東京大司教である菊池司教が、枢機卿に選ばれました。

 

カトリックの位階は、①教皇、②司教、③信者の三段階です。神父さんは司教の代理です。銀行員の名詞で「部長代理」という人がいますが、「部長が忙しいので代理出来ました」ということです。神父(司祭)とは、「司教が忙しいので代理でやってます」ということです。

 

キリスト教徒は、イエスの復活を信じる宗教です。イエスの復活を目撃したのは12使徒です。キリスト教徒とは、「イエスの復活を見た」という、12使徒の証言を信じる人たちです。 そして12使徒の後継者が司教です。

 

枢機卿は、聖職者の中から教皇により指名される役職で、枢機卿団の一員となります。

 

枢機卿団の最も大きな仕事は、次の教皇を選ぶことであり、教皇が死んでから新たな教皇が選ばれるまでの

 
2024年9月21日、お茶の水駿河台にあるニコライ堂を訪ねました。
 
ニコライ堂は、日本にキリスト教正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭・聖ニコライ大首教が中心となり、1891年に献堂された聖堂です。
 
 
正教会は、一ヶ国一教会が原則なので、ギリシャ正教会、ブルガリア正教会、ロシア正教会、そして日本正教会といった個別の教会の総称です。他に、ギリシャ正教とか東方教会という総称でも呼ばれます。
 
一ヶ国一教会なので、ロシアとウクライナが戦争をすると、ロシア正教会はロシアの勝利を、ウクライナ正教会はウクライナの勝利を祈ります。ニコライはロシア人ですが、日露戦争のときには、日本の勝利を祈るように勧めました。日本政府も、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように強力な警備陣を配置しました。日露戦争は最後の”文明国の戦争”と言えるでしょう。多くの市民を巻き添えにした第一次大戦は、文明国の戦争とは呼べません。
 
今日、9月21日は正教会ではマリア様の誕生日です。カトリックでは9月8日にマリアの誕生日を祝いました。13日ずれてます。クリスマスも、正教会では年を越えて1月7日です。正教会では、4年に1度うるう年があるユリウス暦を使います。私たちが使っているグレゴリオ暦では、100で割り切れる年はうるう年にしない、でも400で割り切れるとしはうるう年にします。それで両者はズレます。2万年後には、正教会はクリスマスを真夏に祝うことになります。どうするのでしょう?
 
まず、神父さんから1時間ほど正教についての説明を受けました。下の写真は記念撮影です。神父さんの被っている円い帽子はカミラフカと呼ばれるもので、悪魔が放った矢をスルリと避けるための帽子です。悪魔の矢が雨あられと降っても大丈夫なように、私も石垣島で買った傘帽子を被りました。珍道中ですね。この神父さんは、ギリシャにあるアトス修道院で修練したそうです。日本人でアトスに行った人は数えるほどでしょう。

 
受付で頂いたパンフレットは、優しい言葉で正教の教え、キリスト教の教えを手際よく説明してありました。こんなに手際よい説明は見たことありません。いくつか要約しながら引用します。()内は私の注記です。
 
Q 正教の人間観は?
A 人間は神の似姿として造られましたが、(アダムにより)罪に陥りました。神との一致の道を開いてくださったのがイエス・キリストです。人間は、神に似たものへと限りなく成長するように促されています。
(・正教では、人間の成長に重きを置くようです。
 ・プロテスタントでは、人間の罪はあまりにも深いので、神の助けによってのみ  
  救われると考えます。努力しても無駄です。
 ・カトリックは、プロテスタントと正教の中間でしょうか。)
 
Q 正教会での、聖母マリヤの位置づけは?
A マリヤは私たちと同じ人間でありながら、神の母となったので「生神女/しょうしんじょ」と呼ばれます。(「いきがみおんな」ではありません)。神への従順な信仰により、人間のなかの最高の模範であり、今も私たちのために祈り続けているマリヤに、私たちは執り成しを願います。
 
Q イコンとは?
A イコンとは、キリストや聖人、聖書の場面などを描いた絵です。イコンが偶像崇拝であるかについては8~9世紀にかけて激しい議論が行われ、イコンは偶像崇拝ではないという結論に至りました。(イコンとは、パソコンの画面にあるアイコンと同じです。プログラムはパソコンの中に内蔵されており、アイコンはプログラムではありません。でもアイコンをクリックすると、内蔵されたプログラムに繋がります。イコンは神ではないけれど、神と繋がっているそうです。)
 
Q 八端十字とは?
A 正教会の十字架は、西方教会の十字架に加えて、上に短い横の板、下に斜めの横棒が渡してあります。
    八端十字
上にある横の板には、INRI(Iesus Nazarenus, Rex Iudaeorum)ユダヤ人の王、ナザレのイエスと記されています。これは、ポンテオ・ピラトが掲げさせたものですが、イエスが旧約聖書で預言された「ユダヤ人の王」であることが表されています。ちなみに、世界史の教科書に書いてある通り、民族宗教であったユダヤ教が、世界宗教になったのがキリスト教ですから、キリスト教では、「ユダヤ人の王」を「世界の王」と解釈します。この上の横板は、西方教会の十字架にも見ることができます。
 
罪人を十字架に架けて殺すとき、体重で体がずり落ちないように、「足台」を設けます。下の横棒が足台です。八端十字かの横棒はイエスから見て右側が斜め上に向いてあります。イエスが十字架に架けられとき、二人の盗賊が一緒に十字架に架けられました。左の盗賊はイエスを罵り、右の盗賊はイエスを救い主と認めました。そこで、右側の罪は軽いということで右上がりになったそうです。足台というよりは、滑り台と言う感じもします。「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」(エペソ1:22新改訳).
 
Q 正教徒とカトリックの違いは?
A カトリック教会が付け加えた次の教義を正教会は認めません。
 ①フィリオクエ 
 ②煉獄 
 ③無原罪のお宿り 
 ④聖母被昇天
従い、ローマが全世界の監督権を持ち無謬であることも受け入れません。
 
(ここで上げられた4点を、カトリック教会が付け加えたことは事実です。さらに興味深いことに、③④を熱心に信じている人はいますが、多くのカトリック信者は、これら4点に対して無関心です。私は40年以上カトリックですが、①②について神父さんが話しているのを聞いたことないです、③④については数回だけ、それも否定的な文脈でした。)
 
誰かが死ぬと、家族は「天国に行けますように」とお祈りをします。当然です。でも、天国に行けるかどうかを神様が決めた後にお祈りしても無駄です。そこで、死んだ人は煉獄と言う宙ぶらりんの処にいるからお祈りをする意味があるということで、煉獄が想定されたそうです。
 
③④の無原罪と被昇天は、教会が定めたというよりは、熱心な信者が「神父さん、そうですよね」と迫るので、神父さんも「うん、その通りだ」と言ってしまったという感じです。19世紀、20世紀は、マリアさまが度々出現したので、熱心な信者が生まれました。戦争でたくさんの人が死んだからでしょうか?1950年、ピウス12世により制定されました。
 
カトリックの神父さんは独身です。正教会では司祭は妻帯しますが、修道司祭は独身です。プロテスタントの牧師さんは結婚します。神さまが「神父は結婚するな」と言ったわけではありません。信者が「神父さんは独身で、神と信者のために働いて欲しい」と願い、教会が押し切られたようです。
 
私とニコライ堂に行った女性の一人は、正教会の神父さんが結婚していると聞いて怒ってました。
 
こうして見ると、煉獄、無原罪、被昇天、独身と、カトリック教会は信者に押されっぱなしの4連敗ですね。女性信者は強いです。
 
Q 正教徒プロテスタントの違いは?
A プロテスタントは「聖書のみ」を信仰の源としますが、正教会では、伝承や伝統を尊重します。(プロテスタントでは「聖書のみ」とは言っても、ルターやカルヴァンの著作を熱心に勉強しています。)
 
西側の教会は、ほぼほぼマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネといった正典のみに拠りますが、正教会はトマスの福音書のような外典にも目配りをしているようです。
 
パンフレットにあったキリスト教諸派の関係を示した絵を貼ります。正教会は幹で、カトリックは枝、プロテスタントは枝の枝になっています。そんな気もします。
 
 
Q 正教の十字架の切り方は?
西方教会では十字を切るときに、上から下、そして左 最後に右と切ります。
東方教会では十字を切るときに、上から下、そして 最後にと切ります。
 
先にお話しした右側の盗賊の罪が軽いことから、右が優先されるそうです。結婚指輪も右手にするそうです。
 
あと、正教会の神父さんはヒゲを生やすとか、ミサで使うパンにイーストを入れるか入れないかとか、いろんな違いがあるようです。
 
東方教会では、礼拝は人間の声だけで楽器は一切使いません。西方教会ではオルガンを使いますが、オルガンの音は「風が鳴っているのであって、楽器ではない」という訳の分からない理屈を立てています。今では、オルガン以外の楽器も使ってよいそうです。
 
下に貼ったのが内陣の写真です。 金色の壁にイコンが貼ってあります。これより前方が聖所(nave)、イコンの壁の奥が至聖所(sanctuary)です。naveとは船のことで、Navyと同源です。ノアの洪水のとき箱舟に乗った人が救われたことから、教会は救いの箱舟であるという意味だそうです。 そして至聖所はパンの聖変化が行われることで聖職者しか入れません。この構造はユダヤ教の教会の影響だそうです。
 
右側にニコライ総主教の遺体が安置されています。ヨーロッパの教会にも聖人の遺体が安置されているところがあります。日本でもお坊さんのミイラを即身仏として祀ってあるお寺がありますね。
 
Pin page
 
イコンについての説明も聞きました。独自の絵柄は用いず、伝統的な図柄を模写するそうです。これって面白いですね。音楽とか演劇とかは、昔からある楽譜や台本に従い再現します。芸術とは、模倣が基本であり、過度にオリジナリティや個性を追求するのは現代の悪弊かもしれません。正教会やカトリックでは、お祈りの言葉も、昔から続いている祈りの言葉を使います。自分の言葉で祈ることは少ないです。
 
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上の絵では向かって左側が優しい表情、右側が悲しい表情だそうです。キュビズムですね。そういえば、モナリザ反対で、向かって右は笑って、向かって左が泣いているそうです。私には良く分からないです。右も左も、笑っているような笑っていないような。。。
モナ・リザ
 
イコンで描かれている世界はこの世ではなく、天国だそうです。この世とは違った雰囲気を出すために遠近は用いません。西欧の絵画でも遠近が出てくるのはジョット(1267年頃-1337年)からです。ヴァザーリは「それまでの洗練されていなかったビザンチン美術を徹底的に打ち壊し、現在見られるような現実味あふれる素晴らしい絵画をもたらした。」と言ってます。
 
次の絵は「マリアの就寝」 マリア様が死んだときの絵です。中央のイエスが抱いている白いものがマリア様の霊魂だそうです。
 
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これにはチョットばかし違和感があります。人間の霊は神様から与えられたものですが、体と霊魂は一体です。「体の死によって、私たちは体を離れて、主のみもとにいる」(2コリ5:8)といっていますが、神さまが、私たちのことを覚えているのであって、体を離れた霊魂が単体として存在することはないと思っています。
 
次の絵は、スペイン人が大好きなムリーリョの「マリアの被昇天」です。カトリックでは、マリアは「天に挙げられた」=「自分で天に上ったのではなく、神によって持ち上げられた」=「被昇天」と言います。死んだ後に昇ったのか、死ぬ前に昇ったのかは意見の分かれるところです。
 
私は、マリアが16歳くらいの女の子みたいな顔をして天に昇る訳がないとおもっていますが、マリアの霊魂が幽体離脱するよりは、まだムリーリョの方が信じやすいです。
 
下の絵は、イエスが生まれたときの様子です。飼い葉おけで寝ているイエスを馬と牛が見ています。ところが、イエスの下側に寝ているマリア様は、イエスの方を向かずそっぽを向いています。そして下の方には、光輪のあるヨセフが物思いに耽っています。ヨセフは「俺はなんにもしてないのに、どうして子供が生まれたんだろう?」と悩んでいるそうです。ヨセフの前にいるのが悪魔でヨセフを唆しています。マリアは、そんなヨセフが心配でイエスよりヨセフの方を向いているのです。面白いですね。
 
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お仕舞いに、神父様が私たちのために祈ってくれました。美しい祈りでした。
 
日本での信者数が1万にも足りないのに、教会を維持し、自前の神父さんを輩出している正教会は立派だと思いました。
 

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原罪とは不幸であること。  自己意識 第三者の目を通して自分を見るから裸であることに気がついた。 措定した

 

 

 

 

 

 

 

 

「とがめの交唱」である。この聖歌は、その歌詞が神に向かって賛美をささげるものではないところに最大の特徴がある。逆に、神が私たちに向かって「民よ」と繰り返し呼びかけているのである。そのリフレイン、すなわち「交唱」は、こうなっている。「民よ、わたしにこたえよ。わたしはあなたに何をしたか。何をもってあなたを悲しませたか。」

 

十字架の礼拝

この式の起源は古く、4世紀のエルサレムではキリストの十字架の聖遺物への礼拝が、聖金曜日の午前中に行われていました。このような実践が、西方教会に伝えられ、しだいに典礼として定着しました。現行の『ミサ典礼書』には、十字架の礼拝中に歌う聖歌として、二つの十字架賛歌(「クルーチェム・トゥアム」、「クルクス・フィデーリス」)と「とがめの交唱」を記載していますが、他のふさわしい聖歌を歌うこともできます。
「クルーチェム・トゥアム(Crucem tuam)」は9世紀ごろに東方教会で編集された交唱集に由来する聖歌です。「とがめの交唱」は、不信仰な民をとがめる神の言葉で構成されています。「非難」や「とがめ」を意味するラテン語で「インプロペリウム(Improperium)」とも呼ばれます。歌の途中に、「ハギオス」(聖なる)というギリシア語で始まる神への賛美の言葉を3回繰り返す「トリスアギオン」(三聖唱)と呼ばれる部分が挿入されます。「クルクス・フィデーリス(Crux fidelis)」は6世紀に活躍した詩人ヴェナンティウス・フォルトゥナトゥス(530~609年)が、十字架の聖遺物の行列のために作ったと言われています。

 

under construction

 

集団の統合   ナショナリズムにより取って代わられた

 

 

戦いたいという欲望 アドレナリン

 

 

ノルアドレナリンやアドレナリンは戦うためのホルモンです。戦うためには筋肉を動かす必要があります。ですから交感神経は心臓の鼓動を早くし、血圧を高くし、筋肉の血管を開きます。また肝臓に蓄えていたグリコーゲンを分解してブドウ糖にし、脂肪を遊離脂肪酸にして筋肉に血液とエネルギーを送ります。でも逆に皮膚の血管は収縮させて、怪我をしたときに出血しないようにします。体温を温存するために体中の毛が立ち鳥肌になって、ぶるぶると武者奮いが起きます。でもこれは人間が毛で覆われていた古い時代の名残です。

 

アドレナリン中毒アドレナリン・ジャンキー(adrenaline junkie)とは、「物理的、社会的、法的、財政的リスクを無視した、新規で強烈な経験の追求」で得られる感覚の追求に取り組んでいる人のことを指す[12]。それらの活動として、極端に危険なスポーツ、薬物乱用、危険セックス、犯罪行為があげられる。この用語は、生理的ストレスにある環境での、アドレナリンの循環レベルの増加に関連するものである[13] 。

火事場の馬鹿力

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アドレナリンは、非常に強力な肉体力(火事場の馬鹿力)に関係しており、これはしばしば危機の時に発生する。たとえば、子供が下に閉じ込められたときに、親が車の一部を持ち上げたというエピソードが存在する[14][15]

 

 

祈ったり、信じたりすることが宗教の本質です。でも、宗教には副産物、副作用があります。この副産物、副作用って膨大なものであり、「宗教の本質」よりも大変そうです。考えただけでもウンザリ。

 

ここで副産物とは良いこと、副作用は悪いこと、になります。

 

これら宗教の副産物は、人間が農耕を始め、大集団を形成したあたりから生じたようです。 そして現代では、副産物は不要になったようです。

 

神を信じることによって得られる副産物があります。私のように退職した人間にとって教会に行くことは時間つぶしになります。聖歌隊に入ると練習に時間がとられます。祈ることで得られる充足感も大きいです。

 

出会い

 

芸術  共通の物語 物語のない純粋芸術

 

共同体

 

 

キリスト教には多様性がないと書きましたが、教会には多様性があります。自分に合った教会が見つけられれば副産物も大きくなります。

 

大まかな話ですが、カトリックはぬるま湯で人間関係も薄いです。プロテスタントの方が熱心で人間関係が濃いという印象があります。

 

「宗教の起源」―私たちにはなぜ≪神≫必要だったか

 

著者は進化心理学者のロビン・ダンバー。 【サピエンス全史】の中で紹介された人です。280ページの本なので、長谷川真理子先生の「解説」の要約を記します。

 

ダンバーは、ヒトとは社会性を発達させた動物であるという考えに基づき、人間が親密性を感じて暮らすことのできる集団の大きさは150人が上限であるという「ダンバー定数」の提唱者として知られている。(ネアンデルタール人は体も大きく力も強いので集団を作る必要がありませんでした。人間は体も力も弱いので、集団を作ることが必要でした。)

 

人類は1万年前に農業をを始め、都市や文明といった150人を越える集団を発展させた。それを可能にしたものの一つが宗教による結束であった。(とすると、ネアンデルタール人には宗教は無かったことになる。 縄文人は農耕はしてないし、集落も20人程度が多かったけれど、三内丸山遺跡は500人。)

 

人間は自己と他者を認識し、自己にも他者にも「心」があることを認識した。更に、自分と他者とをシミュレーションすることにより、他者に共感できるようになった。

 

そして、あまり原因が分からないことが起こった場合には、何か、自分たちとは異なった能力を持ったものが存在していると想像する。更には、その想像を他者に伝え、他者もそれに同意するようになった。

 

宗教の根源には、「現象を因果関係によって説明する」ことと、「自分たちを越える何かが存在する」という考えが結びついている。 踊り続けたり、歌い続けると、脳内のエンドルフィンの分泌により「奇妙な気分」になりトランス状態が生じる。これが「自分たちを越える存在」に繋がるらしい。

 

「人類はなぜ宗教を信じるのか?」 それを進化的に分析しようというのがダンバーの試みである。

 

人間にはエンドルフィンの分泌のように宗教を生み出す脳内基盤があるが、それは宗教を生み出すことを目的に進化したのではない。 因果関係を推論すること、他者の心を推論すること、他者と共感すること等が人類の社会生活には必要だったために発達した脳内機能だ。その副産物として、当初の目的とは異なった宗教のための脳内基盤となる。

 

長谷川先生は「無神論の権化」を自認しているが、カンボジアでポル・ポト政権による大量殺戮の跡を見学したとき、積み重ねられた犠牲者の骸骨・遺骨を見て、無性にどこかのお寺で祈りたくなったという。あまりの理不尽さを前にして、心の平安を得るためには超自然的な力に祈るしかなかったという。 知ったり分かったりするだけでは、心の平安は保てないことに気づいたという。

 

付け足し:

 

ロビン・ダンバーは進化論的、社会学的に「人間はどうして宗教を生み出したのか」という問題を分析しています。これを読むと、「神は、社会学的、進化論的な想像の産物である」と言い切る人もいるかもしれません。

 

しかし、神はあらゆる手段で私たちを招いています。 奇跡や預言といった啓示だけではなく、トランス状態やエンドルフィンといった脳内構造の進化も、神が私たちを招く手段だと考えるのが信仰者の立場です。

 

信仰を啓示や神秘体験のみに頼るのではなく、理性によって神を認識する試みが中世の自然神学です。スコラ学では、「神は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」というそうです。

 

更に20世紀にはカトリック司祭にして北京原人の研究を行ったピエール・テイヤール・ド・シャルダンは『現象としての人間』によりキリスト教と進化論とを結び付けました。ロビン・ダンバーの研究も、その延長線上に捉えることができると思います。

 

 

 

 

パリオリンピックが無事に終わりました。いろいろと批判の声を多く聞きますが、これは本当に問題の多いオリンピックだったのか、それとも批判の声が大きく響くネット社会の現象にすぎないのか不思議なところです。 特に日本でパリオリンピックを批判しているのはネットの声です。ネトウヨが日本を代表しているとは思えません。

 

セーヌ川で泳がせたのは失策でしょうし、選手村は「環境に優しくて選手に厳しい」状況だったようですが、その他の問題はどの大会でもあるものだと思います。

 

日本の選手の活躍が大きく伝えられ、獲得したメダルの総数も、東京大会を除いて過去最高だそうです。

 

金メダル数・上位20国の国別のメダル数を下に示します。

 

    合計
1 アメリカ 40 44 42 126
2 中国 40 27 24 91
3 日本 20 12 13 45
4 オーストラリア 18 19 16 53
5 フランス 16 26 22 64
6 オランダ 15 7 12 34
7 イギリス 14 22 29 65
8 韓国 13 9 10 32
9 イタリア 12 13 15 40
10 ドイツ 12 13 8 33
11 ニュージーランド 10 7 3 20
12 カナダ 9 7 11 27
13 ウズベキスタン 8 2 3 13
14 ハンガリー 6 7 6 19
15 スペイン 5 4 9 18
16 スウエーデン 4 4 3 11
17 ケニア 4 2 5 11
18 ノルウエー 4 1 3 8
19 アイルランド 4 0 3 7
20 ブラジル 3 7 10 20

 

獲得総数第三位ですから大変な健闘です。「日本はメダル大国」なんていう声も聞こえます。

 

しかし、この数字も、「獲得メダル当たりの人口」で見ると様相は一変します。
 
    獲得メダル数 獲得メダル当たりの人口 万人
1 ニュージーランド 20 27
2 オーストラリア 53 50
3 オランダ 34 52
4 ハンガリー 19 53
5 ノルウエー 8 69
6 アイルランド 7 73
7 スウエーデン 11 97
8 フランス 64 101
9 イギリス 65 105
10 カナダ 27 118
11 イタリア 40 147
12 韓国 32 162
13 ドイツ 33 252
14 スペイン 18 264
15 アメリカ 126 271
16 日本 45 272
17 ウズベキスタン 13 275
18 ケニア 11 511
19 ブラジル 20 1,088
20 中国 91 1,566
 
トップは、27万人で1個のメダルを獲得しているニュージーランドです。ラグビーではオール・ブラックスという常勝チームを擁しています。2位のオーストラリアもラグビー強豪国です。元気な男の子はみんなラグビーに取られても、メダル効率世界一です。
 
20位は、1566万人でメダル一個の中国です。金メダル数でいえばアメリカに次いで第二位の「メダル大国」ですが、「人口が多いだけじゃないか」という声が上がりそうです。
 
金メダル数、世界一位のアメリカも、272万人で一個です。日本と変わりありません。
 
こうやってみると、1位から7位までは、白人の小国が効率よくメダルを取っていることが分かります。このグループは一人当たりのGDPが5万~10万ドルの裕福な国々です。小国が多いのはどういう理由でしょうか? 目を引くのはハンガリー。カヤック、フェンシングが重点的に強い国です。総花的よりは、一点集中が良いのでしょうか?
 
そして、8位から14位までは英独仏伊西といったヨーロッパの大国と韓国を含めたグループ。 このグループは3万~5万ドルぐらいの裕福な国が多いです。
 
その次15位から20位には、米中、日本、ブラジルといった超大国が並びます。 日本は1億以上の人口があるので超大国です。このグループは、一人当たりのGDPが8万ドルを超えるアメリカ以外、比較的貧乏な国です。3万5千ドルの日本は円安が無ければ5万ドルの実力として、中国は1万2千ドル、ブラジル1万ドル。一人当たりのGDP2500ドルのウズベクスタンは、レスリング、柔道、テコンドーといった格闘技でのメダルです。同じく2000ドルのケニアは言わずと知れた陸上競技です。やはり一点集中が良いようです。
 
豊かな国が圧倒的にメダルを取ってますね。ちなみにロシアは1万4千ドルです。そして、トップ20の国の多くはウインタースポーツも強い国です。
 
人口が大きいのに、メダルが取れていない国もあります。軍隊の訓練で様々なスポーツをすると思うのですが、文化の違いなのでしょうか。国を挙げての強化がないとむずかしいのでしょうか。
 
         人口 万人
インド 144,170
インドネシア 27,980
パキスタン 24,520
ナイジェリア 22,920
バングラ 17,470
メキシコ 14,940
ロシア 14,000
エチオピア 12,970
フィリピン 11,910
エジプト 11,450
コンゴ 10,560
 
インドはクリケットが盛んですが、オリンピック種目ではありません。アメリカはフットボール、野球が盛んですがオリンピック種目ではありません。日本の相撲や野球もそうですね。ヨーロッパで盛んな競技は全てオリンピック種目になっているようにも見えます。チームスポーツに比べると、個人競技でメダルを稼いだ方が効率的でしょうね。
 
ノーベル賞も日本は、2000年以降の受賞者数はアメリカに次いで第二位ですが、人口当たりでみると、日本の強みは人口が大きいということで、別の景色が見えてくるでしょう。 
 
人口が少ない方が効率が良いのかもしれません。アメリカ、中国、インド、ブラジル、日本と言った国は、人口が多いが故の非効率さがあるのかもしれません。
 
それと、参加していないけれど、ロシアを忘れてはいけません。

 

「仏教は宗教ではないらしいー②」は一旦、書いたのですが間違えて消してしまいました。仏罰かもしれません。負けずに書き直します。

 

「一神教には多様性はないが、仏教にはある」と言う人がいますが、本当に多様性が良いと思っているのでしょうか? 回転ずしの「はま寿司」に行くと、鮨だけでなく、ラーメンも天ぷらも、刺身もメロンパフェも廻っています。多様性で気持ち悪いです。統一感がありません。

 

ニュートンが「万有引力の法則」を発見したことは小学生でも知っています。「万有」とは何の意味でしょうか? 「宇宙のすべてに当てはまる」と言う意味です。英語ではNewton's law of universal gravitation と言います。universal=万有です。

 

つまり、「宇宙のすべてに当てはまる一つの法則」ということです。重力の法則は一つです。はま寿司のような多様性はありません。実際には、①「強い力」、②「弱い力」、③「電磁気力」、そして④重力の四つの力があるそうですが、私たちには関係のない話です。重力一つでアンドロメダの果てまで行けます。小惑星探査衛星「はやぶさ」も重力の軌道計算に従い地球に帰ってきました。

 

重力に多様性があったら大変なことになります。台所では上から下に落ちる重力。居間に行くと、別の重力があって包丁が右から左に飛んできます。トイレに行くと、重力が下から上に働いて・・・

 

はま寿司にせよ、重力にせよ、多様性なんて真っ平御免です。

 

さて、私が通っているのはカトリック教会です。カトリックとは「普遍的,公同の,万人のためと」という意味です。そう、英語だとUniversalです。万有教会と看板を書き換えても良いかもしれません。世界の何処に行っても通用する一つの教えです。トイレの神さまと台所の神さまが違うなんてことはないので、安心して包丁を置けます。

 

別のところでも書きましたが、仏教ではすべてが諸行無常だそうです。お釈迦様の教えも絶対ではなく変わります。道元さまの教えも変わります。弘法大師の教えの通り修行して悟りを得ると思ったら、「いやあ、俺の教えも昨日で変わったんだよ」と言われるかもしれません。

 

「諸行無常」という教えがある訳ですが、その「諸行無常」という教えも変わるのでしょうか? すると、全てのものごとは変わらない、諸行恒常になるのでしょうか?

 

「クレタ島人は嘘つきだと、クレタ島人が言った」と同じですね。大学院レベルの数学が出来ると、このパズルは解けるそうです。私には分りません。 

 

④仏教に基づく統一した社会集団もない。

 

無いです。

 

ということで、wikiに記された宗教の4条件、仏教は全て満たしていないので、仏教は宗教ではない、ということになります。

 

ただ、wikiの定義だけを用いるのはフェアでない気がするので、他の定義も見てみます。

 

関塾という受験塾の問題 : 「宗教とは、神や仏など、人間を超えた存在を信じ、それに伴う制度や儀式のことを言います。」

 

ここでも「人間を越えた存在を信じるのが宗教」とあるので、仏教は当てはまりません。

 

日本国語大辞典 

  1.  ( 宗と教、または宗の教、あるいは宗すなわち教の意。「教」は教説で、「宗」はその教が主とするところの理 ) 仏語。仏の教え。また、宗門の教え。
  2.  ( [英語] religion の訳語 ) 人間生活の究極的な意味をあきらかにし、かつ人間の問題を究極的に解決しうると信じられた営みや体制を総称する文化現象をいい、その営みとの関連において、神観念や聖性を伴う場合が多い。

こちらは、「神観念や聖性を伴う場合が多い」となっています。神さまがいなくても、神さまが聖なるものでなくても宗教となりうる、ということです。ちょっと吃驚です。イワシの頭でも拝めば宗教になる訳です。これは、辞書の編集者が、「仏教も当てはまる定義にしよう」として作文したのだと思います。

 

①の(「教」は教説で、「宗」はその教が主とするところの理 )仏語、というのは仏教も当てはまります。でも、これだと、道徳の教科書や学生心得も宗教になりそうです。この辞書の編集者は、仏教に気を使いすぎですね。逆に言えば、辞書の編集者が気を遣うほど、仏教は宗教らしくない、ということでしょう。

 

日本人の書いた仏教の本は、お坊さんが書いているので、自分の宗派が中心な気がします。私の家は浄土真宗なので、シンパシーを持っていますが、お釈迦様が死んでから500年もたったころに突如出てきた「仏説無量寿経」が、お釈迦さま自ら口で説いた教えだなんて信じられません。処女マリアが子供を産んだという方がまだ信ぴょう性があります。

 

フランス人の書いた仏教史の本があるそうです。読んでみようかなと思います。

『仏教の歴史 いかにして世界宗教となったか』ジャン=ノエル・ロベール

 

 

 

いままで、「宗教」に関していろろと考えてきました。

 

wikiで、「宗教」の定義を調べてみると、

人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」だそうです。

 

このwikiの定義に従って、仏教とキリスト教を考えると、両者の違いが際立つでしょうし、得られるものもあるかもしれません。

 

結論を先取りすると、「仏教は宗教ではない」、ということになりそうです。

 

①まず、信仰がない。

②仏さまは自然を越えていない。

③仏教としての統一した体系はない。

④仏教に基づく統一した社会集団もない。

 

とナイナイ尽くしになります。

 

順を追って考えます。

 

①仏教には信仰がない。

 

全日本仏教会の定義によると、仏教とは、「仏陀の教えに従い修行して、悟りを得るもの」です。ここには一かけらの信仰もありません。「ライザップのメソッドに従いトレーニングして痩せる」と同じです。あるのは修行とトレーニングです。頑張ってください。

 

キリスト教は「神の子イエスによる救済を信じる」ものです。キリスト教の教義をまとめた「二ケア信条」は「私は信じます」に始まり、マリアが処女だとか、イエスが死んでから生身で復活したとか荒唐無稽なことを信じろと言っています。幼児洗礼の人で、信仰が自然と身に付いている人は別として、処女とか復活とか相当に頑張らないと信仰は得られません。

 

処女が子供を産むなんて科学の発達した現代では信じられないという人も多いでしょう。でも、心配には及びません。科学の進歩していなかった2000年前の人だって、処女が子供を産むわけないぐらい知っていました。あり得ないことだから信じるのです。「不可解だから信じる」と言ったのはパスカルです。

 

仏教の宗派で「信仰」があるのが浄土宗です。阿弥陀様の救いを信じます。浄土真宗では、死んだ人は必ず極楽に行くので供養はしないそうです。カトリックでは死んだ人が天国に行けるよう祈るので、これも一種の供養かもしれません。

 

世の中の人は、クリスチャンという言葉の前に、枕詞のように「敬虔な」という言葉を付ける傾向があります。ところが「敬虔な仏教徒」とは言わないようです。どうしてでしょうか? 仏教では仏様を敬うよりは修行するからでしょうか? そして、仏教の宗派で「敬虔な」という形容詞を取るのは、浄土真宗(門徒)だけだそうです。浄土真宗には信仰があるからでしょうか? 「スリランカは敬虔な仏教国だ」というように、外国の仏教徒には「敬虔」が使われるようです。どうしてかは、分かりません。

 

②仏さまは自然を越えていない。

 

小室直樹氏は「仏教は法前仏後、キリスト教は神前法後」と言ったそうです。キリスト教では、なんでだか知らないけれど始めに神があって、その神が秩序(法)によりこの世を創ります。だから神さまは世界より先にあります。神は世界を越えています。

 

仏教では、なんでだか知らないけれど始めにこの世があって、修行によって、この世の法を見つけた人が仏になります。仏さまは世界より後です。仏さまはこの世を越えていません。

 

数ある仏さまの中で最強の実力を誇る大日如来も宇宙を体現しているだけで、宇宙を越えていません。

 

③仏教としての統一した体系はない。

 

「キリスト教には色んな宗派があって喧嘩ばかりしている。だから一神教はダメだ」という声をよく耳にします。

 

確かにそう見えます。ただし、日本のカトリックは他の宗派に対して無関心なので、多宗派との喧嘩どころか、話題にもなりません。

 

意外に思われるかもしれませんが、キリスト教の宗派間の教義の違いは殆どありません。ためしに、色々な宗派の神父さん、牧師さんを100人集めて、「あなたの信じているキリスト教を、原稿用紙1枚で網羅的にまとめてください」とお願いします。

 

結果は、金太郎飴のように同じ内容の原稿が並びます。一字一句、同じ文章を書く人も多いと思います。先に紹介した「二ケア信条」は日本語で500字です。原稿用紙1枚400字では不一致の起こりようがありません。

 

モルモン教や統一教会は、このレベルでの不一致があるので、キリスト教として認められません。キリスト教は「不寛容」な宗教です。多様性は認めません。「統一した体系」である二ケア信条から異なれば「排除の原理」が働きます。

 

宗派間の争いは、二ケア信条の解釈、各宗派のカルチャーの違い、そしてパトロンである政治家によるものです。解釈に関するものでも、同じ土台の上での議論ですから、議論は噛み合い、些細な相違点は明確に浮かび上がります。似た者同士は喧嘩をするのです。戦国時代、日蓮宗と浄土真宗は仲が悪かったそうです。不思議に思った織田信長がお側の僧侶に「あの二つは何故仲が悪いのか?」と聞いたそうです。僧は「似ているからでございます」と答えたとか。

 

実際のところ、キリスト教の宗派間の争いのほとんどは「金と人事」に関しての争いです。宗教改革は「教会人事をローマのイタ公が握っているのが気に入らない」、「俺たちが払った献金をイタ公が召し上げるのが怪しからん」というドイツ人の怒りです。ルターが都合良く信仰箇条についての疑義を出してくれたので、それに乗ったまでです。争いの本質は金と人事です。宗教のために戦争するほど人間は宗教熱心ではありません。

 

会社の中でも揉めごとがあります。みんな「会社のためだ」とか「規則に反している」とかもっともらしい理由を言い立てますが、本音は金と人事です。自分の給料をどう上げるか、昇格人事をどうするかが本丸です。会社のためなんてどうでも良いです。 政治家だって、国を良くするための政策よりは、親分が何と言っているか? 大臣になるためには誰を支持したらよいか?といった方が重要です。

 

仏教にも多くの宗派があります。色んな宗派のお坊さんを100人集めて「あなたの説いている仏教を、原稿用紙1枚程度にまとめてください」とお願いしてみてください。結果はどうなるでしょうか? 

 

てんでんバラバラ。

 

これらの、てんでんばらばらの原稿用紙100枚をまとめて「仏教とはなにか」を帰納することは不可能でしょう。仏教には「統一した体系」がないのです。

 

仏教国でも多神教でも争いはあります。日本でも中国でもインドでも争いはあります。金と人事のあるところ、争いは必ず起きます。

 

「統一した体系」だけでなく、私は、仏教は存在しないと思っています。 仏教があると言っている人は、心が「仏教」に執着しているので、無いものが見えてしまうのです。お釈迦様の教えに従って修行すれば、「仏教」などないことが分かると思います。お釈迦様は「仏教」と言う言葉を使ってないらしいです。

 

疲れたので、⑥ー2に続きます。

 

 

 

後記1

 

キリスト教は、12使徒によって地中海東部で始められました。15世紀までの間、地中海地域とヨーロッパ、ロシアでのみ布教されています。つまり、創業の地で、創業者の後継者により、創業者の言葉であるギリシャ語、ラテン語によって整えられたのがキリスト教です。「本場の味」が保存された訳です。

※12使徒はがガリレアの人であり学校教育は受けてないはずです。例外的にパウロはギリシャ語を話せました。第二世代はギリシャ語もラテン語も話せたはずです。

 

一方、仏教はインドで生まれました。中央アジアを経て、中国、更に日本と北方に伝ったので「北伝」と言います。 スリランカ、タイといった南の国々に伝わった仏教は「南伝」と呼ばれます。チベットに加え南伝の国では、仏典が全巻揃って伝えられ、教団の組織も原型をとどめたままで伝えられたそうです。ところが、創業の地であるインドでは、仏教は滅びてしまいました。「本場の味」は断絶しました。(スリランカとかには本場の味が伝え得られたようです。)

 

北伝では、多くの僧が砂漠を越えてインドから仏教を伝えました。これらの僧達を三蔵法師と呼びます。西遊記に出てくる玄奘は三蔵法師の一人です。砂漠を越えるのですから、仏典は切れ切れに伝えられ、組織としての教団は伝わりませんでした。北伝の仏教が仏教全体ではなく、禅宗であったり、法華宗、浄土教といった一部分のみを取り出して布教されたのはこのためです。「本場の味」がインドで断絶したあと、日本でインド料理といえば単品商売のカレー屋だけだったことに似ています。でも、インド料理にはタンドリもあれば、カバブもあります。日本でフルコースのインド料理が食べられるようになったのは、も20年くらい前からでしょうか。

 

焼き鳥屋には、ハツ、タン、もも肉、レバーとあって多様性がありますが、ローストチキンのような「丸焼き」はありません。キリスト教には色々な宗派があるけれど、味付けは違ってもみな丸焼きです。

 

統一教会とかモルモンとかはキリスト教を名乗っています。彼らはキリスト教の丸焼きに、豚の挽肉や、牛の挽肉を詰めた感じでしょうか。混じり物があるので正当なキリスト教とは見做されません。

 

私は胃袋で考える質なのか、食べ物を例にとると分かった気になります。

 

 

後記

 

お釈迦様が死んだのは紀元前400~500年ぐらいらしいです。ところが、

 

法華経が出来たのは、紀元後40~200年とも言います。他の大乗経典も、そのころに書かれたそうです。つまり大乗経典の多くは、お釈迦様が死んでから500年くらいたってから作られたものです。それにも拘わらず、「仏説」とか「如是我聞 かくのごとく、我聞けり」のように、恰もお釈迦さまが言っているを聞いたかのように書かれています。

 

イエス様は、死んで三日の後に復活しました。私は、「お釈迦は、500年後に復活して喋り出した。」と考えることにしています。仏教のお坊さんたちは、「お釈迦様が生前に語った言葉が、死後500年後に経典として書かれた」と解釈するそうです。死んだ人が復活したり、500年の間、口移しで語り継がれた膨大な言葉が500年後に書き留められるといのも、常識的にはないでしょう。

 

信仰ということになります。どうせ信じるなら荒唐無稽な方が信じるに値すると思います。500年間の口移しというのは、事実に置いて検証されるべきです。お釈迦様が復活したんだったら信じるに値します。

体は大切  シリーズ⑦

 

大抵の宗教は「死後の世界」について語っています。

 

宗教を信じていない人でも、「母さんは、今ごろ天国で父さんと夫婦喧嘩しているだろう」とか言います。来世を語ることで死んだ人の幸福を願い、これから死ぬ自分をも安心させたいという思いなのでしょう。「死んだらお仕舞い」では不安なのです。嘘でも良いから「死後のイメージ」を持っていたいのかもしれません。

 

仏教で「死後」をどう考えるかは、宗派によってマチマチで、まさに仏法は諸行無常です。お釈迦様は、「いかに生きるかで精一杯なので、死後のことまで手が回らない」と言ってます。浄土宗や禅宗は、霊魂や死後について否定的ですが、遺族の心に寄り添って死者供養をするそうです。天台宗、日蓮宗、真言宗は肯定的です。「仏教という一体性のある宗教」は無いんですね。

 

インドという土壌に咲いた花が仏教です。 当時のインドでは輪廻という考えが支配的だったので、お釈迦様は輪廻に基づいて教えを説きましたが、輪廻が仏教の教えという訳ではないそうです。これを「輪廻は仏教にとって本来的だが、本質的ではない」というそうです。

 

ユダヤ教では、土から作られた人間は、死んだら土に還ってお仕舞い、というのが基本形です。ただ神さまには出来ないことはないので、神が望めば死者も復活します。

 

神は、エゼキエルという預言者を、死者の谷に連れて行きます。そこにはたくさんの骨がありました。そこで神は、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」といいます。すると、先ず体が復活し、次に体に霊が吹き込まれました。(エゼキエル37章)

 

イスラム教やキリスト教では、「死」とは、いつか復活するまでの一時的なお別れです。死んだ人の魂は一度肉体から離れるものの、「裁きの日」に魂は新たな肉体と結び付いて復活すると信じられています。だから、天国は「幽霊のディズニーランド」ではありません。生身の体で天国に行けます。

 

仏教でも神道でも「体の復活」という考えはないようですら、極楽は「幽霊のディズニーランド」ということになります。

 

私の考えでは、生まれる前の体がなかったとき、「私」はいなかったのだから、死んで体が滅びれば「私」もお仕舞いと思います。ただ、私のことは神の記憶の中に残って、いつか「私」の心が新たな体を得て復活するかもしれません。復活しないかもしれません。

 

昭和45年に流行った歌で「顔じゃないよ心だよ」という歌があります。こういう「心が大切」という考えは、多く見られます。 

 

「おもしろきこともなき世をおもしろく 住みなすものは心なりけり」

 

これは、高杉晋作が上の句を詠んだところで、喀血して下の句を尼僧が補ったそうです。精神主義という感じで、下の句がない方が良い気がします。

 

東洋は精神主義という感じがしますが、プラトンも「魂は、肉体という牢獄に閉じ込められている」と考えていたので、あの肉体賛美のギリシャでも「心が良くて、体が悪い」という考えはあったようです。

 

トマス・アクィナスは、「私の魂が、私なのではない」“anima mea non est ego “と言っています。推し進めれば、「体と心の複合体が私なのであって、魂だけでは私ではない」ということになります。

 

死んで体を失った人の霊魂は、重度の認知症患者みたいなもので、精神活動は乏しくなります。私たちが死者のために祈るのは、死者は祈ることもできないからだそうです。

 

神さまが「愛の神」であるならば、重度の認知症状態に、私たちを放置しておかないと思います。死んだ後、いつかは体が復活して天の国に行けると希望しています。「信じている」というよりは希望し待っています。

 

量子物理学という数学が超人的にできる人だけが理解できる学問があります。これによると、宇宙で起きたことの全ての情報は、ブラックホールの内側に記憶されているそうです。私たちの心の動きも、脳内シノプスでの電子や脳内物質の活動なので、記憶されているそうです。これって、死んだ後の認知症状態に似ているかもしれません。ただネットを見ると、似非科学者みたいな人が、ウロウロしているので気を付けましょう。

 

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」Ⅰコリント13:13 

 

私が子供のころ「帰って来たヨッパライ」という歌が流行りました。交通事故で死んだヨッパライが天国に行って「天国良いとこ一度はおいで、酒は美味いし、姉ちゃんは綺麗だ」と歌います。

 

聖書を読むと、天国にはヴィンテージ・ワインと霜降りの肉がある、と書いてあります。

 

「万軍の主は、この山の上で万民のために、脂身の多い肉と 古いぶどう酒の宴会を開かれる。」イザヤ25-6 

 

酒も美味いし姉ちゃんも綺麗なはずです。天女がいるはずです。イケメンの天使もいるでしょう。イエス様だって、マクダラのマリアを始め多くの女の人に囲まれていました。そして、復活したときも、真っ先にマクダラのマリアの前に現れました。でも、キリスト教では食べることが第一です。

 

イエスさまが復活した後、真っ先に言った言葉の一つが「食べ物はないか?」です。

 

ヨハネ21「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

 

復活とはたとえ話ではなく、生身の新しい体を与えられるという希望です。生身だから霜降り肉や魚を食べます。姉ちゃんだっているはずです。