時々「自殺容認論」というものを目にする。大概発言しているのは、現時点では死と自分は無縁だと思っているような若者であることが多い。(ような気がする。)次にあげるのは私がウォッチしている人のブログである。非常にシャープに頭脳を持った人で、私は勉強のためにときどき覗いているのだが‥。


≪個人的には自殺も安楽死も容認派なので、世間的にもそういう風潮になればいいな、と密かに願っている。逆によくわからないのは、なぜ自殺防止のキャンペーンが行われているかだ。純粋に倫理的な理由なのだとすればすごい。あるいは僕にはよくわからない邪悪な功利的理由があるのかもしれない。自殺はゲームの投了、あるいは引退のようなものだと僕は考えているので、必然にせよたまたまにせよ、続ける意味が自分にとってはなくなったゲームを周囲の風潮によって続けざるをえないのだとすれば不自由な話だと思う。≫


死にたい人には死なせてあげよう、ということなのだろうと思う。他人の生死に介入する自殺防止キャンペーンは、お節介どころか邪悪なものである可能性もありうるとまで言っている。


まず感じるのは、自殺しようとする人の事情に関する無関心である。関心のないことには口をさしはさまないことが礼儀だろうと、私は思うのだが‥。
それと、彼は論理的な人である。「死にたい人には死なせてあげる」ということが彼の中では論理的に正しいと考えている節がある。論理がニヒルな結論をもたらす場合はいつでも疑う必要があると私は考える。その理由は、私たちが決して自らニヒルを望んでいないと信じるからだ。望んでいないものが結論として導き出されるのはどこかにねつ造が潜んでいるはずである。


「死にたい人には死なせてあげる」ということが論理的な正当性を持つには、「その人が本当に死を望んでいる」ことが前提であろう。そしてこの前提が正しいものであるためには、その人が「死」というものを正しく理解していなければならないということに当然行きつく。しかし、人は自分が何を望んでいるか往々にして分からないのである。はっきりしているのは、現状が満足すべきものでないということだけだ。自殺願望はとにかく現状を変えたいという、よりよい生への欲望が動機となっているのである。水中で息を止めていると苦しくなる、苦しくなるとどうしても息をしたくなる。自殺は水中で息をしてしまうことに似ていると私は思う。


孔子は言う、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」と。この言葉を気のきいた箴言程度に受け止めてはならない。赤ん坊が生まれたのを見て「生」が分かったと思ってはいけない。おじいちゃんが死んだのを見て「死」が分かったと思ってはいけない。誰も自分が生まれた瞬間を覚えていないし、また死んだ経験もないのである。誰も自分の生死に関しては正しい認識を持つことはできない。大哲学者孔子の透徹した目がそう結論づけたのである。


自分の生死に正しい認識を持ちえない以上、その概念をもてあそぶことはお門違いである、ゲームとして成り立たないのだ。我々ははじめから生死の選択肢など持ちえない。


とまあ、理屈を並べてみてみたものの早い話が、自殺する人のほとんどがうつ病の疑いがあり正常な判断力をなくしているのである。病気なのである。病気ならまず治療が必要なはずで、「死なせてあげたら」という話にはならない。こんな単純な話が、どうしてこれほど頭の良い人に通じないのだろう。不思議だ。


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