創世記第二章
創世記第二章をお読み下さい。
第二章の始めに二つの大事なポイントが紹介されます。一つ目のポイントは神様が一週間のうちの第七の日を特別扱いとし、その日を聖別されました。 そしてその日に神様が仕事から離れ、安息をなされました。そいう訳で、この日は「安息日」と言い、ヘブライ語では「SHABBAT」と言います。ここで質問です。第七の日と言うと、何曜日を指しているのでしょうか? もし、「日曜日」と答えてしまったら、ブーです。「土曜日」と答えた人は正解です。 正式に言えば、金曜日の夕べからスタートして、次の日の夕方までの期間がシャバトです。イスラエルでは毎週の安息日となると、国全体が完全に「停止状態」となります。面白いことに、ヘブライ語では、英語及び日本語と違って、名前が付けられた曜日はこの第七の日の安息日だけです。他の曜日は「第一」と「第二」のように番号が付けられています。
次に取り上げたいポイントは神様が作られた天地は「自己再生」のものである。つまり、一旦作った植物や動物を再度作る必要性はありませんでした。ここでユダヤ人が商売がうまい秘訣は隠されています。一般的にお金を稼ごうとする人は自分の限りのある時間をお金と交換しようとする。例えば、時給をもらうためにスターバックスで働いたり、会社で自分の大事な時間をあげる代わりに月給をもらったりしようとする。つまり、繰り返しで自分の時間と交換してずっとお金を作らなければなりません。始めは仕方がないかもしれませんが、最終的には神様のように自分の与えられた想像力をうまく活かして、お金を自動的に生んでくれるようなビジネスやものを創造しなければなりません。例えば、人の日常生活に役に立つようなものを発明したり(もちろん特許をちゃんと取っておくこと!)、超人気ブログを作ったり、有名なファッションブランドを考えたり、印税が出るようにベストセラーの本を書いたり、可能性は様々にあると思います。「よくこの世界がユダヤ人に支配されている」という噂をよく耳にすることがありますが、世界を支配しているのではなく、異邦人と違って、ただ単純に自分の時間をお金と交換をしたがらない人種だけです。折角神様がくれた自分の想像力を使わないで、いつまで立っても自分の時間をお金と交換する働き方は動物や奴隷とはどう違いますか?
「SHABBAT」の本当の意味についてもう少し触れたいと思います。日本語訳は「安息」となっていますが、少々誤解を招く訳だと思います。実はヘブライ語の「SHABBAT」はただ単純に「休む」とう意味ではありません。「休む」を正式なヘブライ語で言うのであれば、「NACHAN」と言います。また、何かに寄りかかって休む時に「SHA-AN」と言います。また、「もうこれ以上耐えられない!この仕事をやめよう!」という砌を付けるニュアンスを出したい場合は「SHAMAI」という言葉を使います。「SHABBAT」の意味は「止まる」、「やむ」、「中止」の意味になります。ニュアンスとしては、普段の活動や仕事を一旦切り上げるという意味です。別に植物人間みたいに何もしないで没頭する様子ではありません。いつものお仕事から離れ、リフレッシュするため、気分転換のため、違うことをするとのことです。映画を見てもよし、聖書の勉強をしてもよし、家でごろごろしてもよし。
尚、この安息日に関して、一番気づいてほしい点はイスラエルという民族、国が存在される前に設立された日です。 キリスト教会では、ユダヤ人しか安息日を守らなくても良いと教えますが、この創世記第二章に書かれている通り、イスラエルではなく、人類に対して、与えました。後ほどになりますが、ユダヤ人ではないノアも、「私の安息日を守りなさい」という命令を直接神様から受けました。 一番理解して頂きたいのは、神様の安息日はただの歴史的な出来事などを記念するための日ではなく、神様にとってとても特別な日であり、神聖な日である。また、聖別する権限を持っている者は神様だけである。人間には聖別する権限は持っていません。人間は勝手に安息日を別の曜日に変えたり(日曜日にしたりなど)、勝手に聖書とは関係ない祝日(クリスマスやイースターなど)を作ったりする権限はありません。
なぜキリスト教会が勝手に神様の安息日を廃止したのでしょうか?「廃止した」という言い方は強すぎると思われるかもしれませんが、これが誰でも確かめられる歴史的な事実である。ローマ帝国時代のコンスタンティヌス大帝が開催された公会議の議事録の内容を見ると、聖書の安息日を廃止したのは事実であることが明確になります。 特に四世紀の中頃のラオディケア協議会で定めた法令を見ると、はっきり書いてあるのは「第七の日の安息日はユダヤ人の安息日であるため、キリスト教会とは関係ないようにすべきである。 代わりにイエス様が復活した日の日曜日に礼拝に集まることとする」。その時は日曜日が既に太陽の神を崇拝するための祝日ではあった。なぜ英語で「Sunday」と呼ぶかというと、元々太陽を崇拝する異邦人の祝日であったからです。反ユダヤ人主義の気持ちから、キリスト教会は勝手に神様が元々設立された聖なる安息日を廃止して、異邦人の祝日である日曜日に変更された訳です。これが100%客観的な事実である。 つきましては、何も恐れずに申し上げると、この1700年間、キリスト教会の毎週の日曜礼拝は安息日とは違います。 異教の祝日にすぎないです。 ところで、今説明したのはキリスト教学者達も疑われていません。歴史的な事実ですから、調べれば誰だって分かることです。 どのキリスト教の宗派のトップの連中にこの話を持ち込んでも否定されることはありません。向こうはちゃんと「安息日イコール土曜日」ということは分かっていますから。 簡潔にまとめますと、神様が第七の日を聖なる安息日として設立されたのは天地を創造した直後です。イスラエルという国が存在されていませんでしたし、全ての人類のための日であり、神様と契約を取り交わすのであれば、この安息日を守ることは妥協出来ない基本条件ではある。 先ほど申し上げましたように聖書で収めている安息日は神聖であるため、ちゃんと守ると、神様から見て、自分も聖別された者となります。
次に取り上げたいポイントはトーラー(モーゼー五書)を読む時に「東」という言葉が出て来ると、よく注意を払ってほしい。なぜか特別な精神的な意味合いが含まれていますから。創世記2章8節を読んで下さい。
「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」
まずここで気づいてほしいのは「エデンの園」は「エデンの土地」とは違います。「エデンの園」はエデンという土地の東のほうに設けたと書いてあります。そして、園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」を生えでさせられた。また、アダムが作られたのは園の中ではなく、エデンの土地でした。そのあとにエデンの園に置かれました。「アダム」の意味は「男」ですが、「アダマ」の語根としての意味は「赤」または「塵」という意味です。
アダムはエデンの園の外の場所で作られて、そこで全ての肉体的なニーズが満たされたわけです。しかし、無事に生活が出来たにも関わらず、どうして神様がわざわざアダムをエデンの園に置かれたのでしょうか? 神様はアダムとより深い関係を望んでいたわけですから。そのために命の木のあるエデンの園にアダムを置かれました。エデンの園は完全無欠な聖霊な場所でありました。 そして、神様がアダムと同じように、私達とも最も親しい関係を望んでおられます。 神様に対する信仰なしでは無事に生活が出来ているかもしれません。物質的に豊富である日本自体は正にそうです。しかし、そのままですと、エデンの園の外にいるような状況です。この宇宙万物の創造主である神様はあなたをもっと素晴らしい所に置きたいです。聖書のこの早い時点でももう福音のメッセージが伝え始められています。 なお、前回のレッスンに紹介した「物事の二重性」の原理はまたここで出てきています。エデンの園は天国を表している模型です。
次に七節を見てみましょう。「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。」この「命の息」のヘブライ語について説明をしたいと思います。ヘブライ語では「CHAYYIM NESHEMAH」と言います。「吹き入れる」は「NAPHACH」と言います。先の聖句には日本語とヘブライ語の言葉を置き換えると「その鼻にCHAYYIM NESHEMAHをNAPHACHされた。」となります。 そして、次の一行にアダムが「生きる者となった。」と書いてあります。「生きる者」はヘブライ語で「CHAY NEPHESH」となります。 「NESHEMAH (息)」、「NAPHACH(吹き入れる)」と「NEPHESH(者)」は似ているでしょう。 これらの言葉が持っている意味合いは「命の息」はこの世のものではないというニュアンスです。つまり、進化論が教える「命が偶然発生」のものであるというのは聖書に言わせればありえない話です。なぜかというと、「命の息」は地球の外から来たものですから。 生命の源泉は神様にしかありません。ついては、私達の人生に意味を与えてくれるのも神様だけです。
もう一つ気づいてほしいことはあります。最初のレッスンに教えましたが、ヘブライ語の名詞のうしろに「~IM」がつくと、その名詞が複数になります。 覚えていますか? ではアダムに吹き入れられたのは「CHAYYIM NESHEMAH」。つまり、複数の命が吹き入れられました。ええ複数の命? どういうことですか?! まだこの段階では明確になりませんが、先に進むと、人間には霊 (spirit)と魂(soul)があるのが指摘されます。またイエス様経由で神様の信仰者になりましたら、人間の魂の中に神様の聖霊(ヘブライ語でRuach Hakodesh)が留まることとなります。正に複数の様々な命が人間に含まれています。また、魂をヘブライ語で言えば「NEPHESH」と言います。思い出せば、アダムが「CHAY NEPHESH(生きる者)」となったと書いてあります。「NEPHESH」というのは人間にしか使えない言葉です。つきましては、元々のヘブライ語から察することが出来るのは生き物の中で魂を持っているのは人間だけです。動物は魂がありません。ここで聖書はまた進化論と衝突することはありますね。人間はただの一種の動物ではありません。神様のイメージに基づいて作っているし、魂も持っております。また人間しか神様の存在を理解することができません。動物にはそういう能力はありません。
最後にアダムに相応しい助け手が必要だと神様が決め、女性を作りました。「女性」はヘブライ語で言えば「ISHAH」となります。「男性」は「ISH」です。面白いのは「ISHAH」を直訳すると、「女性」という意味ではなく、「男から来た(out of man)」という訳になります。そして24節に「こういうわけで男は父母を離れて、女と結ばれ、二人は一体となる。」ここで結婚のパターンが確立されます。もちろん、聖書の考え方に言わせれば、同性愛は自然に逆らったものでもあるし、一夫多妻も神様の理想ではありません。
では次回は創世記の第3章に入ります。