深く愛し合っていた老夫婦がいた。ある夏に夫が亡くなり、その通夜のことである。田舎の縁側に面した大広間で、親戚縁者が故人をしのんでいたその時に、一匹のホタルがゆらゆらと舞い込んできたのだ。妻は「夫が最後の別れを言いに来たのだわ。」と言う。そばにいた一同も「ほんまや。不思議なことやのう。」と相槌を打つ。


こんな時、小林秀雄なら、「御婦人の言っていることは本当のことなのだ。そう信じたいそうであってほしいとかいう問題ではなくて、真実でないことがあり得ないのだ。」というくらいのことを言うだろう。


小林秀雄には真実とかリアリティというものに対し、ある透徹したものの見方があったようだ、私もそれは一つの見識であり否定できるものではないと考える。「ありそうもない話」を受け入れるしかない状況というものは確かにあると思う。もともと我々は不思議な世界に生きているのだから。


しかし、ことさら「ありそうもない話」を進んで信じたがる傾向も人にはある。小林秀雄は講演の中で、大野道賢(道犬)の処刑の際のエピソードを信じている、と話している。火あぶりにされ黒こげになった道賢が検視の役人を刺し、その直後に灰になってしまった、という話である。はっきり言って講談のネタである。道賢は大坂方の武将である、にくい家康を刺すためならまだ理解できるが、検視の役人を刺すためにそれほど執念を燃やしてどうするのだろう。物語がリアリティを持つには相応の動機が必要ではないのか。


小林秀雄が我が国第一級の知識人であることは疑いない、しかし若くして権威になったため、その言論は抑制のきいた文章とはうらはらに多少言いすぎでは、と首を傾げる面がまま見受けられる。当時はびこっていた唯物史観に対する反発から、逆方向に先鋭化していた面もあるだろう。一般読者からは、その力強い断定調のカリスマ性のおかげで、まともに考えれば変な話も「小林秀雄のことだから深い意味がある」式の受け取り方で、あまり批判にさらされてこなかった。むしろ彼のファンは「変な」話を積極的に受け入れた。信じたかどうかは知らないが、「信じたつもり」にはなった。とにかく「受け入れる」ことが、彼を理解したことに通じていると勘違いしているのだろう。


盲従は決して理解とは言えず、日本文化を軽佻浮薄に導くだけだ。ここですこし矛先を変えて、偽の「男のロマン」主義というものについて述べてみようと思う。

もう30年以上にもなるが、現在某自治体の都知事をなさっている方が「ネス湖怪獣国際探検隊」なるものを組織してスコットランドへ遠征あそばされたことがある。インタビュアーにことの現実性を訊ねられて「つまんねぇこと言うやつだなー、男のロマンだよ」みたいなことを言っていた記憶がある。


私はこの時、「信じたやつが勝ち、現実的なことを言うやつはつまらない奴」みたいな風潮を感じてすごく嫌な気がしたものである。それに私から見て彼らがネッシーの存在を信じているようにはどうしても見えなかったのである。某都知事は自分をまるでヘディンかヘイエルダールであるかのように見立てているようであった。しかし、ヘディンやヘイエルダールと某都知事とは大きく違う点がある。前者は己の財産と命をかけて自分の信念に懸けていた、しかし「ネッシー」の方は所詮物見遊山でしかなく、一度きりの遠征であっさりと終わった。ヘディンもヘイエルダールも夢を実現するまで決してあきらめることはしなかったのである。リアリティに対する重みの差がここにはあるような気がする。


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