ラ・ボエーム 作詞:ジャック・ブラントン 作曲:シャルル・アズナブール
訳詩:長谷川きよし
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モンマルトルの二人の部屋
何もないけど
愛とリラで満たされていた
僕はいつも絵を描いていた
愛しい人君をモデルに
カフェを飲んで夢を食べて愛し合って
ラ・ボエーム ラ・ボエーム
その意味は青春
ラ・ボエーム ラ・ボエーム
お金はなくても
仲間たちと待ち続けた栄光の時
食うこともままならない天才たち
いつもの店出してくれた出世払いの
ディナー囲み遣り過ごした冬の寒さ
ラ・ボエーム ラ・ボエーム
その意味は流離い
ラ・ボエーム ラ・ボエーム
いつも飢えていた
君の胸や腰の線を描いては消して
眠れぬまま朝を迎え
疲れ果ててやっと飲んだ
カフェの味が心に染みた
愛し合えば人生さえ輝いていた
ラ・ボエーム ラ・ボエーム
奇麗だった君よ
ラ・ボエーム ラ・ボエーム
我らは天才
時が過ぎて訪ねたけど面影はなく
一途だった若き日々の
君と僕を見守っていた
坂の上の壁も通りも
リラも枯れ果て変わり果てた夢の跡よ
ラ・ボエーム ラ・ボエーム
若くて夢中で
ラ・ボエーム ラ・ボエーム
何の意味もない
※「ボエーム」はフランス語から来ており、「ボヘミア」という地名をさします。
元々は今日のチェコ共和国にあたる地域で、特にロマン主義の時代に、自由で貧しい芸術家たちの生活様式を象徴する用語として使われるようになりました。
自由で非伝統的なライフスタイルや、貧しさと芸術的表現があった文化的現象を指します。この言葉は、特に19世紀のパリにおけるアーティストや作家のコミュニティを象徴します。「ラ(La)はフランス語の定冠詞で、「この」「その」という意味を持ちます。
(Goong com 新世代辞典より借用)
「絵を描いていても生活して行けないので、仕事をしながら絵を描いています」。と、その青年は、苦笑いしながら、かなり大きなキャンパスに描かれた完成間近の「樺戸連山」に絵筆を走らせた。
絵画など全く門外漢の私が、新進気鋭の画家、苛原治(いらはらおさむ)さんが、札幌の北区にある「ギャラリーエッセ」で開催されている「個展~石狩炭田の風景~」を知ったのは、6月22日の北海道新聞である。「石狩炭田」という言葉に反応したのである。
また、私の拙いblogに綴ろうと思ったのは、苛原さんの絵(芸術)に、余りにも大きな感銘と心の底から言い知れぬ「郷愁」を感じたからだ。
小さなギャラリーの入り口を入ったところの右側の壁に、苛原さんのプロフィールと、今回の個展の主旨が書かれていた。
『私は自身の作品コンセプトである「写実」という概念の中で、「北海道における石炭産業の記憶を写しとる」という試みを1シリーズとして制作しています。石炭は石油が普及する以前の重要なエネルギー源であり、これを生産するのが炭鉱と呼ばれる鉱山施設でした。石炭は地中に埋没しておりこれを採掘するには危険を伴う作業を必要とし、多くの事故を出しています。北海道は良質な石炭が豊富に採れ、各地に石炭産業により発展した街が存在しました。しかし、昭和30年代におけるエネルギー革命と国の政策、輸入炭との価格競争により各地の炭鉱は閉山に追い込まれ、炭鉱によって繁栄した街は衰退して行きました。私の祖父は北海道の空知地方にあった三菱鉱業株式会社美唄礦工業所滝之沢坑、鉱務課職員でこの炭鉱も最終的に昭和47年に閉山しており、札幌に移住し新たな仕事をしていました。
今回の個展では、空知地方展開する石狩炭田と呼ばれる日本一広大な敷地面積に埋蔵する石炭を採炭するために生まれた炭鉱群の跡とその風景を描く試みをし、またこの石狩炭田に点在した炭鉱群は三菱、三井、住友の大手財閥による炭鉱開発が進み、全国屈指の採炭量を誇った地域でした。この石狩炭田に点在した炭鉱の活躍は戦後日本の急速な復興と経済成長に大きく加担したと言っても過言ではありません。しかし時代と共に衰退し、当時の繁栄した面影や遺構や文化財で見ることが出来る程度です。そんな中、近年新たに保存されている炭鉱跡と隣接する施設が産業遺産として保護される試みが始まり北海道の炭鉱群が新たに注目されてきています。これに便乗する形に近いかもしれませんが、私は「北海道における炭鉱遺産の記憶」を「絵画」という媒体を使い多くの方に知って貰うためにもシリーズ化し描いています。
この個展では空知地方に無数に展開する炭鉱群の中から、美唄、夕張、幌内、奔別、茶志内、芦別の各炭鉱跡と敷設する鉄道跡、そしてその地域の風景を絵画の空間に収めました。
「過去の記憶」と「現在の風景」そして当時、働き生活していた炭鉱マンとその家族が見ていただろう美しい空知の風景を、絵画を通して見て、何か感じて頂けたら嬉しいです。』
文章を一行一行じっくり読み進めるうちに、突然、心を突き抜ける「郷愁」が込み上げてきた。そして、懐かしい当時の風景が次々と浮かんできた。
財政が破綻した夕張市の山の中腹に、我が家の墓があった。私も歳をとり、長男は転勤族など様々な事情で墓を守ることが出来なくなり、数年前、弟と相談して、悩んだ末に「墓仕舞い」をすることにした。そして、先祖の御骨は、札幌では公共墓地の公募はない。(5年に一度公募するそうだ)。だから、親父には「ごめんね」、と言って、平岸霊園にある「合同納骨塚」に入ってもらった。
当日、弟と二人で、「墓仕舞い」に立ち会うため、夕張にいった。打ち合わせ時間より2時間ほど早く行ったのは、夕張の原風景を目に焼き付けておくためだった。
最初、目についたのは、市役所の横に、みすぼらしく建っている『夕張会館』(映画館、多目的ホール)。
それから、私が住んでいた住居の跡地へと向かった。
山の斜面にびっしりと長屋が立ち並び「子供の頃、夜、窓から向かい側の山を見ると星のようにキラキラと家の光が輝いて百万ドルの夜景とも呼ばれていた住宅が、一つも残っておらず、普通の山になっていた。卒業した小学校も中学校も高校も全て廃校になって、建物すら残っていなない。
かつて存在していた中学校へと続く道を車で走らせたが、草がぼうぼうと茂っている、ズリ山との境の少しの平地に建っていた母校は、跡形もなく、『東山中学校跡地』という石碑が立っていて、感傷を誘う。
吉永小百合さんが主演した映画「北の零年」のロケ地、大夕張の鹿島地区から、その時使われた、建物をすべて移設して造られた、高松7区にある『北の零年希望の杜』(夕張は映画祭が行われている関係から)も、建物は朽ち果て、吉永小百合さんと、渡辺謙さんの写真とサインが入り口の看板に掲げられていた。
そして、『北の零年』のロケ地であった、鹿島地区の大半は、ダム建設と共に「シューパロ湖(ダム)」の湖底に沈んでしまった。
私の小学生の時には、11万人もいた人口が、今は、数千人になっている。
幾年ふるさと 来てみれば
咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺の小川の ささやきも
なれにし昔に 変らねど
あれたる我が家に 住む人絶えて無く
ギャラリーの壁に掛けられていた苛原修さんの作品群を見て、セピア色に染まった「遠き日の故郷の記憶」がまざまざと蘇ってきた。今にも動き出しそうな、『蒸気機関車』、ヘルメットをかぶって坑内に向かい「立坑のケージ」に乗り込む男たちの姿、彼が描く絵は、私の心をあっという間に懐かしい故郷へと誘ってくれた。
そして産業遺産などではなく、当時の生き生きとして生活していた人々の生活の風景が「まぎれもなく」苛原さんの描く絵から飛び出して来たのだ。
その日の夜は、久々に高ぶる心を抑えることが出来なかった。と共に多くの方に、苛原治さんの絵(芸術作品)を見てほしいと心から思った。
苛原修(いらはらおさむ)
略歴
1992年 札幌生まれ
2011年 札幌竜谷学園高等学校卒業
2015年 札幌大谷大学芸術学部美術学科卒業
2017年 東京藝術大学院文化財保存学専攻 保存修復油絵領域卒業
受賞
2012年 全道展入選
2013年 全道展 全道美術協会賞
金賞
2018年 白日会入選
2022年 白日会白日賞、美岳画廊賞、副賞ホルベイン賞、学友推挙
展示歴 多数
現在 白日会会友、文化財保存修復学会会員