2024年9月21日、お茶の水駿河台にあるニコライ堂を訪ねました。
ニコライ堂は、日本にキリスト教正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭・聖ニコライ大首教が中心となり、1891年に献堂された聖堂です。
正教会は、一ヶ国一教会が原則なので、ギリシャ正教会、ブルガリア正教会、ロシア正教会、そして日本正教会といった個別の教会の総称です。他に、ギリシャ正教とか東方教会という総称でも呼ばれます。
一ヶ国一教会なので、ロシアとウクライナが戦争をすると、ロシア正教会はロシアの勝利を、ウクライナ正教会はウクライナの勝利を祈ります。ニコライはロシア人ですが、日露戦争のときには、日本の勝利を祈るように勧めました。日本政府も、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように強力な警備陣を配置しました。日露戦争は最後の”文明国の戦争”と言えるでしょう。多くの市民を巻き添えにした第一次大戦は、文明国の戦争とは呼べません。
今日、9月21日は正教会ではマリア様の誕生日です。カトリックでは9月8日にマリアの誕生日を祝いました。13日ずれてます。クリスマスも、正教会では年を越えて1月7日です。正教会では、4年に1度うるう年があるユリウス暦を使います。私たちが使っているグレゴリオ暦では、100で割り切れる年はうるう年にしない、でも400で割り切れるとしはうるう年にします。それで両者はズレます。2万年後には、正教会はクリスマスを真夏に祝うことになります。どうするのでしょう?
まず、神父さんから1時間ほど正教についての説明を受けました。下の写真は記念撮影です。神父さんの被っている円い帽子はカミラフカと呼ばれるもので、悪魔が放った矢をスルリと避けるための帽子です。悪魔の矢が雨あられと降っても大丈夫なように、私も石垣島で買った傘帽子を被りました。珍道中ですね。この神父さんは、ギリシャにあるアトス修道院で修練したそうです。日本人でアトスに行った人は数えるほどでしょう。
受付で頂いたパンフレットは、優しい言葉で正教の教え、キリスト教の教えを手際よく説明してありました。こんなに手際よい説明は見たことありません。いくつか要約しながら引用します。()内は私の注記です。
Q 正教の人間観は?
A 人間は神の似姿として造られましたが、(アダムにより)罪に陥りました。神との一致の道を開いてくださったのがイエス・キリストです。人間は、神に似たものへと限りなく成長するように促されています。
(・正教では、人間の成長に重きを置くようです。
・プロテスタントでは、人間の罪はあまりにも深いので、神の助けによってのみ
救われると考えます。努力しても無駄です。
・カトリックは、プロテスタントと正教の中間でしょうか。)
Q 正教会での、聖母マリヤの位置づけは?
A マリヤは私たちと同じ人間でありながら、神の母となったので「生神女/しょうしんじょ」と呼ばれます。(「いきがみおんな」ではありません)。神への従順な信仰により、人間のなかの最高の模範であり、今も私たちのために祈り続けているマリヤに、私たちは執り成しを願います。
Q イコンとは?
A イコンとは、キリストや聖人、聖書の場面などを描いた絵です。イコンが偶像崇拝であるかについては8~9世紀にかけて激しい議論が行われ、イコンは偶像崇拝ではないという結論に至りました。(イコンとは、パソコンの画面にあるアイコンと同じです。プログラムはパソコンの中に内蔵されており、アイコンはプログラムではありません。でもアイコンをクリックすると、内蔵されたプログラムに繋がります。イコンは神ではないけれど、神と繋がっているそうです。)
Q 八端十字とは?
A 正教会の十字架は、西方教会の十字架に加えて、上に短い横の板、下に斜めの横棒が渡してあります。
上にある横の板には、INRI(Iesus Nazarenus, Rex Iudaeorum)ユダヤ人の王、ナザレのイエスと記されています。これは、ポンテオ・ピラトが掲げさせたものですが、イエスが旧約聖書で預言された「ユダヤ人の王」であることが表されています。ちなみに、世界史の教科書に書いてある通り、民族宗教であったユダヤ教が、世界宗教になったのがキリスト教ですから、キリスト教では、「ユダヤ人の王」を「世界の王」と解釈します。この上の横板は、西方教会の十字架にも見ることができます。
罪人を十字架に架けて殺すとき、体重で体がずり落ちないように、「足台」を設けます。下の横棒が足台です。八端十字かの横棒はイエスから見て右側が斜め上に向いてあります。イエスが十字架に架けられとき、二人の盗賊が一緒に十字架に架けられました。左の盗賊はイエスを罵り、右の盗賊はイエスを救い主と認めました。そこで、右側の罪は軽いということで右上がりになったそうです。足台というよりは、滑り台と言う感じもします。「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」(エペソ1:22新改訳).
Q 正教徒とカトリックの違いは?
A カトリック教会が付け加えた次の教義を正教会は認めません。
①フィリオクエ
②煉獄
③無原罪のお宿り
④聖母被昇天
従い、ローマが全世界の監督権を持ち無謬であることも受け入れません。
(ここで上げられた4点を、カトリック教会が付け加えたことは事実です。さらに興味深いことに、③④を熱心に信じている人はいますが、多くのカトリック信者は、これら4点に対して無関心です。私は40年以上カトリックですが、①②について神父さんが話しているのを聞いたことないです、③④については数回だけ、それも否定的な文脈でした。)
誰かが死ぬと、家族は「天国に行けますように」とお祈りをします。当然です。でも、天国に行けるかどうかを神様が決めた後にお祈りしても無駄です。そこで、死んだ人は煉獄と言う宙ぶらりんの処にいるからお祈りをする意味があるということで、煉獄が想定されたそうです。
③④の無原罪と被昇天は、教会が定めたというよりは、熱心な信者が「神父さん、そうですよね」と迫るので、神父さんも「うん、その通りだ」と言ってしまったという感じです。19世紀、20世紀は、マリアさまが度々出現したので、熱心な信者が生まれました。戦争でたくさんの人が死んだからでしょうか?1950年、ピウス12世により制定されました。
カトリックの神父さんは独身です。正教会では司祭は妻帯しますが、修道司祭は独身です。プロテスタントの牧師さんは結婚します。神さまが「神父は結婚するな」と言ったわけではありません。信者が「神父さんは独身で、神と信者のために働いて欲しい」と願い、教会が押し切られたようです。
私とニコライ堂に行った女性の一人は、正教会の神父さんが結婚していると聞いて怒ってました。
こうして見ると、煉獄、無原罪、被昇天、独身と、カトリック教会は信者に押されっぱなしの4連敗ですね。女性信者は強いです。
Q 正教徒プロテスタントの違いは?
A プロテスタントは「聖書のみ」を信仰の源としますが、正教会では、伝承や伝統を尊重します。(プロテスタントでは「聖書のみ」とは言っても、ルターやカルヴァンの著作を熱心に勉強しています。)
西側の教会は、ほぼほぼマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネといった正典のみに拠りますが、正教会はトマスの福音書のような外典にも目配りをしているようです。
パンフレットにあったキリスト教諸派の関係を示した絵を貼ります。正教会は幹で、カトリックは枝、プロテスタントは枝の枝になっています。そんな気もします。
Q 正教の十字架の切り方は?
西方教会では十字を切るときに、上から下、そして左 最後に右と切ります。
東方教会では十字を切るときに、上から下、そして右 最後に左と切ります。
先にお話しした右側の盗賊の罪が軽いことから、右が優先されるそうです。結婚指輪も右手にするそうです。
あと、正教会の神父さんはヒゲを生やすとか、ミサで使うパンにイーストを入れるか入れないかとか、いろんな違いがあるようです。
東方教会では、礼拝は人間の声だけで楽器は一切使いません。西方教会ではオルガンを使いますが、オルガンの音は「風が鳴っているのであって、楽器ではない」という訳の分からない理屈を立てています。今では、オルガン以外の楽器も使ってよいそうです。
下に貼ったのが内陣の写真です。 金色の壁にイコンが貼ってあります。これより前方が聖所(nave)、イコンの壁の奥が至聖所(sanctuary)です。naveとは船のことで、Navyと同源です。ノアの洪水のとき箱舟に乗った人が救われたことから、教会は救いの箱舟であるという意味だそうです。 そして至聖所はパンの聖変化が行われることで聖職者しか入れません。この構造はユダヤ教の教会の影響だそうです。
右側にニコライ総主教の遺体が安置されています。ヨーロッパの教会にも聖人の遺体が安置されているところがあります。日本でもお坊さんのミイラを即身仏として祀ってあるお寺がありますね。
イコンについての説明も聞きました。独自の絵柄は用いず、伝統的な図柄を模写するそうです。これって面白いですね。音楽とか演劇とかは、昔からある楽譜や台本に従い再現します。芸術とは、模倣が基本であり、過度にオリジナリティや個性を追求するのは現代の悪弊かもしれません。正教会やカトリックでは、お祈りの言葉も、昔から続いている祈りの言葉を使います。自分の言葉で祈ることは少ないです。
上の絵では向かって左側が優しい表情、右側が悲しい表情だそうです。キュビズムですね。そういえば、モナリザ反対で、向かって右は笑って、向かって左が泣いているそうです。私には良く分からないです。右も左も、笑っているような笑っていないような。。。
イコンで描かれている世界はこの世ではなく、天国だそうです。この世とは違った雰囲気を出すために遠近は用いません。西欧の絵画でも遠近が出てくるのはジョット(
1267年頃-1337年)からです。ヴァザーリは「それまでの洗練されていなかったビザンチン美術を徹底的に打ち壊し、現在見られるような現実味あふれる素晴らしい絵画をもたらした。」と言ってます。
次の絵は「マリアの就寝」 マリア様が死んだときの絵です。中央のイエスが抱いている白いものがマリア様の霊魂だそうです。
これにはチョットばかし違和感があります。人間の霊は神様から与えられたものですが、体と霊魂は一体です。「体の死によって、私たちは体を離れて、主のみもとにいる」(2コリ5:8)といっていますが、神さまが、私たちのことを覚えているのであって、体を離れた霊魂が単体として存在することはないと思っています。
次の絵は、スペイン人が大好きなムリーリョの「マリアの被昇天」です。カトリックでは、マリアは「天に挙げられた」=「自分で天に上ったのではなく、神によって持ち上げられた」=「被昇天」と言います。死んだ後に昇ったのか、死ぬ前に昇ったのかは意見の分かれるところです。
私は、マリアが16歳くらいの女の子みたいな顔をして天に昇る訳がないとおもっていますが、マリアの霊魂が幽体離脱するよりは、まだムリーリョの方が信じやすいです。
下の絵は、イエスが生まれたときの様子です。飼い葉おけで寝ているイエスを馬と牛が見ています。ところが、イエスの下側に寝ているマリア様は、イエスの方を向かずそっぽを向いています。そして下の方には、光輪のあるヨセフが物思いに耽っています。ヨセフは「俺はなんにもしてないのに、どうして子供が生まれたんだろう?」と悩んでいるそうです。ヨセフの前にいるのが悪魔でヨセフを唆しています。マリアは、そんなヨセフが心配でイエスよりヨセフの方を向いているのです。面白いですね。
お仕舞いに、神父様が私たちのために祈ってくれました。美しい祈りでした。
日本での信者数が1万にも足りないのに、教会を維持し、自前の神父さんを輩出している正教会は立派だと思いました。