは大げさに考えられた苦しみに対しては、助けがえられない。自分でできるだけのことは耐えなければならない。


どんな大きな成功にも、神は必ず一滴の苦味をを添えずにはおかない、それがあなたを損なうことのないために。」


どうもわしには、映画的な感動には、この「一滴の苦味」っちゅうもんが欠けておるような気がするんじゃのう。


それがあんたを損なうことがないように気をつけんさい。


ついでに言うたら、人間が他人に対してかけるべき言葉は、「がんばれ」ではなくて「がんばろう」じゃろう。




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2007-08-10 00:30:55
【思索】不要な幸運は掴まない



この間、幸運と幸福について書いた。


【思索】幸運は金、幸福は水
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10042288794.html



これに付け足して書くんじゃけど、幸運と幸福の一番大きな違いは何かっちゅうと、幸運と不運の合計は常に100なのに対して、幸福と不幸の合計は必ずしも100にはならんっちゅうことじゃのう。



ある社会において、あることについての幸運をつかむ人がその全体のうちのn%じゃったら、同じことについて、不運に陥る人は(100-n)%じゃのう。


例えば、宝くじを買って当たる人が、購入者全体のうちのn%じゃったら、外れる人は全体の(100-n)%じゃろ。


結局、ある人が幸運をつかむっちゅうことは、別のある人が不運に陥るっちゅうことじゃ。


つまり、幸運は、幸福と違って、常に他人を押しのけて掴むものじゃ。



そうすると、わしらは、以下の、おなじみの問題にぶち当たるわけじゃ。


「他人を押しのけてまで、自分の幸運を掴むんはええことなんじゃろうか?悪いことなんじゃろうか?


特に、その幸運が自分にとって、どうしても必要なものじゃったりしたら、どうしたええんじゃろうか?」


これに対する答えはなかなか難しいわ。



ほいじゃがよ。


上の問題を、ちょっと発想を変えて考え直してみると、こうも考えることができるわけじゃ。



まず、幸運っちゅうのは、2種類あるわのう。


ひとつは、「どうしても自分にとって必要なもの」で、もうひとつは「自分にとっては必ずしも必要のないもの」じゃ。


で、その上で、もう一度世の中を見渡してみると、ひとつの面白い事実に気がつくわけじゃ。


それは何かっちゅうとのう。


「世の中には、たくさんの幸運が散らばっとるんじゃが、そのうちの大抵のもんは、自分にとっては案外必要のないもんじゃ。」


っちゅうことじゃ。



で、その上で言うんじゃけれども、世の中のことを考えたら、自分にとって必ずしも必要のない幸運は、あえてつかまん方がええんじゃなかろうか。



例えば、ある大人が、マクドナルドに行ったとするわのう。


で、今、なんとかセットを買うと、子供に大人気のおまけがついてくるとするわのう。


しかも、それはなくなり次第終了の限定品じゃ。


そうしたとき、あんたは、なんとなくついでに、それをもらってしまうかもしれん。


ほいじゃがよ。


自分がその限定品を手に入れるっちゅうことは、そのかわりにもらい損ねる人がひとり出るっちゅうことじゃろ。


で、そのもらい損ねる人っちゅうのは、そのおまけを欲しがっとる子供かもしれんわのう。


ほしたときに、もう一度考えてみるんじゃが、わしらにとって、そのおまけは、欲しがる子供を押しのけてまで手に入れんといけんもんなんじゃろうか。


そうではないような気がする。



もう一度考えてみるんじゃけれども、世の中を生きておって、なんとなく転がっておる幸運のうち、自分が本当に掴む必要のある幸運はどんぐらいあるんじゃろうか。


わしゃ、どうも、それは案外少ないような気がする。


「今、○○を買うと、××が付いてくる」っちゅうんじゃけど、その××がいらんような気がする。


世の中には、譲れん幸運に夢中になって、他人に譲れる幸運を譲り忘れとる人が少なからずおるような気がする。


「もしかしたら、その方がもっと儲かるかもしれん」的な発想が、かえってその人自身の大切で限られたリソースを日々無駄に奪っとるような気がする。


そがあなもんは求めん方が、身軽でおられるような気がする。



「不要な幸運」に振り回される気持ち。


こら、いわゆる「雑念」であって、「煩悩」の元じゃ。


ほいじゃけん、この文章の結論を言えば、以下のようになるわけじゃ。



「自分にとって不要な幸運はあえて掴まん。(`ω′)! 」


それはほかの人に回してあげればよいのじゃ。



P.S.ついでに幸福についても言うとくと、ある人が幸福になったけえ言うて、ほかの人が不幸になるとは限らんわのう。


幸福、不幸に定員数はないわけじゃから。


ほいじゃけん、幸福は、幸運と違って、他人に遠慮せずに、好きなだけ求めたらええんじゃないかしら。


っちゅうても、個人的な幸福ばかりを求めとったら、社会的に必要のない人になってしまうかもしれんけれども。




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2007-07-22 19:39:04
【思索】何に対して前向きに取り組んだらええんじゃろうか



よく、前向きに生きることを人生の指針として唱える人がおるね。ポジティブ思考っちゅうんかのう。

それはええんじゃけど、気になるんは、「何事も前向きに取り組む」って言う人。


わしゃ思うんじゃけど、長い人生において、「何事も前向きに取り組む」っちゅうのは無理があるんじゃないかのう。


わしの個人的な経験から言うたら、あることに前向きになったら、それと正反対のことに対しては、後ろ向きにならざるをえんような気がするんじゃが。


キリストが「神と富」について、言うとるね。


「誰も2人の主人に仕えるこたあ、出来んので。


そがあなことをしよったら、一方を憎んで、他方を愛することになるで。


ほいじゃなかったら、一方に傅(かしず)いて、他方を甘う見ることになるで。


あんたらあ、神と富とに仕えるこたあ、出来んので。」


(マタイによる福音書 6 24)
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10039099113.html



富に使えることに前向きになったら、神に仕えることに対して後ろ向きにならざるをえんし、

神に仕えることに前向きになったら、富に使えることに対して後ろ向きにならざるをえんっちゅうことじゃのう。


善いことを前向きにやれば、なおのこと善うなるし、悪いことを前向きにやれば、なおのこと悪うなってしまうわのう。



また、悪いことじゃのうても、あんまりええことではないことに夢中になっておったら、善いことをする時間がなくなるよのう。例えば、ある人が仕事をほっぽり出して、株の売買やら、ギャンブルやらに夢中になっておったら、本業がおろそかになるじゃろう。


ついでに言うておくと、世の中において、私利私欲に絡んだことっちゅうのは、わりと前向きに取り組みやすいもんなんじゃ。逆に、必ずしも、自分の儲けにはならんけど、世のため、人のためになることっちゅうのは、なかなかやりにくいもんなんじゃ。少なくとも、それが軌道に乗るまではのう。



ほいじゃけん、ある人が、ポジティブにやることを前提にして、やりたいことを探しとったら、ご本人も知らんうちに、いつの間にか私利私欲に絡んだことばっかりやっとったっちゅうことになったりせんかのう、って心配するんじゃ。



ほいじゃけん、「前向きになる」っちゅうのは、あくまでもやり方の問題で、それ自体に善悪があるわけではないんじゃろうっちゅうって思うわけじゃ。



なんで、上のようなことを言うたんかっちゅうと、どうも、わしゃ、以前から、「前向きに生きる」っちゅうことをポリシーにしとるポジティブな人ほど、何をやりたいのかがはっきりしておらんような気がして、気になっておるんじゃ。



で、そういう人を見とったら、この人は、一度、立ち止まって、『自分が何をしたいのか、自分の人生において何をするべきなのか』を、じっくりと考えてみたほうがええんじゃないかのう、っちゅうて思ったりするんじゃ。


つまり、「何に対して前向きになるべきか」っちゅうことを考えるのを、ちったあ、前向きに考えてみたらええんじゃないかのうっちゅうて思うわけなんじゃ。


まあ、考えてばっかりおってもいけんけどのう。



結局のところ、人間っちゅうもんは、世のため、人のためになることを一生懸命やるのが、長い目で見たら一番ええんじゃなかろうか。これはわしが今日まで生きてきてのこの頃の実感じゃ。



まあ、そがあなことを今日は言いたかったんじゃ。



じゃあの。(`ω′)!



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