以前にも書きましたが、アヴェ・マリアで始まる祈りがあります。
天使ガブリエルがマリアに受胎を知らせたときに、天使は先ずマリアを祝福しました。その言葉を中心にした祈りなので、天使による祝福の言葉、と言う意味で天使祝詞とも呼ばれています。
受胎告知に関しては多くの絵が描かれていますが、下の画像はボッチチェリの絵です。他の多くの作品では、マリアは静かに告知を受け入れていますが、ボッチチェリの作品では、マリアは驚きのあまり錯乱して気絶しそうです。天使ガブリエルも慌てて「マリア様、お気を確かに。」と言っているようです。
まだ処女の16歳の女の子が「妊娠しているよ」と言われたら錯乱して当然でしょう。 ただ、絵のタイトルは受胎告知ですが、正確にはこの時点ではマリアは受胎していません。天使は、「あなたは受胎するよう選ばれたけれど、どうする?」とマリアの同意を求めに来たのです。マリアには拒否権があります。そして、マリアは受託します。
マリアが受託に際して発した言葉は「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身になりますように。」でした。 これが英語のLet it beになりました。ラテン語では、Be動詞の命令形Fiatを使い、Fiat mihi と答えています。「その通り、私になれ!」という意味です。イタリアの自動車メーカーのFIAT は、トリノ自動車製造所からFABBRICA(工場)ITALIANA(イタリアの)AUTOMOBILI(自動車)TORINO(トリノ)の頭文字を取ったものですが、マリアの言葉も意識にあったのでしょう。
BeatlesにもLet it beという歌があります。歌詞に「マリア母さんが教えてくれた」という言葉があります。ポールマッカートニーのお母さんの名前はマリアだそうです。ここにも、聖書の言葉が意識されているのは確実です。
話を戻して、神さまは万能なんだから、マリアの同意など得ずとも勝手に受胎させれば良さそうなものですが、神さまって意外と一人では何にもできなくて、人間の協力を必要とします。
さて、アヴェ・マリア お祈りの言葉は次の通りです。
①アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
②あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
③神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
①はルカに出てくるガブリエルの言葉です。
②は同じくルカに出てくるエリザベスの言葉です。
13世紀までは、①と②のみが唱えられていました。③の祈りの初出は1495年で、③を加えた祈りが広まったのは1545年ごろ、そして1566年には教会の祈りとして正式に採用されています。
つまり、カトリック教会がアヴェ・マリアを唱えだしたのは、1517年に始まるルターの宗教改革と時期を一にしています。ルターはマリアを崇拝していましたが、プロテスタントは17世紀ごろからマリアへを特別視しなくなります。カトリックがあまりにも熱心にマリアを崇敬するので、反対にマリアを軽んじたのでしょう。子供が「お前の母ちゃん出べそ」と友達をからかうようなものですね。
ぞうさん、ぞうさん、
お鼻が長いのね。
そうよ、母さんも長いのよ。
作詞者のまど・みちをさんによると、鼻が長いことを馬鹿にされたぞうさんが、「母さんも長いから、いいんだもん」と言っていることを歌だそうです。「お前の母ちゃん出べそ」と言われたカトリックは、「出べその母ちゃんが大好きだ!!」とますますマリアが好きになりました。
閑話休題。②の「女のうちで祝福され」という言葉の意味が、私には分かりませんでした。 これはヘブライ語の表現で、「バナナは果物のなかで美味しい」「新幹線は、電車の中で早い」というと、最もおいしい、最も早い、となるそうです。「女のなかで最も祝福されている」という意味だそうです。
私は長い間、マリアには関心がありませんでした。というよりは「マリアまで手が回らない」という感じです。カトリックを障害物レースに例えると沢山のハードルがあります。神を信じなければいけないし、イエスを神の子と信じて、それから。。。。 と沢山あるのです。疲れ果ててしまって、マリアまで到達しませんでした。
最近、朝晩にストレッチ体操をしているのですが、整体師に勧められたストレッチは、同じ姿勢を40秒保つというものです。時計で測るのも面倒だし、数えるのはもっと面倒です。アヴェ・マリアを3回唱えると45秒なので、朝晩アヴェ・マリアを唱えるようになりました。
毎日唱えていると、なんとなく意味が見えてきました。三回唱えるので、三つの意味を込めて唱えるようにしています。
さっぱり分からない言葉があります。「マリアは女のうちで祝福され、イエスも祝福されています。」という言葉です。さっぱり分かりません。イエスは十字架上で殺され、マリアは息子の悲惨な死に接するのです。祝福どころか呪われた人生です。だいたい神に選ばれたり祝福されたりすると碌なことはありません。聖人は殉教しているし、預言者たちはトンデモナイ苦労を背負わされています。 私は「大きな祝福は無用です。小さな幸せの祝福にしてください。」とお祈りしています。主の祈りにも「私たちを試みにひき給わざれ」とあります。
エレミアも神に選ばれて預言者にされたとき、「私にはできません」と一度は断っています。エレミアにできないのだから、私にできる訳がありません。
「イエスは人類を救うために、進んで十字架に向かった」と言う人がいます。そんな筈はありません。イエスだって十字架に付くのは嫌でした。嫌だけれども、神が選んだ人生を生きたのです。神への信頼があったからです。マリアも普通の幸せが欲しかったはずですが、神への信頼が普通の幸せを選ばせなかったのです。
マリアがそれほどまでに神を信頼できたのは、マリアが信心深いからでも、マリアが偉いからでもありません。たまたま神さまに選ばれてしまい、信仰心を押し付けられたからです。ヨハネ15-16にある「あなた がたがわたし を選んだのではない 。わたし があなた がたを選んだ 。」とある通りです。迷惑な話です。不信心に生まれていれば処女で妊娠するなんていう災難には遇わなかったでしょう。
ということで、三回唱えるアヴェ・マリアの一回目は、
「マリアは神に選ばれ、祝福され信仰心を押し付けられました。神に選ばれなかっ
た私は、信仰心も祝福にも恵まれず罪深い人間です。そんな私のために祈ってく
ださい。」
という意味を込めて祈ります。私が罪深いのは私のせいではありません。神が私を選ばなかっただけです。まあ、私としては小さな幸せの方が好ましいわけですが。そして、私は多くの「小さな幸せ」に恵まれてきました。多謝多謝です。(広東語で「有難う」の意味です。ドーチェ・ドーチェ)
マリアもイエスも悲惨な人生を歩みましたが、二人とも幸福な人生であったと思います。神への絶対的な信頼があれば不安や絶望もありません。常に神の恵みとともに生きていました。二回目の祈りでは、
「神に選ばれたマリアは幸福でした。神に選ばれなかった私は罪深いので、マリア
のように幸せに生きていません。そんな私のために祈ってください。」
という意味を込めています。もっとも、私も少しは神に招かれて信者になっています。
「罪深い」というのは、何か悪いことをしたという意味もありますが、「幸せでない」ということです。神は「いつも喜んでいなさい 。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と言っています。(テサロニケ15-17) 不満ばかり言って神の恵みを喜んでいない私たちは罪深いのです。。
人を馬鹿にするときに「あんた幸せだねえ」と言い方をします。現代人は「幸せ」であることに後ろめたさを感じるようです。しかし、イエスの時代、古代人にとって「幸せ」とは無条件に人生最善の目的でした。
「倫理」と言う言葉を辞書で引くと、「道徳、モラル、規範」といった言葉が並んでいます。古代人であるアリストテレスにとって、倫理とは「幸福を実現するための実践」です。そして、「幸福」こそが最高善です。
私たちも幸せに後ろめたさを感じることなく、「いつも喜んでいる人生」を目指すべきです。エズラは「今日は聖なる日だ。悲しんではならない。良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。主を喜び祝うことこそが、あなたたちの力の源だ」と言っています。ネヘミヤ記8-10
アダムとイブも、エデンの園にあって無条件に幸せでした。神は人間を幸せであるように作ったのです。しかし、アダムとイブは神への信頼以上に、蛇の言葉を信頼したため、罪を犯し不幸せになりました。私たちもマリアのような幸福を目指すべきです。
ミサの最後に、「行きましょう。主の平和のうちに」という言葉で司祭はミサをおえます。
「 Ite missa est 」ラテン語(ite = 行きなさい、missa est = 派遣である)
「 Go, in the peace of God 」英語
2人称複数形の命令形です。「行け」という“派遣”の言葉です。
キリスト教の信者は、イエスの教えを宣べ伝えるために世間に派遣されるのです。ラテン語のmissaはミッションと同源です。ミッション・スクールや、Mission Impossibleのミッションです。
マリアもイエスも、神の福音を全世界に宣べ伝えるというミッションを今でも果たしています。(二人とも死んでいません。天国で生きています。)復活したイエスは弟子たちに「全世界に行って、福音を宣べ伝えよ。」(マルコ16-15)と言っています。このミッションを私は果たしているでしょうか? Mission Impossibleです。全然果たしていません。3回目の祈り、
「祝福されたマリアは、多くの人に教えを伝えていますが、罪深い私はミッション
を果たしていません。そんな私のために祈ってください。」
という思いを込めて祈ります。
さて、私の近親者が十数年の闘病生活の末に、終わりのときを迎えようとしています。先日、病院に行って面会してきました。もう意識もなく、言葉をかけても反応もないので、私はアヴェ・マリアを三回唱えました。いつもは考えたことのない「今も、死を迎える時も、お祈りください。」という言葉に、特別の意味が感じられました。私たち罪びとは、いろいろと至らないところもありますが、マリア様の執り成しを願って祈ることはできます。
こういうとき頼るべき神を知っていること、そして祈りの言葉を知っていることは大変に便利です。信仰を持たない多くの人は誰に祈ったら良いか分からないでしょうし、祈りの言葉も知らない人が殆どです。日頃からお付き合いのない神さまに祈ることに変な感じがしませんか?
キリストは十字架の上から、使徒ヨハネに向かって「これが貴方の母です」と言い、マリアに向かって「これが貴方の子です」と言いました。マリアはヨハネの母であり、教会の母、私たちの母です。私たちも使徒ヨハネと同じくマリアの子です。ポール・マッカートニーと同様に、私たちの母はマリアです。私たちのために執り成してくれます。
And when the night is cloudy
There is still a light that shines on me
Shine until tomorrow
Let it be
雲が立ち込める夜も
明かりはずっと照らしてくれる
夜明けが訪れるまで
Let it be! [お言葉どおり、この身になりますように。]