まず創世記の第3章をお読み下さい。
第3章の一節に関して、昔の偉大なユダヤ教のレビ達は面白いポイントを指摘してくれます。 「主なる神が作られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」と書いてありますが、一般的な解釈としては、この蛇が動物ののうち一種ではあったというふうに読み取ります。 しかし、元々のヘブライ語ではっきりと書いてあるのはこの蛇は動物の一種に分類されていません。 全く違う生き物でした。 皆さんがおそらくよくご存知の通り、ここに出て来る蛇はサタン(悪魔)を指している。
では、エデンの園でうごめいていたこの蛇が突然サタンに取り憑かれたのでしょうか? それとも、アダムとイブを騙すために蛇の姿に変身したのでしょうか? どちらかがはっきりしないのですが、ユダヤ教の一般的な見解によると、サタンが我々人間を騙すためによく神様の御技や奇跡を真似ようとします。 そこで神様にしか出来ない生命の創造の能力を真似ようとして蛇に変身した訳です。また、この蛇は最初にどうやら普通に歩くことが出来たらしいです。というのは神様に呪われた時には「お前は、生涯這い回り、塵を食らう」との宣告を受けました。
ここでまた「物事の二重性」の原理が働いています。蛇は神聖な場所のエデンの園にいました。 そして、同じように霊の世界ではサタンも元々神聖な場所の天国にいました。 御言葉の記録によれば、神様についで「最も美しい霊的な生き物であった」。 しかし、ある日に自分の心の中にプライドが湧いてきて、そのプライドが悪行為に変わって結局神様に対して反乱を起こそうとしました。 結果としては、天国から追い出されました。 そして、同じようにサタンの霊にとり憑かれている蛇が神様に対して反抗して、地球にある天国、つまりエデンの園から追い出されました。 正に「物事の二重性」です。
キリスト教では、「食べてはならない」果物を食べてしまったことにより、初めて罪というものがこの世の中に入ってきたというふうに教えるのです。 しかし、ここでちょっと考えてほしいです。 その食べてはならない果物を食べるまでにはこの世の中に罪がなければ、どうしてイブが罪を犯すことが出来たのでしょうか? つまり、どう考えてもその果物を食べる前にはアダムとイブが既に罪を犯す能力を持っていたということです。 もうこの時点で一般的なキリスト教の教えと衝突しています。
実はイブが食べるためにその禁じられていた果物を取ろうとする前にももう一つ大きな罪を犯しています。3節を読んでみましょう。 イブが話しています。 「ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
「これに触れるな」という言葉はどこから来ましたか? この言葉は元々神様の命令の中に入っていません。 イブが嘘を付いています。箴言の30章5-6節ではこう書かれています。 「神の御言葉みな真実である。神は彼に寄り頼む者の盾である。その言葉に付け加えてはならない、彼があなたを責め、あなたを偽り者とされないためだ。」
残念ながら、キリスト教とユダヤ教では、神様の言葉を勝手に変える習慣が長い間に渡りしょっちゅうありました。 結果としては、数え切れないほどの宗派や異端の教えを生み出しました。良いつもりを持ったとしても、神様の御言葉を勝手に変えると良いことは一切生まれません。
先ほどのポイントに戻りたいのですが、もしキリスト教が言うにはその食べてはならない果物を食べてしまったことにより、そこで初めて罪がこの世に訪れたとのことであれば、アダムとイブが罪を犯す能力が身についていなかったはずです。 この矛盾についてはどううまく説明したら宜しいでしょうか? 古代のレビ達は正しい答えを持っていると思います。 神様が人間を創造した時には良い性向と悪い性向の両方を人間に入れました。 ヘブライ語では「YETSER TOVー良い性向」と「YETSER HARAー悪い性向」と言います。 ですから、私達が誘惑された時には罪を犯すか犯さないかという二つの選択があります。 現在の信仰者でも同じです。日々様々な誘惑が訪れて来ますが、それらを支配しなければなりません。神様が同じことをカインに言いました。「罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」
次はイブにとって何でその食べてはならない果物はそんなに魅力的に見えたのでしょうか? ユダヤ教のMidrash Rabbaによると、下記三つの理由が取り上げられます。
1) その果物が美味しく見えました。
2) 木自体が美しかった。
そして主な理由は下記のものです。
3) その果物を食べると神様のように知恵に溢れる者となる。
その木の名前は善悪の知識の木である。イブはその知識がほしかったです。 現代人も知識と学歴を崇拝する傾向はありますが、そんなに沢山の知識を身につけて、本当に良いことでしょうか? コヘレトの言葉の1章18節はこう書かれています。「それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」 結局、人間は沢山の知識を身につけたい動機としては、最終的には神様のようになりたいからである。 サタンが言った「神のように善悪を知る者となる」というセルフがイブにとってはとても魅力的ではあったでしょう。人間が神様になれるというニュー・エイジの教えはエデンの園で始まりました。
次は3章15節がメシアニックの予言となっておりますが、非常に曖昧なので普通に読んでもこれは予言であるといことはピンと来ないと思います。 こう書かれております。「わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
聖書の予言について、殆どの場合は書いてあることがあまりにも曖昧なので、事件が起こってからでないと、予言であったことが分かりません。 予言の目的というのは未来を予測するよりも、信仰を強めるためにあります。 つまり、あるイベントや事件が起こってから、振り返って聖書を読むと、「ああこれは神様の予言だったのだ!とドキドキしながら気づいた時には信仰が強まるのです。」1
948年のイスラエルの復活も予言の一つです。 聖書にははっきりと書かれているのはイスラエルが国として復活をし、異邦人からエルサレムを取り戻した時にはイエス様の戻りは近いですと確信を持っても大丈夫です。 現在の中東の政治不安は世界中に大変大きな影響を与えています。 いつ大戦争が始まってもおかしくない状況です。 私達、信仰者は本当にドキドキすべく時代に生きていると思います。 しかし、キリスト教会の大半はこの事実に気づいていません。
次は21節を読んで下さい。神様がアダムとイブの罪を覆うために動物の皮で衣類を作って着せられたと書いてあります。何でアダムとイブが元々作った植物の服は駄目だったのでしょうか? まず、ここで学べるポイントの一つとしては、人間が自分の努力により、自分の罪を覆うことが出来ません。 100%神様が用意した覆うものでなければなりません。 また、罪の報いとしては適切なものは流された血だけです。動物の皮で出来ている着せものを作るために殺された動物は世界の初めての生贄だった。
最後にアダムとイブがエデンの園から追い出されました。神様が罪や清くないものを自分に近づくことを許されられないからです。 アダムとイブがエデンの園から出なければなりませんでした。 しかし、罪のせいでアダムとイブが神様から離れてしまったのですが、終わりではありません。 神様の愛は尽きることのないものであり、どうにかして、昔も今も私達人間を救おうとしています。
次は第四章です。