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集団の統合 ナショナリズムにより取って代わられた
戦いたいという欲望 アドレナリン
ノルアドレナリンやアドレナリンは戦うためのホルモンです。戦うためには筋肉を動かす必要があります。ですから交感神経は心臓の鼓動を早くし、血圧を高くし、筋肉の血管を開きます。また肝臓に蓄えていたグリコーゲンを分解してブドウ糖にし、脂肪を遊離脂肪酸にして筋肉に血液とエネルギーを送ります。でも逆に皮膚の血管は収縮させて、怪我をしたときに出血しないようにします。体温を温存するために体中の毛が立ち鳥肌になって、ぶるぶると武者奮いが起きます。でもこれは人間が毛で覆われていた古い時代の名残です。
アドレナリン中毒、アドレナリン・ジャンキー(adrenaline junkie)とは、「物理的、社会的、法的、財政的リスクを無視した、新規で強烈な経験の追求」で得られる感覚の追求に取り組んでいる人のことを指す[12]。それらの活動として、極端に危険なスポーツ、薬物乱用、危険セックス、犯罪行為があげられる。この用語は、生理的ストレスにある環境での、アドレナリンの循環レベルの増加に関連するものである[13] 。
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アドレナリンは、非常に強力な肉体力(火事場の馬鹿力)に関係しており、これはしばしば危機の時に発生する。たとえば、子供が下に閉じ込められたときに、親が車の一部を持ち上げたというエピソードが存在する[14][15]。
祈ったり、信じたりすることが宗教の本質です。でも、宗教には副産物、副作用があります。この副産物、副作用って膨大なものであり、「宗教の本質」よりも大変そうです。考えただけでもウンザリ。
ここで副産物とは良いこと、副作用は悪いこと、になります。
これら宗教の副産物は、人間が農耕を始め、大集団を形成したあたりから生じたようです。 そして現代では、副産物は不要になったようです。
神を信じることによって得られる副産物があります。私のように退職した人間にとって教会に行くことは時間つぶしになります。聖歌隊に入ると練習に時間がとられます。祈ることで得られる充足感も大きいです。
出会い
芸術 共通の物語 物語のない純粋芸術
共同体
キリスト教には多様性がないと書きましたが、教会には多様性があります。自分に合った教会が見つけられれば副産物も大きくなります。
大まかな話ですが、カトリックはぬるま湯で人間関係も薄いです。プロテスタントの方が熱心で人間関係が濃いという印象があります。
「宗教の起源」―私たちにはなぜ≪神≫必要だったか
著者は進化心理学者のロビン・ダンバー。 【サピエンス全史】の中で紹介された人です。280ページの本なので、長谷川真理子先生の「解説」の要約を記します。
ダンバーは、ヒトとは社会性を発達させた動物であるという考えに基づき、人間が親密性を感じて暮らすことのできる集団の大きさは150人が上限であるという「ダンバー定数」の提唱者として知られている。(ネアンデルタール人は体も大きく力も強いので集団を作る必要がありませんでした。人間は体も力も弱いので、集団を作ることが必要でした。)
人類は1万年前に農業をを始め、都市や文明といった150人を越える集団を発展させた。それを可能にしたものの一つが宗教による結束であった。(とすると、ネアンデルタール人には宗教は無かったことになる。 縄文人は農耕はしてないし、集落も20人程度が多かったけれど、三内丸山遺跡は500人。)
人間は自己と他者を認識し、自己にも他者にも「心」があることを認識した。更に、自分と他者とをシミュレーションすることにより、他者に共感できるようになった。
そして、あまり原因が分からないことが起こった場合には、何か、自分たちとは異なった能力を持ったものが存在していると想像する。更には、その想像を他者に伝え、他者もそれに同意するようになった。
宗教の根源には、「現象を因果関係によって説明する」ことと、「自分たちを越える何かが存在する」という考えが結びついている。 踊り続けたり、歌い続けると、脳内のエンドルフィンの分泌により「奇妙な気分」になりトランス状態が生じる。これが「自分たちを越える存在」に繋がるらしい。
「人類はなぜ宗教を信じるのか?」 それを進化的に分析しようというのがダンバーの試みである。
人間にはエンドルフィンの分泌のように宗教を生み出す脳内基盤があるが、それは宗教を生み出すことを目的に進化したのではない。 因果関係を推論すること、他者の心を推論すること、他者と共感すること等が人類の社会生活には必要だったために発達した脳内機能だ。その副産物として、当初の目的とは異なった宗教のための脳内基盤となる。
長谷川先生は「無神論の権化」を自認しているが、カンボジアでポル・ポト政権による大量殺戮の跡を見学したとき、積み重ねられた犠牲者の骸骨・遺骨を見て、無性にどこかのお寺で祈りたくなったという。あまりの理不尽さを前にして、心の平安を得るためには超自然的な力に祈るしかなかったという。 知ったり分かったりするだけでは、心の平安は保てないことに気づいたという。
付け足し:
ロビン・ダンバーは進化論的、社会学的に「人間はどうして宗教を生み出したのか」という問題を分析しています。これを読むと、「神は、社会学的、進化論的な想像の産物である」と言い切る人もいるかもしれません。
しかし、神はあらゆる手段で私たちを招いています。 奇跡や預言といった啓示だけではなく、トランス状態やエンドルフィンといった脳内構造の進化も、神が私たちを招く手段だと考えるのが信仰者の立場です。
信仰を啓示や神秘体験のみに頼るのではなく、理性によって神を認識する試みが中世の自然神学です。スコラ学では、「神は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」というそうです。
更に20世紀にはカトリック司祭にして北京原人の研究を行ったピエール・テイヤール・ド・シャルダンは『現象としての人間』によりキリスト教と進化論とを結び付けました。ロビン・ダンバーの研究も、その延長線上に捉えることができると思います。
パリオリンピックが無事に終わりました。いろいろと批判の声を多く聞きますが、これは本当に問題の多いオリンピックだったのか、それとも批判の声が大きく響くネット社会の現象にすぎないのか不思議なところです。 特に日本でパリオリンピックを批判しているのはネットの声です。ネトウヨが日本を代表しているとは思えません。
セーヌ川で泳がせたのは失策でしょうし、選手村は「環境に優しくて選手に厳しい」状況だったようですが、その他の問題はどの大会でもあるものだと思います。
日本の選手の活躍が大きく伝えられ、獲得したメダルの総数も、東京大会を除いて過去最高だそうです。
金メダル数・上位20国の国別のメダル数を下に示します。
| 金 | 銀 | 銅 | 合計 | ||
| 1 | アメリカ | 40 | 44 | 42 | 126 |
| 2 | 中国 | 40 | 27 | 24 | 91 |
| 3 | 日本 | 20 | 12 | 13 | 45 |
| 4 | オーストラリア | 18 | 19 | 16 | 53 |
| 5 | フランス | 16 | 26 | 22 | 64 |
| 6 | オランダ | 15 | 7 | 12 | 34 |
| 7 | イギリス | 14 | 22 | 29 | 65 |
| 8 | 韓国 | 13 | 9 | 10 | 32 |
| 9 | イタリア | 12 | 13 | 15 | 40 |
| 10 | ドイツ | 12 | 13 | 8 | 33 |
| 11 | ニュージーランド | 10 | 7 | 3 | 20 |
| 12 | カナダ | 9 | 7 | 11 | 27 |
| 13 | ウズベキスタン | 8 | 2 | 3 | 13 |
| 14 | ハンガリー | 6 | 7 | 6 | 19 |
| 15 | スペイン | 5 | 4 | 9 | 18 |
| 16 | スウエーデン | 4 | 4 | 3 | 11 |
| 17 | ケニア | 4 | 2 | 5 | 11 |
| 18 | ノルウエー | 4 | 1 | 3 | 8 |
| 19 | アイルランド | 4 | 0 | 3 | 7 |
| 20 | ブラジル | 3 | 7 | 10 | 20 |
| 獲得メダル数 | 獲得メダル当たりの人口 万人 | ||
| 1 | ニュージーランド | 20 | 27 |
| 2 | オーストラリア | 53 | 50 |
| 3 | オランダ | 34 | 52 |
| 4 | ハンガリー | 19 | 53 |
| 5 | ノルウエー | 8 | 69 |
| 6 | アイルランド | 7 | 73 |
| 7 | スウエーデン | 11 | 97 |
| 8 | フランス | 64 | 101 |
| 9 | イギリス | 65 | 105 |
| 10 | カナダ | 27 | 118 |
| 11 | イタリア | 40 | 147 |
| 12 | 韓国 | 32 | 162 |
| 13 | ドイツ | 33 | 252 |
| 14 | スペイン | 18 | 264 |
| 15 | アメリカ | 126 | 271 |
| 16 | 日本 | 45 | 272 |
| 17 | ウズベキスタン | 13 | 275 |
| 18 | ケニア | 11 | 511 |
| 19 | ブラジル | 20 | 1,088 |
| 20 | 中国 | 91 | 1,566 |
| インド | 144,170 |
| インドネシア | 27,980 |
| パキスタン | 24,520 |
| ナイジェリア | 22,920 |
| バングラ | 17,470 |
| メキシコ | 14,940 |
| ロシア | 14,000 |
| エチオピア | 12,970 |
| フィリピン | 11,910 |
| エジプト | 11,450 |
| コンゴ | 10,560 |
「仏教は宗教ではないらしいー②」は一旦、書いたのですが間違えて消してしまいました。仏罰かもしれません。負けずに書き直します。
「一神教には多様性はないが、仏教にはある」と言う人がいますが、本当に多様性が良いと思っているのでしょうか? 回転ずしの「はま寿司」に行くと、鮨だけでなく、ラーメンも天ぷらも、刺身もメロンパフェも廻っています。多様性で気持ち悪いです。統一感がありません。
ニュートンが「万有引力の法則」を発見したことは小学生でも知っています。「万有」とは何の意味でしょうか? 「宇宙のすべてに当てはまる」と言う意味です。英語ではNewton's law of universal gravitation と言います。universal=万有です。
つまり、「宇宙のすべてに当てはまる一つの法則」ということです。重力の法則は一つです。はま寿司のような多様性はありません。実際には、①「強い力」、②「弱い力」、③「電磁気力」、そして④重力の四つの力があるそうですが、私たちには関係のない話です。重力一つでアンドロメダの果てまで行けます。小惑星探査衛星「はやぶさ」も重力の軌道計算に従い地球に帰ってきました。
重力に多様性があったら大変なことになります。台所では上から下に落ちる重力。居間に行くと、別の重力があって包丁が右から左に飛んできます。トイレに行くと、重力が下から上に働いて・・・
はま寿司にせよ、重力にせよ、多様性なんて真っ平御免です。
さて、私が通っているのはカトリック教会です。カトリックとは「普遍的,公同の,万人のためと」という意味です。そう、英語だとUniversalです。万有教会と看板を書き換えても良いかもしれません。世界の何処に行っても通用する一つの教えです。トイレの神さまと台所の神さまが違うなんてことはないので、安心して包丁を置けます。
別のところでも書きましたが、仏教ではすべてが諸行無常だそうです。お釈迦様の教えも絶対ではなく変わります。道元さまの教えも変わります。弘法大師の教えの通り修行して悟りを得ると思ったら、「いやあ、俺の教えも昨日で変わったんだよ」と言われるかもしれません。
「諸行無常」という教えがある訳ですが、その「諸行無常」という教えも変わるのでしょうか? すると、全てのものごとは変わらない、諸行恒常になるのでしょうか?
「クレタ島人は嘘つきだと、クレタ島人が言った」と同じですね。大学院レベルの数学が出来ると、このパズルは解けるそうです。私には分りません。
④仏教に基づく統一した社会集団もない。
無いです。
ということで、wikiに記された宗教の4条件、仏教は全て満たしていないので、仏教は宗教ではない、ということになります。
ただ、wikiの定義だけを用いるのはフェアでない気がするので、他の定義も見てみます。
関塾という受験塾の問題 : 「宗教とは、神や仏など、人間を超えた存在を信じ、それに伴う制度や儀式のことを言います。」
ここでも「人間を越えた存在を信じるのが宗教」とあるので、仏教は当てはまりません。
日本国語大辞典
こちらは、「神観念や聖性を伴う場合が多い」となっています。神さまがいなくても、神さまが聖なるものでなくても宗教となりうる、ということです。ちょっと吃驚です。イワシの頭でも拝めば宗教になる訳です。これは、辞書の編集者が、「仏教も当てはまる定義にしよう」として作文したのだと思います。
①の(「教」は教説で、「宗」はその教が主とするところの理 )仏語、というのは仏教も当てはまります。でも、これだと、道徳の教科書や学生心得も宗教になりそうです。この辞書の編集者は、仏教に気を使いすぎですね。逆に言えば、辞書の編集者が気を遣うほど、仏教は宗教らしくない、ということでしょう。
日本人の書いた仏教の本は、お坊さんが書いているので、自分の宗派が中心な気がします。私の家は浄土真宗なので、シンパシーを持っていますが、お釈迦様が死んでから500年もたったころに突如出てきた「仏説無量寿経」が、お釈迦さま自ら口で説いた教えだなんて信じられません。処女マリアが子供を産んだという方がまだ信ぴょう性があります。
フランス人の書いた仏教史の本があるそうです。読んでみようかなと思います。
『仏教の歴史 いかにして世界宗教となったか』ジャン=ノエル・ロベール
いままで、「宗教」に関していろろと考えてきました。
wikiで、「宗教」の定義を調べてみると、
「人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」だそうです。
このwikiの定義に従って、仏教とキリスト教を考えると、両者の違いが際立つでしょうし、得られるものもあるかもしれません。
結論を先取りすると、「仏教は宗教ではない」、ということになりそうです。
①まず、信仰がない。
②仏さまは自然を越えていない。
③仏教としての統一した体系はない。
④仏教に基づく統一した社会集団もない。
とナイナイ尽くしになります。
順を追って考えます。
①仏教には信仰がない。
全日本仏教会の定義によると、仏教とは、「仏陀の教えに従い修行して、悟りを得るもの」です。ここには一かけらの信仰もありません。「ライザップのメソッドに従いトレーニングして痩せる」と同じです。あるのは修行とトレーニングです。頑張ってください。
キリスト教は「神の子イエスによる救済を信じる」ものです。キリスト教の教義をまとめた「二ケア信条」は「私は信じます」に始まり、マリアが処女だとか、イエスが死んでから生身で復活したとか荒唐無稽なことを信じろと言っています。幼児洗礼の人で、信仰が自然と身に付いている人は別として、処女とか復活とか相当に頑張らないと信仰は得られません。
処女が子供を産むなんて科学の発達した現代では信じられないという人も多いでしょう。でも、心配には及びません。科学の進歩していなかった2000年前の人だって、処女が子供を産むわけないぐらい知っていました。あり得ないことだから信じるのです。「不可解だから信じる」と言ったのはパスカルです。
仏教の宗派で「信仰」があるのが浄土宗です。阿弥陀様の救いを信じます。浄土真宗では、死んだ人は必ず極楽に行くので供養はしないそうです。カトリックでは死んだ人が天国に行けるよう祈るので、これも一種の供養かもしれません。
世の中の人は、クリスチャンという言葉の前に、枕詞のように「敬虔な」という言葉を付ける傾向があります。ところが「敬虔な仏教徒」とは言わないようです。どうしてでしょうか? 仏教では仏様を敬うよりは修行するからでしょうか? そして、仏教の宗派で「敬虔な」という形容詞を取るのは、浄土真宗(門徒)だけだそうです。浄土真宗には信仰があるからでしょうか? 「スリランカは敬虔な仏教国だ」というように、外国の仏教徒には「敬虔」が使われるようです。どうしてかは、分かりません。
②仏さまは自然を越えていない。
小室直樹氏は「仏教は法前仏後、キリスト教は神前法後」と言ったそうです。キリスト教では、なんでだか知らないけれど始めに神があって、その神が秩序(法)によりこの世を創ります。だから神さまは世界より先にあります。神は世界を越えています。
仏教では、なんでだか知らないけれど始めにこの世があって、修行によって、この世の法を見つけた人が仏になります。仏さまは世界より後です。仏さまはこの世を越えていません。
数ある仏さまの中で最強の実力を誇る大日如来も宇宙を体現しているだけで、宇宙を越えていません。
③仏教としての統一した体系はない。
「キリスト教には色んな宗派があって喧嘩ばかりしている。だから一神教はダメだ」という声をよく耳にします。
確かにそう見えます。ただし、日本のカトリックは他の宗派に対して無関心なので、多宗派との喧嘩どころか、話題にもなりません。
意外に思われるかもしれませんが、キリスト教の宗派間の教義の違いは殆どありません。ためしに、色々な宗派の神父さん、牧師さんを100人集めて、「あなたの信じているキリスト教を、原稿用紙1枚で網羅的にまとめてください」とお願いします。
結果は、金太郎飴のように同じ内容の原稿が並びます。一字一句、同じ文章を書く人も多いと思います。先に紹介した「二ケア信条」は日本語で500字です。原稿用紙1枚400字では不一致の起こりようがありません。
モルモン教や統一教会は、このレベルでの不一致があるので、キリスト教として認められません。キリスト教は「不寛容」な宗教です。多様性は認めません。「統一した体系」である二ケア信条から異なれば「排除の原理」が働きます。
宗派間の争いは、二ケア信条の解釈、各宗派のカルチャーの違い、そしてパトロンである政治家によるものです。解釈に関するものでも、同じ土台の上での議論ですから、議論は噛み合い、些細な相違点は明確に浮かび上がります。似た者同士は喧嘩をするのです。戦国時代、日蓮宗と浄土真宗は仲が悪かったそうです。不思議に思った織田信長がお側の僧侶に「あの二つは何故仲が悪いのか?」と聞いたそうです。僧は「似ているからでございます」と答えたとか。
実際のところ、キリスト教の宗派間の争いのほとんどは「金と人事」に関しての争いです。宗教改革は「教会人事をローマのイタ公が握っているのが気に入らない」、「俺たちが払った献金をイタ公が召し上げるのが怪しからん」というドイツ人の怒りです。ルターが都合良く信仰箇条についての疑義を出してくれたので、それに乗ったまでです。争いの本質は金と人事です。宗教のために戦争するほど人間は宗教熱心ではありません。
会社の中でも揉めごとがあります。みんな「会社のためだ」とか「規則に反している」とかもっともらしい理由を言い立てますが、本音は金と人事です。自分の給料をどう上げるか、昇格人事をどうするかが本丸です。会社のためなんてどうでも良いです。 政治家だって、国を良くするための政策よりは、親分が何と言っているか? 大臣になるためには誰を支持したらよいか?といった方が重要です。
仏教にも多くの宗派があります。色んな宗派のお坊さんを100人集めて「あなたの説いている仏教を、原稿用紙1枚程度にまとめてください」とお願いしてみてください。結果はどうなるでしょうか?
てんでんバラバラ。
これらの、てんでんばらばらの原稿用紙100枚をまとめて「仏教とはなにか」を帰納することは不可能でしょう。仏教には「統一した体系」がないのです。
仏教国でも多神教でも争いはあります。日本でも中国でもインドでも争いはあります。金と人事のあるところ、争いは必ず起きます。
「統一した体系」だけでなく、私は、仏教は存在しないと思っています。 仏教があると言っている人は、心が「仏教」に執着しているので、無いものが見えてしまうのです。お釈迦様の教えに従って修行すれば、「仏教」などないことが分かると思います。お釈迦様は「仏教」と言う言葉を使ってないらしいです。
疲れたので、⑥ー2に続きます。
後記1
キリスト教は、12使徒によって地中海東部で始められました。15世紀までの間、地中海地域とヨーロッパ、ロシアでのみ布教されています。つまり、創業の地で、創業者の後継者により、創業者の言葉であるギリシャ語、ラテン語によって整えられたのがキリスト教です。「本場の味」が保存された訳です。
※12使徒はがガリレアの人であり学校教育は受けてないはずです。例外的にパウロはギリシャ語を話せました。第二世代はギリシャ語もラテン語も話せたはずです。
一方、仏教はインドで生まれました。中央アジアを経て、中国、更に日本と北方に伝ったので「北伝」と言います。 スリランカ、タイといった南の国々に伝わった仏教は「南伝」と呼ばれます。チベットに加え南伝の国では、仏典が全巻揃って伝えられ、教団の組織も原型をとどめたままで伝えられたそうです。ところが、創業の地であるインドでは、仏教は滅びてしまいました。「本場の味」は断絶しました。
北伝では、多くの僧が砂漠を越えてインドから仏教を伝えました。これらの僧達を三蔵法師と呼びます。西遊記に出てくる玄奘は三蔵法師の一人です。砂漠を越えるのですから、仏典は切れ切れに伝えられ、組織としての教団は伝わりませんでした。北伝の仏教が仏教全体ではなく、禅宗であったり、法華宗、浄土教といった一部分のみを取り出して布教されたのはこのためです。単科大学が林立したみたいですね。薬科大学とか、法科大学とか家政大学とかいろいろあって、多様性がありますね。言葉を変えれば全体性がありません。
焼き鳥屋には、ハツ、タン、もも肉、レバーとあって多様性がありますが、ローストチキンのような「丸焼き」はありません。キリスト教には色々な宗派があるけれど、それぞれが丸焼きです。ぼんじりとか、ちょうちんとかはありません。違いは、味付けや捌き方です。
統一教会とかモルモンとかはキリスト教を名乗っています。彼らはキリスト教の丸焼きに、豚の挽肉や、牛の挽肉を詰めた感じでしょうか。混じり物があるので正当なキリスト教とは見做されません。
私は胃袋で考える質なのか、食べ物を例にとると分かった気になります。
後記2
お釈迦様が死んだのは紀元前400~500年ぐらいらしいです。ところが、
法華経が出来たのは、紀元後40~200年とも言います。
無量寿経も紀元後らしいです。
つまり仏経典の多くは、お釈迦様が死んでから500年くらいたってから作られたものです。それにも拘わらず、「仏説」とか「如是我聞 かくのごとく、我聞けり」のように、恰もお釈迦さまが言っているを聞いたかのように書かれています。昔のことですから、著作権などいい加減で当たり前ですが、お坊さんの中には、「いや、お釈迦さまが言ったことが、500年間口伝えされて紀元後に書き写されたのだ」と言い張っているそうです。こういうのって、かえって仏教の正当性に疑念を感じさせます。無理せず、「口が滑りました」と認めた方が良いと思います。
聖書の場合、「マタイによる福音書」を12使徒の一人であるマタイが書いたという人はいません。「マタイの周辺にいた人が書いた」と考えられています。第一、マタイがギリシャ語を書けたか疑問です。あなたの住む町の税務署の課長さんが英語をできる程度には出来たかもしれません。 イエスさまがベツレヘムで生まれたと思っている人も教会の中では少数です。イエスはナザレで生まれたというのが通説です。かつて、カトリック教会はガリレオ・ガリレイの地動説を否定しましたが、350年後の1992年に、間違いであることを認めました。 1996年10月23日には進化論は正しかったと認めました。進化論が発表されてから140年が経っています。ちょっと遅すぎますね。大分というべきか。。。
どうでも良いことに意地を張ると、大切なことが疎かになります。アメリカの福音教会と呼ばれる人たちは、意地の張りまくりのようです。
体は大切 シリーズ⑦
大抵の宗教は「死後の世界」について語っています。
宗教を信じていない人でも、「母さんは、今ごろ天国で父さんと夫婦喧嘩しているだろう」とか言います。来世を語ることで死んだ人の幸福を願い、これから死ぬ自分をも安心させたいという思いなのでしょう。「死んだらお仕舞い」では不安なのです。嘘でも良いから「死後のイメージ」を持っていたいのかもしれません。
仏教で「死後」をどう考えるかは、宗派によってマチマチで、まさに仏法は諸行無常です。お釈迦様は、「いかに生きるかで精一杯なので、死後のことまで手が回らない」と言ってます。浄土宗や禅宗は、霊魂や死後について否定的ですが、遺族の心に寄り添って死者供養をするそうです。天台宗、日蓮宗、真言宗は肯定的です。「仏教という一体性のある宗教」は無いんですね。
インドという土壌に咲いた花が仏教です。 当時のインドでは輪廻という考えが支配的だったので、お釈迦様は輪廻に基づいて教えを説きましたが、輪廻が仏教の教えという訳ではないそうです。これを「輪廻は仏教にとって本来的だが、本質的ではない」というそうです。
ユダヤ教では、土から作られた人間は、死んだら土に還ってお仕舞い、というのが基本形です。ただ神さまには出来ないことはないので、神が望めば死者も復活します。
神は、エゼキエルという預言者を、死者の谷に連れて行きます。そこにはたくさんの骨がありました。そこで神は、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」といいます。すると、先ず体が復活し、次に体に霊が吹き込まれました。(エゼキエル37章)
イスラム教やキリスト教では、「死」とは、いつか復活するまでの一時的なお別れです。死んだ人の魂は一度肉体から離れるものの、「裁きの日」に魂は新たな肉体と結び付いて復活すると信じられています。だから、天国は「幽霊のディズニーランド」ではありません。生身の体で天国に行けます。
仏教でも神道でも「体の復活」という考えはないようですら、極楽は「幽霊のディズニーランド」ということになります。
私の考えでは、生まれる前の体がなかったとき、「私」はいなかったのだから、死んで体が滅びれば「私」もお仕舞いと思います。ただ、私のことは神の記憶の中に残って、いつか「私」の心が新たな体を得て復活するかもしれません。復活しないかもしれません。
昭和45年に流行った歌で「顔じゃないよ心だよ」という歌があります。こういう「心が大切」という考えは、多く見られます。
「おもしろきこともなき世をおもしろく 住みなすものは心なりけり」
これは、高杉晋作が上の句を詠んだところで、喀血して下の句を尼僧が補ったそうです。精神主義という感じで、下の句がない方が良い気がします。
東洋は精神主義という感じがしますが、プラトンも「魂は、肉体という牢獄に閉じ込められている」と考えていたので、あの肉体賛美のギリシャでも「心が良くて、体が悪い」という考えはあったようです。
トマス・アクィナスは、「私の魂が、私なのではない」“anima mea non est ego “と言っています。推し進めれば、「体と心の複合体が私なのであって、魂だけでは私ではない」ということになります。
死んで体を失った人の霊魂は、重度の認知症患者みたいなもので、精神活動は乏しくなります。私たちが死者のために祈るのは、死者は祈ることもできないからだそうです。
神さまが「愛の神」であるならば、重度の認知症状態に、私たちを放置しておかないと思います。死んだ後、いつかは体が復活して天の国に行けると希望しています。「信じている」というよりは希望し待っています。
量子物理学という数学が超人的にできる人だけが理解できる学問があります。これによると、宇宙で起きたことの全ての情報は、ブラックホールの内側に記憶されているそうです。私たちの心の動きも、脳内シノプスでの電子や脳内物質の活動なので、記憶されているそうです。これって、死んだ後の認知症状態に似ているかもしれません。ただネットを見ると、似非科学者みたいな人が、ウロウロしているので気を付けましょう。
「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」Ⅰコリント13:13
私が子供のころ「帰って来たヨッパライ」という歌が流行りました。交通事故で死んだヨッパライが天国に行って「天国良いとこ一度はおいで、酒は美味いし、姉ちゃんは綺麗だ」と歌います。
聖書を読むと、天国にはヴィンテージ・ワインと霜降りの肉がある、と書いてあります。
「万軍の主は、この山の上で万民のために、脂身の多い肉と 古いぶどう酒の宴会を開かれる。」イザヤ25-6
酒も美味いし姉ちゃんも綺麗なはずです。天女がいるはずです。イケメンの天使もいるでしょう。イエス様だって、マクダラのマリアを始め多くの女の人に囲まれていました。そして、復活したときも、真っ先にマクダラのマリアの前に現れました。でも、キリスト教では食べることが第一です。
イエスさまが復活した後、真っ先に言った言葉の一つが「食べ物はないか?」です。
ヨハネ21「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。
復活とはたとえ話ではなく、生身の新しい体を与えられるという希望です。生身だから霜降り肉や魚を食べます。姉ちゃんだっているはずです。
これまで、仏教とキリスト教とを比べることで、人間はなぜ神を信じるのかについて考えてみました。今回は、私が仏教に関心を持った切っ掛けをお話します。
私の祖父は新潟県出身の蕎麦屋でした。昔は、田舎から東京(江戸)に出て来る人たちは、出身地によって職業が分かれる傾向があったそうです。新潟は蕎麦屋、富山は風呂屋、相模は鏡職人といった感じです。
富山県は浄土真宗の土地です。浄土真宗は子供を間引くことを禁じているため人口が過剰になります。そこで田んぼを貰えない次男・三男は県外に丁稚奉公したり、行商に出るのだそうです。富山の薬売りは有名ですね。村の誰かが風呂屋の丁稚奉公に出ました。風呂屋は掃除や水汲み薪割と人手が要ります。働き者だったので主人から「村の者をもっと連れて来てくれ」と言われて、風呂屋は富山県人を招き入れたので、江戸の風呂屋は富山県人ばかりになりました。いま、東京のラブホテルのオウナーは富山県人が多いそうです。風呂屋を廃業して、跡地をラブホテルにする富山県人が多いそうです。どちらも裸商売です。
同じことは各地で起こり、私のお祖父ちゃんも、新潟県人を頼って上京し、暖簾を分けて貰って横浜で蕎麦屋を営んだらしいです。新潟なので、家の宗教は浄土真宗でした。でも我家のは浄土真宗というよりは、死者崇拝という感じでした。仏壇があって、半年に一回くらい坊さんが来て、私は仏壇にはお祖父ちゃんが住んでいると思ってました。
長い前置きですが、私と仏教との関わりはその程度です。大学生のときに仏教の本を幾つか読みましたが、全く分からなかったです。分からなくて当然だと思います。他のところで書きましたが、日本には「仏教」という宗教は存在しないからです。
就職して5年目ぐらいに仕事の関係でインドに出張に行きました。仕事の合い間にタジマハールとか見て回り面白かったです。そこで次の年、結婚したばかりの家内をつれてインドを2週間まわりました。(新婚旅行はバリ島にいきました。) 途中、ボンベイ(今のムンバイ)の西のデカン高原にあるオーランガバードに寄りました。
オーランガバードからタクシーで1時間くらい?のところにエローラの石窟寺院はありました。近くの小学校の女の子たちが遠足に来ていたようです。岩山の中腹で私たちは出会ったのですが、細い道なので、数百人の女の子が列を作ってこちらにやってきます。日本人を見たことが無いのでしょう。楽しそうにお喋りをしてた子たちが、数メートル先で私たちに気づき「変な動物!」「見てはいけないものを見た!」という感じで、こちらをジッと見ながら表情を凍らせて通り過ぎて行きます。次から次とその繰り返しで聊かまいりました。
エローラは岩山の中腹に30ばかりの石窟が穿たれた
初期の仏教は己の救済だけ追究する内向的な思想であったという。そのため瞑想室のような閉空間を必要とした。僧房や僧院のことで、修行僧がここで生活しながら瞑想を行なった。