私の拙いblogを読んで下さった皆様、今までありがとうございました。 | fadoおじさんのblog~明日の君に~

fadoおじさんのblog~明日の君に~

子ども達の未来を共に考える、小さな個別指導の学習塾の先生fadoおじさんのblogです。

 2017年7月より、6年間、私と共に過ごしてくれた、子供たちとの「じゃれあい」をテーマに書き綴って来た「topzemi」のblogですが、私自身少し考えるところがありまして、今回で最後にしたいと思っております。また、書き綴りたいテーマがみつかれば、別の形で、blogを再開する積りでおります。1か月ほどは、このままの状態にしておきますので、今まで通り、皆様のblogを覗かせていただき、コメントなどもするつもりでおります。今まで、私の拙いblogをご覧いただき、ありがとうございました。

 

  衛星放送(DVDの閲覧)を使った指導、リモートでの指導、YouTubeを使った指導・・・。時代が変わり、子供たちを取り巻く環境も、急激に変化しております。これは、「子供たちを育てる」から、単に「知識の補充」へと変化したと同じであると私は思います。そして、大学も、単なる「企業の下請けの訓練機関」となってしまった感があります。しかし、化石の様な考えの私ですが、子供たちの役に立つことも多少はあると思います。今は、現役を貫くつもりでおります。最後に、私の教育姿勢を書かせていただきました。多少過激な部分もあります。ご容赦ください。あくまでも、私個人の考えです。他を非難するものではありません。

 

 私は、教育とは、学ぶプロセスにおいて、子供たちが『精神的な成長をしてゆくこと』。言い換えると、『日々、別人へと良い方向に変化してゆくことである』。と思っています。

 学びが深まれば、子供たちは「話す内容が変わる」「表情も豊かになる」「表現する声も」「服装も」「他人に対する敬意の払い方も」も変化してゆきます。そして、何よりも「勉強に取り組む姿勢」が変化します。
 この事を私は、「教育と言うのじゃないかな」と思うのです。

 最近、特に、教育の目的が「学び」から「知識の補充」になったと強く感じるようになりました。
 

 子供たちを「育てること」こそ「教育」であると捉えていた時代は、種子が土に蒔かれ、水や肥料が与えられ、陽光を浴びて育つ、そして、人の手によって、害虫は駆除され、襲いかかる、様々な災難を人智で乗り越え、秋には「実り」として、子供たちは、手造りで育てられ「社会」に迎えられるのです。


 私は、これこそが「教育」の本質と考えます。『精神的に豊かに成長する』事こそ教育の本質でしょう。そして、この事に私たちは、誰も違和感を抱かなかった。「育てる事こそ教育である」と信じて疑いを持たなかった。

 しかし、「分かりやすく伝達する」ことを「教育」と考え、システム(カリキュラム)に乗っかり、製品が、工程表に従っていると製品ができ上るように、それを、私たち大半の大人たちや子供たちは「教育」だと信じるようになってしまった。今年の夏休みの前、宿題を廃止するという学校が現れ話題になっていました。そもそも、夏休みの宿題に「この子たちをこのように育てよう」という「意図」は、ないように私は思います。真剣に子供たちのことを考えて「宿題」を与えている先生たちも大勢いることも事実です。そういう先生たちには申し訳なく思います。しかし、惰性や従来の慣行に従って宿題を出している先生がいることも事実です。だから、意味もなく「宿題を廃止する」なんてことが言えるのですね。元々「こう育てたいから宿題を出す」ではないので、廃止しても全く問題がないのでしょうね。

 スーパーマーケットに行き、入り口で「カゴ」をカートに乗せて「商品(教育が商品ならば履修単元)」を「カゴ」に入れ、レジで精算する。しかし、必要なもの(履修単元)は手に入れることが出来ても、入り口からレジまで通過してきた(学びを終えてきた)子供たちの「人格」や「知性」は1ミリも変化していないのです。

 教育とは、子供たちに、「高い人格」と「知性」を身に付けさせることではないでしょうか。
 

 『学ぶこととは・・・。S君のこと。』

 

 「色々な学習塾で『指導する』とか『教える』なんていう言い方をするけどね・・・。『指導するとか教える』ってどんなことを言うのかわかるかい。例えば、部活でね・・・。バスケットボールについて話そうか。コーチが来てね、『シュートって、このようにするんだよ。と見本を見せてくれたとしよう』。それで、君はシュートが出来るようになるかい?』絶対にならないだろう。だから、勉強についても同じでね、『この問題は、こんなことを聞いているから、こうやって解くんだよ』。で、学力がつくかい?指導するなんて言ってね。単に、『単元の羅列』をチラシに書いてある学習塾に行って、いったい何を学んでくるんだい。『知識』なんてものは、いくらため込んでも『知性』に支配されていなければ何にもならないんだよ。『知性』に支配されてこそ、初めて生きた学問になるんだよ。そしてね・・・。『知性』って分かるかい?『自分の欠落していることを言語化でき、その欠落しているものは、どこに行くと手に入れることが出来るかを知る能力』なんだぜ。」

 

 私は、私の教室を辞めるというS君に、こんな話をした。7年ほど前のことである。

 

 S君が小学生の時に通っていた大手学習塾を辞めて、私の教室に来たのは中学生になる時だった。しかし、私が指導できたのは、僅か5か月ほど・・・。私は、何度かS君を指導して、彼の高い学力に気がついた。そして、私程度の非才なものは『下手にいじらない方がいい』と考えた。必要な教材を準備して、使用方法を入念に説明して、自ら学習する道を選んだ。そして、何時ものように、自分の考えを伝えた。

 

 いいかい・・・。『私は、こんなことを考えて、君たちを指導しているんだ。子供たちは「種子」なんだよ。種子は土に蒔かれ、水や肥料を与えられ、太陽の光をいっぱいに浴びて育つものなんだ。その間、台風が来ることもあるし、病気や様々な被害に遭って、枯れてしまうこともあるだろう。そんな時、陰になり日向になり君たちを守るのが私の役割だと思っている。そうすると、秋には「立派な実をつけ」人々に感謝の声で迎えられ社会へと旅立ってゆくんだ。種子が立派な実になると言う事は、毎日毎日、君は確実に「知的」に変わってゆくことだと思う』・・・。と、私は、私の生徒たちに全員に、こう話している。

 

 4か月ほど前、進学校に通っている高校1年生の生徒のお母さんから電話が来た。お母さんは、子供さんを私の教室に通わせたいと話し、名前をSと告げた。『Sさんて・・・。7年ほど前、お兄さん、通っていませんでした?』と聞くと、お母さんは、びっくりして『通っていました。覚えていてくれたのですね』。と応えてくださいました。

 

 入会した弟のH君は、あっという間に、数学の復習と予習をやり終えた。そして、H君は、夜の8時ぐらいに教室にやって来て、10時ぐらいまで、毎日勉強している。私から、「あれをやれこれをやれ」と指示することは殆どない。

 

 H君が入会して、ひと月ほど経過した時、お兄さんのS君が、ふらっと教室にやって来た。『おお・・・S君元気だったか』?『先生の言ったことが分かったのは、僕が高校に入った時でした』。と、ニコッと笑ってくれた。

 

 

 『遠き山に日は落ちて(家路)』作曲:ドヴォルザーク 作詞:堀内 敬三

 

  演奏:Albert Ayler(アルバート・アイラー)

 You tube 

 

 

 遠き山に 日は落ちて

 星は空を ちりばめぬ

 きょうのわざを なし終えて

 心軽く 安らえば

 風は涼し この夕べ

 いざや 楽しき まどいせん

 まどいせん

 

 やみに燃えし かがり火は

 炎今は 鎮(しず)まりて

 眠れ安く いこえよと

 さそうごとく 消えゆけば

 安き御手(みて)に 守られて

 いざや 楽しき 夢を見ん

 夢を見ん

 

 トップゼミナールのホームページはこちらから