山あり谷あり、波乱の人生ドンブラコ!
ようやくたどり着いたあこがれの年金生活‥
夢見た悠々自適の年金生活は、
なぜか幽遊自虐の年金生活にさま変わり‥
だがしか~し転んでもただでは起きないのが団塊育ちのいじましさ!
つかんだ節金テクニックを
余すとこなくご披露いたしましょ~ぅ
ひとむかし前、カーラジオから流れてきた『千の風になって』を聴いて、(あ~ぁ いい曲だな‥‥)と思ったことを、なぜかとつぜん思い出しました。
「亡くなった人」のことばには、生きてる人間は太刀打ちできない!
その後なんどか耳にするうち、歌詞にひじょうな違和感をおぼえるようになってきました。
「私はお墓なんかで眠ってないから、そんなとこで泣いたりしないで‥‥」
(※著作権に触れるとたいへんなので、表現は変えてあります (^^♪)
「死」に対する考え方は人それぞれ、この歌詞のような考え方をする人がいても当然だし、だからこそ多くの共感を集めて大ヒットしたんだと思います。
わたしが違和感を覚えたのはそこではなく、この歌詞が「亡くなった人」の立場で「亡くなった人」のことばとして書かれているところです。
風のイメージ
「亡くなった人」が「私はそこにはいない」って言ってるのに、生きてるわたしたちが反論できるわけないじゃないですか。
サンタクロースが「サンタなんかいるわけない! サンタのワシが言ってるんだから間違いない!」と言ってるような、そうでもないような(ドッチなんだ?)
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する
うちの母は、生前おぼんには欠かさず墓参りに行ってました。
きっと、そこで手を合わせることで先に逝った父や、わたしの弟(死産でした)なんかと話をしてたんだと思います。
そんなとこへ父や弟がしゃしゃり出てきて「おれたち、そんなとこにいないから‥‥」なんて言ってきたら、ワタシふたりをぶっ飛ばします!
日本国憲法 第20条 【信教の自由】
第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
「亡くなった人」の立場で「死後の世界」を決めてしまって、それを生きてる人に強いるのは、憲法で定められた「信教の自由」にも抵触するんじゃないかと、思ったりもします。
「千の風になって」の歌詞が「亡くなった人」のことばではなく「あとに残された人」のことばとして書かれていたら、たぶん好きな歌のひとつになっていたと思います。
「わたしの大切なあの人はいなくなってしまったけれど、空を舞う風になっていつでもわたしの近くにいてくれる‥‥」
というようなシチュエーションで (^-^;
ところでこの歌うたった A.M さん、霊園の広告にでてましたね。(ドヒャッ!)
ワタシが見たのは新聞の全面広告でした。
仕事だから仕方ないといえばそれまでですし、それこそ「信教の自由」ですからね、他人がとやかくいうことじゃないとは思いますが‥‥う~ン、なんかすっきりしない、あの人( A.M さん)にとってあの歌は何だったんだ‥‥?


