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聖書は旧約聖書と新約聖書で分かれており、全部で66冊の書物で出来ています。そして、トーラーとは日本語で「モーセー五書」と言い、旧約聖書の最初の5冊を指します。「トーラー」の意味はよく「律法」であると言われておりますが、これは正確ではありません。
トーラーの本当の意味は「教え」という意味になります。英語で言えば「Teaching」や「instruction」になります。もちろん、その中に律法も含まれておりますが、その他に様々な教えやお話も含まれています。トーラーは下記タイトルの書物で出来ております。

1) 創世記
2) 出エジプト記
3) レビ記
4) 民数記
5) 申命記

言うまでもないことですが、トーラーは聖書の土台です。 キリスト教ではよくありがちのことですが、聖書を勉強する時に新約聖書から読み始める習慣があります。これはあまりお勧めできません。 新約からスタートをすると、映画を後半の部分から見始めると同じようなことです。これでも全然理解出来ないことはないと思いますし、得られるものは確かにあると思います。しかし、やはり、聖書をきちんと理解するのであれば、後半の部分からではなく、きちんと始まりの部分から読んだほうがためにある。キリスト教では、旧約聖書をほぼ無視している状態にしてしまったことにより、誤解を招くような間違った神学理論を沢山生みました。その中の大きな一つは「イエス様が旧約聖書の律法を守る必要はないと主張した」という間違った教えです。イエス様は、むしろ、その逆のことを強く主張している。マタイ5章17~20を読んでみて下さい。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。」

しかし、この聖句に対して、クリスチャン達は「イエス様は律法の要求を完成したから、もう律法は私達とは関係ない!」というふうにこの聖句をよく解釈してしまいますが、本当でしょうか? 聖書の最初から最後まで強調しているのは神様の戒めを一つも見逃すことなく従いなさいとのことであると考えることもできるのです。

この曲がった解釈についてクリスチャン達に一つ質問があります。イエス様の信仰者になる前の生活ぶりとなったあとの生活ぶりに差があるはずだと思うでしょうか? これは聞くまでもないことですが、もし信仰者になられてから生活のし方に差があるはずだと主張されているのであれば、その生活の中に変われた部分はトーラーの教え(十戒等)に従った結果として変われた部分ではないでしょうか? 「あなたは姦淫してはならない。」「あなたは盗んではならない。」「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」などの様々な戒めに従った生活のし方ではないでしょうか? では、イエス様が言ったことは「もう律法に従う必要はない」という解釈を取るのであれば、別に浮気をしてもOKです。他人の物を別に盗んでもOKです。安息日を別に守らなくてもOKです(クリスチャン達は堂々とこの戒めを既に破っているけど)。しかし、これに応じて、クリスチャン達から以下のような反論がよくあります。

「道徳的な(モラル的な)教えを守る必要性はあるが、道徳的なではない教え(豚肉を食べてはならないなど)を得に守る必要はありません。」

回答:神様が作った全てのルールが最も清いものであり、聖なるものでもあります。人間の勝手な主観でこれは「モラル的であるもの」これは「モラル的ではないもの」と判断するのは自分を神様と置き換えるような神様に対する冒涜行為ではないでしょうか?

またもう一つよくある反論としては、「律法が守らなければならない者はユダヤ人のみであるという教えです。異邦人であれば、特に守る必要はないという教えです。つまり、ユダヤ人ならば、豚肉を食べてはいけないが、異邦人ならOKという考え方である。悲しいことに最も優秀な聖書学者の中でもこの間違った教えを促進している人もいます。」

回答:
まず最初は収めなければならない大事なポイントとしては、神様に救われる対象となっている人種はイスラエル人のみです! このポイントは旧約聖書にも新約聖書にもはっきりと書かれております。マタイ15章24節ではイエス様がこう言っております。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。 ここで断言して申し上げますが、イスラエル以外の国や人種は神様の救われる範囲には絶対に入らないです。これは神様の意向である。 旧約聖書時代でも現代でもそうですが、異邦人が救われるのであれば、イスラエルにくっつくしかありません! つまり、精神的な意味で言っているのですがイスラエルに入国しない限りでは救われることは絶対にありません。 あなたがアメリカ合衆国の市民になったという分かりやすい例で申し上げると、どうでしょうか? アメリカの市民として、アメリカの律法を守らなければならないのですか? それとも、「私はアメリカ人になる前に元々割礼を受けていない外国人だったので、別にアメリカの律法を守る必要はない」という立場を取っても平気だと思いますか?
ナンセンスでしょう。聖書の考え方は一緒です。イスラエルのメシアであるイエス様を通して神様の国の市民になるのであれば、既に救われる対象となっているユダヤ人と一緒に立ってイスラエルの律法を守る必要はあるのは当然ではないでしょうか? 律法を勝手に破っても平気だと思ってはならない? 安息日を勝手に守らなかったり、清くない食べ物(豚など)を食べたりして本当に神様の国で許されると思っているのですか? 律法に関してはトーラーで確立したパターンは異邦人もイスラエル人も全く同じ扱いとしなさいと書いてある。

キリスト教会ではまたもう一つの訳の分からない教えを取り上げると、「愛さえあれば何でもOK」という考え方です。愛さえあれば他の神様を崇拝している人達(イスラムの人など)と一緒に礼拝をしても良い。愛さえあれば、同性愛は別にいいじゃないですか?という考え方です。とにかく、ぼやけた愛の気持ちさえあれば律法に従わなくても結局許されるという教えです。この考え方のバカバカしさは言うまでもありません。

尚、そもそも「旧約聖書」の呼び方は異邦人が勝手に作った呼び方である。聖書から見ると、旧約聖書という見方や考え方は一切ないです。イエス様、イエス様の弟子達、パウルなどが使っていた聖書というのは「旧約聖書」のみでした。テモテの手紙二では「聖書は全て神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」。この聖句が書かれた時に新約聖書は存在していませんでした。当然のことにこの聖句が指していたのは旧約聖書のみでした。つまり、気づいて頂きたいのはイエス様、イエス様の弟子達、パウルなどは福音を広める時に旧約聖書しか必要とされていなくて、旧約聖書しか使っていませんでした。福音のメッセージは新約聖書から始まったのではなく、最初から旧約聖書に刻み込まれている教えです。よくある誤解は「恵み」がイエス様によって、持たされたものである。しかし、これは間違った考え方です。旧約聖書に恵みの教えははっきりと示しております。

忘れてはならないのは神様がイスラエルを(エジプトから)救ってから、律法をイスラエルに与えました。逆ではありません。クリスチャン達がよく間違えて考えるのはイスラエルが律法を完璧に守らないと救いを掴むことができなかったという教えです。これについて断言して申し上げますが、この考えは聖書のどこにも書いてありません。キリスト教が勝手に作り上げたフィクションです。

最後にもし聖書を正しく理解するのであれば、古代イスラエルの文化及びヘブライ語を通して読まないと大事なニュアンスと聖書は実際に何を教えているかの本質を見落とすことがあります。いのちの木の聖書塾では、イスラエルマインドを取り戻し、ヘブライ語に参考をしながら、トーラー、このモーセー五書を勉強します。トーラーはモーセーがシナイ山で直接神様から頂いた教えです。この事実を気に留めて考えると、本当にドキドキする他はないと思います。では、次回から創世記第一章に入ります。お楽しみ!