うち(わが塾)の『翔平君』の物語・・・。 | fadoおじさんのblog~明日の君に~

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子ども達の未来を共に考える、小さな個別指導の学習塾の先生fadoおじさんのblogです。

 今回は、話題の二刀流メジャーリーガー「Los Angeles Angelsの大谷翔平さん」と同じ名前の翔平君のことを書きます。(あえて大谷さんと同じ名前なので・・・?翔平君はいい奴だから、名前を出すことを、きっと許してくれると思います)

 正義感は、時と場合によって、高倉健さんのように「不器用なものですから・・・」と映るようですね。翔平君もそんな「正義感が強く不器用」な生徒でした。

 

 「我がままを言うな!お父さんや先生がどれだけ苦労したと思っているのだ!」・・・と私は、目の前にある机を右手で思い切り叩きました。その時、翔平君の目からは大粒の涙が流れてきました。「病気でまだ体調の悪い先生が、俺みたいな生徒のために・・・心配してくれて・・・」翔平君は、その後、言葉が続きませんでした。

 

 前日、私は、私立で翔平君を受け入れてくれる高校を探すために、電話帳を開きながら、複数の私立高校に電話をしていました。「うちは二次募集をしていません」という判で押したような事務的な返事が何件も続いたあと、漸く、ある私立高校から「取り合えず、会ってみましょう」という返事を貰いました。そして、私は、翔平君のお父さんに連絡してその旨を伝えました。「先生の方からそのことを息子に話してもらえませんか」とお父さんに言われ「それじゃ、私の方から」という事になりました。次の日、翔平君に伝えたところ難色を示したのでした。私は「取り合えずI先生に会ってみよう」と、彼を納得させました。

 

 私は、吹雪の中、その高校に続く坂道を校門まで歩いていました。やっと校門にたどり着き、頭の雪を払いながら、待ち合わせしていた翔平君とお父さんと3人で、I先生に会うためその高校に入って行ったのです。

 

 私と翔平君の出会いは、彼が中学2年生の夏期講習会に来たときでした。短めの髪に眼光鋭く決して相手から目をそらさない生徒でした。空手の有段者で正義感に満ち溢れていました。夏期講習会に参加したことで、2学期からは私の教室に通うようになりました。

  彼は「チャラチャラした奴は嫌いだ!」という事を日頃から言っていました。ある日、教室の外に出てみると険しい目をした彼がいました。「翔平君どうしたの?」と言うと、ハッと我に返ったようで「今、チャラチャラした奴がいた!」と私に話しました。「そんなに怖い顔をするなよ」と教室に迎え入れたことがあります。(笑い)

 成績の方は、努力はするものの高校受験まで全く振るわず、遂に受験期を迎えました。そんな中、名門私立高校のレスリング部から声がかかったのです。彼はレスリング部に入るという条件で、その高校に入学して行きました。

 

 その年の夏休みが終わったころ、翔平君から私に電話が来ました。「先生、相談があるので、教室に行っていいですか?」とのこと。彼は、私の前で言いにくそうに、高校に入学して1ヶ月ほど経過した時から、「お前のような学力のやつが何故うちの高校にいるのだ」と同級生数人から悪質な嫌がらせを受けたとのこと。空手の有段者でレスリング部の彼です、やっつけようと思えば、5人程度なら、やっつけるのに10秒ぐらいしかかからないと思います。しかし、翔平君は、自分の立場を考えてひたすら耐えたそうです。

 それでも、毎日繰り返される悪質な嫌がらせに堪りかねて、お父さんを通じ、そのことを担任の先生に伝えました。そして相手の保護者に連絡してもらうようにお願いしたそうです。しかし、担任の先生は何も行動を起こしてくれませんでした。

 その後、彼は、数人の生徒から呼び出され、暴力を振るわれそうになったそうです。その時、身の危険を感じ、とっさに出た彼の拳は、ひとりの生徒の顔面に命中し、前歯が「ボキリ」・・・。事情を知ってか、知らぬふりをしているのか分かりませんが、学校は彼に停学処分を与えたのです。

 「○○先生、俺、高校を辞める・・・」と行ったきり、私が何を言っても聞かず、遂にその高校を退学してしまいました。私は、その時の翔平君の悔しそうな顔を、今でも時々思い出します。

 

 さあ、それからが大変、彼を受け入れてくれる高校探しを始めたのです。札幌の私立高校は編入を認めていません。私は、地方の高校に片っ端から電話をかけ、彼を受け入れてくれる高校を探しました。やっとのことで、札幌から1時間ほどにある地方都市の高校が受け入れてくれることになりました。あくる日、私たちは3人でその高校に行って校長先生に会い入学を決めてきました。

 これで一段落・・・の、はず・・・が、しかし、彼はその高校を1週間程度で辞めて来てしまいました。理由はとても単純なもの「学校が荒れていて、彼の嫌いなチャラチャラした奴がたくさんいる」という事でした。そんなこんなで、次の年の3月、前述の二次募集で受け入れてくれる高校を見つけ、ようやく翔平君をその高校に「もう絶対に退学は許さないからな!」ときつく言って、送り込むことができたのです。

 

 それから3年間、翔平君は私の塾の高校コースに通ってきました。その高校では、格闘技から180度方向を転換。ジャマイカの音楽、レゲエ(Reggae)にハマり、猛然と英語の勉強を始めました。たまたま、その高校は大学を持っていたので、推薦でその大学に入り英語の勉強をしました。彼は大学に行ってからも頻繁に私の塾に顔を出し、英語の勉強をしていました。

 今頃、翔平君はジャマイカに行って、昼は、シュニパーピーク農園で働き、Specialty coffeeSCAJ評価基準)のBlue Mountain(アッ・・・こんなところにもBlueさんが・・・笑)の珈琲作りに精を出し、夜は、レゲエ三昧・・・んな筈ないか?そういえば私の携帯電話に翔平君の電話番号が残っていたはず・・・。

 

 これにて、うちの『翔平君物語』は終わります。・・・めでたし・めでたし。(パチパチ)

 

 Blueさんのために。『ラストダンスは私に(Save The Last Dance For Me)』

 

 作詞 ドク・ポーマス(Doc Pomus) 作曲 モルト・シューマン(Mort Shuman)

 歌 ザ・ドリフターズ(The Drifters) 訳詞 岩谷 時子

 You Tube https://www.youtube.com/watch?v=fipeIAFU4dc

 

 あなたの好きな人と踊ってらしていいわ

 やさしい微笑みも

 その方に おあげなさい

 けれども 私がここに居ることだけ

 どうぞ 忘れないで

 

 ダンスはお酒みたいに心を酔わせるわ

 だけど お願いね

 ハートだけは とられないで

 そして私の為  残して置いてね 

 最後の踊りだけは

 

 貴方に夢中なの いつか二人で

 誰もいない処へ 旅に出るのよ

 

 どうぞ踊ってらっしゃい

 私ここで待ってるわ

 だけど送って欲しいと頼まれたら

 断ってね

 

 いつでも 私がここに居ることだけ

 どうぞ 忘れないで

 

 きっと私の為 残して置いてね

 最後の踊りだけは

 胸に抱かれて踊る

 ラストダンス 忘れないで

 

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