先日、朝から生対話というものに出てきました。
朝っぱらからテーマを決めて対話するというもの。
教育関連の方が多いからという事でご紹介を受けていたのですが、、、
私は最近、これにはまってしまいました~。
そこで言われていることは「議論」と「対話」は違う、と。
議論は1つの解を導くもので、対話は、それぞれが答えを持ち帰るものである、と。
前回のテーマは「成長」について。
それが発展して今回のテーマは「社会の成長」について。
これは、成長の話をつきつめていったら、個人をとりまく社会というものを考えざるをえなくなったからなのです。
自分にとっての成長、という事だけ考えてよいのか?
それは自己中心的な成長であって、たとえば経済的利益追究だけ考えてある点では成長したはよいけど、まわりに不幸な人が現れるなら、それは本当の成長じゃない、という議論だったような。前回なんで。(*^o^*)
社会の成長。
これはあまりにも多くのトピックが出て、ここではとても書ききれないのですが、
エジプトに行った人の体験で「先進国に依存する体質がどうしてもあるんじゃないか?」
とか、それは日本でも存在するとか。
自立した個人が、的確な情報と考える力を養ってゆく教育のモデルが必要なないか?とか。
でも、社会の成長を語ってゆくと、やはり個人に話が戻るような気がして、、
そもそも個人は社会から生み出されたもの。家族という社会の最小単位の中に子供は生まれてくるのだから。
それと同時に個人が社会を構成している。
つまり個人と社会の関係は同時並行の関係にある。
でも今日、書きたいのはそこではなくて、
個人にも社会も、時間軸と空間軸で考えるとわかりやすいということなんです。
時間軸を考えるということは、その社会の歴史を考えるということ。
空間軸を考えるということは、他の社会との関係を考えるということ。
その時に、成長している社会というものは、矢印が外側に向かっているんじゃないか?と思うんです。
それは自分の国だけを治める事でいっぱいいっぱいになってしまっているのではなく、
たとえば犯罪、強盗、暴動、権力争い、そういう内部でいっぱいいっぱいになるのではなく、
他国に対して貢献してゆこうと動いている国とか。
「思いやり」という言葉は、「思い」を「やる」と書きますが、自分への思いから、他者への思いをかけることに本質があると思うんです。
だから成長している社会とは、構成員達がより自然体で、満たされていて、それゆえに、まわりの社会へ思いやりが持てる社会だということです。
そう言ったら質問されました。
「世界史の中で、宗教国家が他国に出て行った時、宗教国家の構成員は相手に良かれと思っていても、他国にしてみれば、教えをおしつけられていると思って変人たちだと思われることもある。それはどう解決するのですか?」
その時、うまく答えられたかどうかはわかりませんが、
普段、同じ日本人だとしても、同じ会社の中でも、考え方は人それぞれだから、当然ぶつかる事はあります。
成熟した人は、そんな時に「自分が絶対に正しい」というスタンスを手放すことができて、相手に対して思いやりを持てる人だと思うんですよね。
同じように、社会全体が、別の社会に思いやりをもし持てるような社会だったら、それは成長している社会だと。
でもいきなりそうなれるわけではなく、衝突や葛藤を繰り返しながら、少しづつ個人だって、社会だって成長してゆくものだと思います。
だから今自分が正しいと思っている考え方も「暫定解」と割り切る必要がありますよね?
という話の流れで、
確かにそうだけど、「暫定解」だなんて思っていたら真剣になっていないのだから、
「その瞬間の絶対解を生きればよいじゃないか?」みたいな事を口走ってしまいました。
けっこう話の流れが、意外にわかりやすいような気がして、ブログで書きながら頭を整理してます。
そう。時間は連続的なものではなく、断絶した時間の流れが存在している。
だから京都哲学の創始者、西田幾多郎は、「この瞬間」を哲学にしたんです。
(私の西田哲学についての卒論を読みたい方は、ブログのどこかにある無料レポートを読んで頂けると嬉しいです。)
この瞬間の絶対解。
そして、人が「考える」という行為は「問いかけに対して答えを出そうとするプロセス」だから、
問いかけそのものの質が問題になってくる。
社会全体の方向性を決める問いかけとは、
『その瞬間、社会の構成員達の中で、もっとも抽象度の高い問いかけ』 に答えてゆく
という方向性が考えられるのだけれど、それをどうしたら見つけられるのか?
それは、まだ「問いかけ」のプロセスにあります。
「問い」と「答え」で動いている人間。そして社会。
人間って面白いな~。