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創世記第一章をお読み下さい。

創世記の第1章はパッと読むと、内容としてははっきりしております。第一の日から第六の日まで神様は天地の創造のプロセスとして何をしたかという論理的な流れになっており、割りと分かりやすい内容だと思います。複雑な概念が紹介されているわけでもありませんし、「ええ、これはどういう意味だろう?!」という部分は基本的にないと思います。 しかし、この第一章は表面上では朝飯前の内容であると簡単に思ってはいけません。 少し掘り下げて行きますと、思ったよりこれが深いなと思わされることがあります。尚、元々のヘブライ語を調べるとなおさらです。

まず、こちらの第一章に出てくる「神」という言葉について調べてみましょう。ヘブライ語の「ELOHIM」という言葉から訳されております。注意して頂きたいのですが、これは神様の正式な名前ではありません。「ELOHIM」は一つの敬称です。しかも、複数の敬称です。 この「ELOHIM」という言葉から察することができるのは、神様の本質とは一つ(単独)でありながら、沢山(複数)でもある。 因みにヘブライ語の名詞のうしろに「ーIM」という文字がつくと、その名詞が複数になります。 そして、聖書の中で「ELOHIM」という言葉が出て来る時に、実は「イスラエルの神様」と「邪神」の両方を指す場合もある。聖書では「ELOHIM」が使われる時に必ずしもイスラエルの神様を指している訳ではありません。 内容によっては異邦国の神を指す場合もあります。 つまり、「神」の汎語であるということです。

次に取り上げたいポイントは一日目の創造のことである。「宇宙は数十億年前に出来た」という化学的な証拠があるにも関わらず、聖書に書かれているように六日間に天地を作れたというのはおとぎ話にすぎないとしか思えない。 しかし、よく文章を読んで下さい。「天地」が作れたのは「第一の日に」ではなく、「始めに」作れたと書いてあります。その「始めに」という期間が数十億年だったかもしれません。その可能性はなくはありません。「始めに」という期間のあとに「第一の日」があり、そこから神様が既に作ってあった天地を整理して行くプロセスに入る訳です。文章をよく読めば、この点について議論する必要性がないはずです。

また、一日の始まりは朝からではなく、夕べからスタートです。 つまり、昨日あなたが食べた夕食は古代イスラエル人のマインドに切り替えると、それが「朝ご飯」になります。聖書を注意して読むと、「夕べがあり、朝があった」という順番になっております。 そう考えれば、朝ご飯として「ミートソーススパゲッティやカレーライス」は「コーンフレーク」よりましですね。 ただ、現代人のように、一日のスタートは「朝から」というふうに解釈するのは別に罪でも悪いことでもありませんが、聖書の中で描かれている様々なイベントのタイミングをきちんと理解するのであれば、古代イスラエルの一日は日が沈んでからスタートするという事実を気に留めなければなりません。この考え方は旧約聖書と新約聖書の両方にも当てはまります。

次に留意して頂きたいポイントとしては、第一の日に、神様が「光」を創造されたと書いてあるじゃないですか? しかし、第四の日に「天の大空に光るものがあって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ、天の大空に光るものがあって、地を照らせ。」 ここで考えて頂きたいのは、第一の日の「光」と第四の日の「光」の違いは何でしょうか? 英語では同じ言葉の「light」に訳されていますが、日本語訳の「光」と「光る物」のほうが元々のヘブライ語に近いです。

説明をすれば、第一の日の「光」はヘブライ語で言えば、「OWR」となります。カタカナ発音で「オール」と言っても良いでしょう。 一方、第四の日の「光」は「MAOROT」と言います。違いを説明すれば、「オール」は「啓発」、「悟り」や「ひらめき」の意味を持っていて、神様の命、良さ、知恵や祝福に満ちた「光」です。イエス様は「私は世の中の光である」と発言した時に、「私は世の中のオールである」と言っていました。 そして、その次の文章に「神は光を見て、良しとされた。 そして、神は光と闇を分けました。」 ここで学べるポイントは、神様の光と闇を混ぜてはいけません。 一方、第四の日の「MAOROT」はただ単純に物理的な明かりを発する星、太陽や月であるという意味です。特に「オール」のように精神的なニュアンスが含まれている訳ではありません。

面白いことに、ヨハネの黙示録に書いてあるのは、新しい天地が作られた時に「マーロット」の光はありません。 神様の光(オール)だけになります。 つまり、新しい王国では「MAOROT」の必要性はなくなります。

さて、反対に「闇」という言葉について調べましょう。「闇」は「CHOSHEK」というヘブライ語から来ています。カタカナ発音で「ホシェック」で通じます。尚、「ホシェック」は「オール」と反対に、「不幸」、「悲惨」や「憂鬱」のような精神的なニュアンスの意味が含まれております。 つまり、神様の良さはどこにもない様子を指す言葉は「ホシェック」と言います。「地獄」に近い意味の言葉でしょう。一方、太陽が沈んだ時の普通の暗み(英語でNIGHT)はヘブライ語で「LAYIL」と言います。 「LAYIL」はただの暗い状態を指しているだけです。特に肯定的や否定的な意味合いが入っている訳ではありません。中立の言葉です。因みに「お休みなさい(Good Night)」は「LAYIL TOV」と言います。「CHOSHEK TOV」と言ったら、これ以上おかしな表現はないでしょう。 尚、残念ながら、現在の世の中の状況ですと、「オール」と「ホシェック」は同時に存在されているが、イエスの再臨では、神様の「光(オール)」によって、「ホシェック」が完全に廃止されます。
尚、「オール」は聖書の最初から最後までに出て来るとても大事な原理をほのめかしている。 この原理は言葉では簡単に説明が出来ても頭で理解するのは少々大変でしょう。自分の勝手に作ったフレーズで表現してみると、「物事の二重性」であると言っても良いかもしれません。 つまり、神様が本来であれば目に見えないご自身の霊的な様子を目に見える物理的なものを通して、ご自身の存在を表す現象というのはこの「物事の二重性」の原理である。 神様の「オール」は正にこの原理にぴったり当てはまる良い例でしょう。神様の「オール」は目に見える明るさを発するが、太陽や星と違って、光源はありません。神様自体がその「光源」となっております。 要するに、霊的特性と物理的特性が同時に存在されている現象は「物事の二重性」の原理を表している。イスラエルが作った幕屋もそうである。神様の特性や本質を目に見える形にしている対象物である。

今後聖書を勉強するにあたって、このポイントは非常に大事である。 つまり、聖書は「神様のことばです」とよく何気なくクリスチャン達が言いますが、これはどういう意味なのかって本当に分かっているのかなと疑問に思う時があります。 言い換えれば、聖書のことばは(ここで言っている聖書は旧約聖書のみの意味)天の基本法則を表しているだけではなく、神様のマインド及び本質も表している書物です。つまり、生きていることばです。そういう意味では例外なく全ての世の中の他の書物とはダントツに違います。 つきましては、聖書にある様々なお話、幕屋や生贄制度などについて読む時に自分に常に問わなければならないのは「今私が読んでいる内容は天にあるどの法則や原理を指しているのだろう?」というふうに考えなければなりません。なお、くどいようですが、聖書の根本原則は「トーラー」にしかありません。新約聖書にはありません。 新約聖書を読むだけですと、曲がった考え方を招くばかりです。この世の中にある様々なカルト(モルモン教やエホバの証人など)を見れば分かると思います。新約聖書を元に神学理論を作ってはいけません。イエス様はトーラーにない原則や教えを作っていません。 再度下記の聖句で締めくくります。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。」マタイ5章17~20

では、次回は創世記の第二章に入ります。