(哲学的)アプリオリという概念は間違っておぼえられ易いものらしい。『必然的にそうでなくてはならない』というところから、無反省に思い込むことがアプリオリの意味であると勘違いされているケースもあるようです。

 

アプリオリの概念が難しいのは、それが余りにも当たり前のことだからだと思います。典型的なアプリオリな命題としては矛盾率(無矛盾率)があります。

 

矛盾率とは、A=BとA≠Bは同時には成り立たない、つまり「背反するものが同時に成立することはない」ということです。このことは誰もが正しいと認めていますが、決して証明されたわけではありません。証明も否定もできないのです。そもそもわれわれが「証明」と称しているもの自体が矛盾率を前提としているので、矛盾率の真偽を証明しようと思っても、その証明に矛盾率を使わなくてはならなくなるのです。

 

矛盾率のように、一般に論理学でいうところの論理はみなアプリオリです。それを無条件に認めなければ思考そのものが不可能になります。「演繹」とは前提から論理をつないで思考することですが、正しい前提から演繹されたものはすべてアプリオリに正しいとみなされます。

 

演繹の例としては三段論法があります。

 

大前提: 全ての人間は死すべきものである。 
小前提: ソクラテスは人間である。 
結論 : ゆえにソクラテスは死すべきものである。

 

この時、前提が正しければ結論は必然的に正しくなります。三段論法の正しさはアプリオリに保証されているのです。ただしここで注意しなくてはいけないのは、三段論法はアプリオリに正しくても、結論は必ずしもアプリオリに正しいとは言えません。上の例でいうと、大前提は法則で、小前提は法則の適用条件となっています。一般に法則は事実から帰納されたもので、アプリオリな正しさは持っていないのです。だから結論もアプリオリに正しいとは言えないのです。

 

あと、アプリオリなものとしては「意味上の」正しさというのがあります。
「(同性婚でなければ、)A君がBさんの夫ならば、BさんはA君の妻である。」
「2は1より大きい」
「無人の部屋のなかに哲はいない。」
以上の命題は定義に照らして正しい命題です。これは疑えません。

 

≪無矛盾律を否定する者は、打たれることが打たれないことと同じでないと認めるまで打たれ、焼かれることが焼かれないことと同じではないと認めるまで焼かれるべきだ≫(イブン・スィーナー、Wikipediaより引用)

人は水の近くに住む。(和歌山県御坊市)