先々月に、ドナルド・トランプ大統領が自身の納税記録流出を巡り米内国歳入庁(IRS)を相手取った100億ドルの損害賠償訴訟について和解が成立したというニュースが流れた。その和解の内容というのがふざけていて、トランプ氏側が損害賠償を取り下げる代わりに今後IRSがトランプ氏本人とその家族、関連企業に対する過去の税務調査を行うことを永久に禁止するという内容だった。確かに納税申告書や秘密の財務情報が流出したのは事実だが、データを漏えいさせた職員は現在禁固刑に服している。組織の責任を問うというのなら当時の政府の責任者のトップはトランプ自身(一期目)である。それがなぜ「トランプ関連の過去の税務調査を永久に禁止」という馬鹿げた結論につながるのかが理解できない。どう考えてみても、どさくさに紛れて意味不明な道理を押し通そうという火事場泥棒にも似たやり方である。なぜこんな人物がアメリカの最高権力者にとどまっておれるのかが不思議である。

 

 もちろんこんな道理が通るはずがない。最新のニュースによればマイアミの連邦地裁は7月13日、トランプ氏側と政権(司法省)による和解が「司法制度の悪用」にあたるとして法的効力を阻止したらしい。、「トランプ氏が(大統領として)自分が指揮する政府を相手に訴訟を起こし、身内の司法省と非公開で永久的な税務調査免除などの超法規的な和解を結ぼうとした手続き(自作自演・利益相反)」はいくらなんでも違法であると判断されたのである。

 

 問題なのは、このような判決が出てもトランプ信者は一向にひるまないことである。もう何が起こってもトランんプへの信頼が揺るがない、アメリカ人の約三分の一がそうした人々だというのだから恐ろしい。前回大統領選に敗れた際にトランプは「選挙が盗まれた」として膨大な数の訴訟を起こした。そして裁判には悉く敗れたが支持者の信念は揺るがない。なぜなら、トランプだ立ち向かっているのはそれだけ強大なディープ・ステートであるからだというのである。もはや何をかいわんやである。

 

 実は日本でもこういう事態が起こっているのではないだろうかと私は疑っている。高市政権がなぜこれほどの高支持率を維持しているのかが私には信じられない。台湾における緊急事態に関する発言は外交についての無知をさらけ出したと思った。正式の外交関係にはない台湾を救うために自衛隊を発動させると解釈されかねない発言をしてしまった。日本は二つの中国を未だに認めていないという事実を知らないのか? 中国の「内政干渉だ」という言葉には外形的には正しいのである。それだけではない。円安になっても「外為特会が黒字てウハウハ」などと口走った時点で、もう完全に政治家失格だろうと思ったあまりに無知過ぎる。国会答弁には消極的で、しかも聞かれたことにはまともに答えないで、はじめから用意された文言を話の脈絡を無視して一方的にしゃべるだけ、誠実さに著しく欠けている。それでいて、「世界に平和をもたらせることができるのはドナルドだけ」などとおべんちゃらを平気で言ってしまう無節操さもある。なぜ支持率が落ちない? 中国に対して毅然とものを言う。軍備を増強して日本を強大化する。どうやらそれだけで嬉しいと思う人が多いようだ。日本を誇りに思いたいという気持ちは分からないでもないが、皇室典範で男系男子の制度を確立したり、国旗損壊罪を導入したり、軍備を増強したりすればそれが実現すると考えるのは錯覚だと思う。

 

 

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 天皇制を支持しない私にとって皇室典範がどうなろうとかまわないのだが、最近の皇室典範改正にまつわる政治家たちの振る舞いを見ていると「これが民主主義の国の国会議員か?」とあきれ果てている。天皇制とは国民の総意に基づくものだったはずではなかったか? そうであれば皇室のあり方も国民の意思に沿わなければならないはず。どの世論調査をとっても女系天皇に賛意を示す結果が出ているにもかかわらず、というか、むしろその世論を意識しているからこそここで一挙に男系男子の道筋を確定しておこうという魂胆が見え見えである。国民の総意を無視して政治をどの方向に持って行こうとしているのか? 「男系男子は二千年の皇統の伝統であり、女系継承を認めると歴代天皇と血の繋がらない『原理の異なる天皇』が誕生してしまう」ということらしい。しかし、『原理の異なる天皇』が誕生してしまうとなにが不都合なのだろうか?  はっきり言ってなにも不都合は生じないだろう。

 

 一般的に、伝統を軽んじてはいけないという保守の主張には耳を傾けてみるべきだと私も思う。しかし、それはその伝統が何に由来するかということを見極めたうえでのことでなければならない。男系男子が何に由来するか? その答えは簡単である。昔は民主主義なんてなかった。権力は実力で勝ち取るものだったからである。孔子さまはえらい人であったが儒教の成立した時代背景を考えれば、それが男尊女卑という考え方を肯定しているのは仕方のないことであったと思う。徳川時代の武家諸法度には「男子の跡継ぎ(世継ぎ)がいなければ御家断絶」と明記されている。要するに男子の跡継ぎを尊ぶのは武家の作法なのである。皇室は中世以降は実質的な権力を持っていないのだから武家の風習に習う必要はさらさらないのだが、男子が家督を継ぐというのは当時の風潮だったのだろう。

 

 つまり天皇が男である必要は全くないのだが、明治時代になって権力の頂点に天皇が祭り上げられ、日本が富国強兵を目指すとなると事情が変わってきた。強力な軍隊を統帥する大元帥としては、女性天皇より白馬にまたがる雄々しい男性天皇が望ましいというわけである。そこで初めて皇室典範に「男系男子」という言葉が成文化されたわけである。それまでは漠然と男が家を継ぐという感覚があったかもしれないが、男系男子という概念はそれまではなかったということは銘記しておくべきだろう。明治の時代には世界の列強と張り合わねばならないという力が支配する世界に日本がさらされていたことを考え合わせれば、ここで男尊女卑が頭をもたげてきたことも納得できる。 現在の天皇は全く政治的権能をもたないのだから、そんなことにこだわるのは全くのナンセンスと言うほかはない。「二千年の伝統をここで壊すわけにいかない」などと物々しく肩ひじ張ってるが、実は何も考えていない。格好付けているだけである。要するに彼らの主張の根拠は「伝統」一本やりで実は何も中身がないことは、少し聞いていればすぐ分かる。その他に理由らしいことは何も言っていないからである。

 

 「皇籍離脱した旧11宮家の男系男子を養子に迎える案」というのが真剣に検討されているらしい。しかし、その旧11宮家の大元である伏見宮家が現在の天皇の直系から外れたのは今から600年前の室町時代の話である。その伏見宮の11宮家すべてに共通しているのは伏見宮家の第20代および第23代当主であった伏見宮邦家という人の子孫であるということである。さらに下世話なことを言えば、その邦家という人はかなり絶倫家で正室以外に9人の側室をもち、17男15女の子をもうけた。これでは皇族が増えすぎて経費が掛かり過ぎるので臣籍降下させたという事情もあるらしい。こんな話を聞くと、なんとなく皇族のありがたみが薄れるような感じがするのは私だけであろうか? 妻と妾と子供が32人である、現在の天皇家の穏やかそうな家庭のイメージとはかなりかけ離れている。はたして国民の敬愛の対象となりうるかどうか?

 

 男系男子の養子案に特に熱心なのが麻生太郎氏らしいが、彼の実妹がなにかと週刊誌のネタにされる三笠宮妃殿下である。自分の妹に婿養子をとらせて天皇の外戚になるつもりではないかと陰口をたたかれている。そんな噂が立つだけでも皇室にとって大きなマイナスである。そんな案で国民が納得するわけがない、どう考えても無理筋である。

 

 

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 私の学生時代はもう半世紀以上も前のことだが、ベトナム戦争が最も激しかった頃であった。今とは違って学生運動も盛んであった。学生は大抵左翼的で「米帝国主義」という言葉が頻繁に飛び交っていた。私はのんびりした田舎者でそういった知識に疎い学生で「なぜアメリカが帝国主義なのか」もよく分からなかった。そんなわけで私は強大な軍事力を行使するアメリカには反発しつつも、過激な学生運動にはなじめず傍観しているだけのノンポリ学生であった。
 その当時は「アメリカ帝国主義」という言葉に対して、なんとなく物々しいレッテル張りのような印象をもっていた。帝国主義とは「自国の利益や領土を拡大するため、軍事力や政治・経済的な力を用いて他国や他民族を支配・抑圧する政策や思想」だという。アメリカは豊かな国土と資源を持つ強大な国であり、ベトナムなどには領土的にも経済的にも野心など持っているようには思えなかったからである。しかし、第2次大戦後の歴史を振り返ってみると「アメリカ帝国主義」は正しい表現であったような気がする。

 第2次世界大戦後に起こった世界中の紛争のほとんどにアメリカが関わっている。その大部分ににおいてアメリカは対処を間違った。キューバ革命においてアメリカは自国の資本家の権益を守るために独裁的なバティスタ政権を支持した。ベトナム戦争では共産主義の拡散を防ぐという名目の為にゴ・ジンジェムという腐敗だらけの政権を支持した。イラン革命においては米英の石油権益を守るために、政治的には全く無能で国民のことを顧みない国王パーレビを支持した。それらの紛争のすべてにおいてアメリカは反民衆の側に味方し戦いそして敗北した。

 アメリカは明らかに間違えていた。本当に人々の幸福の為という正義の理念に基づくならば決して戦争するべきではなかった。むしろ大衆の支持する側に立つべきであったと思う。革命成功後、カストロは「貧しい人々のための革命」を掲げ、農地改革や教育・医療の無償化といった政策を推進し、労働者や貧困層からの高い支持を確固たるものにしました。この時点てもしアメリカが彼を敵視する政策を打ち出していなかったらどうなっただろう。和解できた確率はかなり高いと私は見ている。砂糖の輸入禁止をはじめとするキューバを困窮させるような政策をとらなければおそらくキューバはソビエトに接近することはなかっただろうと私は見ている。そういう意味でキューバ革命後のアメリカとキューバ、ベトナム戦争後のアメリカとベトナムの関係は好対照である。ベトナム戦争において58,000人のアメリカの若者が犠牲になった。しかし、現在のところアメリカとベトナムの間にはとりたてて問題となるようなものは存在しない。むしろ、現在では中国の勢力拡大を食い止めるという共通の問題を抱えているために協力関係にあるという皮肉な状況になっている。 一方、キューバ革命ではバチスタを支えるための工作はしたが、直接戦火を交えたわけではない。にもかかわらず、60年以上経過した今もなお対立を続けている。なにより残念なのは、ずっとキューバを孤立させるための意地悪な政策を続けているため、キューバがより権威主義的な国になってしまったことである。おなじことがイスラム革命後のイランとの関係についても言える。イランにもラフサンジャニの系統に属する親欧米的な穏健派が存在した。しかし、アメリカが終始イランに対して厳しい政策をとり続けたため、彼ら穏健派は徐々に政権内の足場を失い、結果的にイランはますます権威主義的な国家になってしまった。

 

 なぜアメリカはいつも間違えるのか? 常に民主主義の守護者みたいな体裁を装ってはいるが、おそらく目先の利権に目がくらんでいることと民衆の幸福という視点が欠けているからだろう。キューバの農園における権益、イランの石油利権などアメリカ全体からするとささやかな利権だが、それにこだわって膨大な戦費と人的損失を被るというバカな行為を繰り返している。ベトナムの場合は共産主義の拡大を食い止めるという名分で始めた戦争だったが、第二次世界大戦以来の人的被害と莫大な戦費とを出しながら負けた後さばさばしているのは、もともとアメリカはベトナムに権益らしい権益を持っていなかったし、そもそもベトナムは始めからアメリカにとって脅威でもなんでもなかったからだろう。

 イランもアメリカにとっては本来なら全然現実的な脅威ではありえないはずだが、こちらはイスラエルの安全保障という問題が関わっている分解決が困難になっているのだと思う。本来ペルシャはアラブとは別の民族ではあるがイランの革命政府はイスラム原理主義という共通項でパレスチナゲリラとは親和性がある。その点でユダヤロビーの影響下にあるアメリカの政治はゆがめられがちである。イラクのサダム・フセインも当初はイランへの対抗勢力としてアメリカの支援を受けていたという事実がある。結局それがイラク戦争の遠因となってしまったわけだが、アメリカには民衆の幸福という視点が欠けていることを序実に露呈した好例だろう。アメリカの政策を決定している良心の欠けた人々と、常に戦争への衝動にかられているアメリカの産軍複合体が、現在のアメリカ帝国主義の正体だと思う。 

 

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 サッカーの日本対ブラジル戦の視聴率は早朝2時開始だというのになんと15.9%だったらしい。特別早起きしたのだろうかそれとも夜更かししたのか知らないが、サッカーにはそれだけ人を熱くさせる要素があるに違いない。結果は残念だったが、昔の日本サッカーの状態を知る者には昔日の思いがする。やはり対戦してみるとまだまだ実力的に劣るものの、勝てないわけではないと感じさせるところまでこぎつけた、その進歩の速さには目を瞠るものがある。

 

 なぜ人はそれほどサッカーにひきつけられるのか、それはやはり中々ゴールが簡単には決まらないところにあるのだと思う。どんなに技量があっても相手にじっくり守られればそう簡単にシュートが決まるものではない。なんとか相手の守備を崩して一瞬のスキを見逃さず精密なシュートを叩きこむ必要がある。そして運も必要である。前大会で「三苫の一ミリ」という言葉が生まれたが、エンドラインぎりぎりで三苫選手がボールを折り返し、そのボールに対し田中碧選手が絶妙に反応して蹴り込んだ。ビデオを見直すとボールはほとんどエンドラインを割りかけていた。その時のボールの速度が秒速10mだとすれば、一万分の1秒で1ミリ進む。三苫選手の折り返しが間に合うか合わないかはまさに紙一重の違い、その上にその折り返しのボールに対して田中選手がタイミングよく詰めていなければシュートは決まらなかった。同じようなケースでゴールとならなかった場合も多々あるに違いない。今大会ではチュニジア戦で蒲田大地選手の印象的なシュートがあった。おそらくテレビで観戦した人々の多くはどうしてゴールになったのか分からなかったに違いない。実は私も分からなかった、敵のオウンゴールかと思ったのである。スロービデオを見ると中村敬斗選手のクロスに対しノールックで後ろ足のかかとでボールを流し込んでいた。どうしてこんなことができるのか? 素人ならまぐれだろう。たまたまボールの方から足のかかとに当たったのに違いない。でも研ぎ澄まされた得点感覚を持つ選手はそれを半ば無意識にとっさにやってみせる。解説者の一人はそれを「偶然の必然」と表現した。絶妙な表現だと思った。ゴールはなかなか実現化しない。実現する時は常に「絶妙」のタイミングである。そこにカタルシスがある。誰もが絶叫したくなる興奮におそわれる。これからもサッカーのワールドカップは巣没の最大の祭典として続いていくことだろう。

 

 ブラジル戦に敗れた瞬間に田中碧選手が泣き崩れてしまった。おそらく自分が奪ったボールを奪われてそれが相手のシュートに結び付いてしまったことに責任を感じたのだろう。しかし、それさえも紙一重の差である。むしろその他の場面では随所に一対一の強さを発揮していた。前大会では「三苫の一ミリ」のシュートで名をはせたがそれ以外は大した印象はなかった。しかし、今大会において一対一の強さで最も成長を感じさせた選手だと思う。プレミアリーグでしのぎを削っていることによって鍛えられたのだろう。次回大会時は31歳だ、まだ若い。

 

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 テレビで時代劇を見ていたら、「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」という言葉が出てきた。そばにいた妻に「晦日に月が出るって何のこと?」と訊ねられた。女郎の誠と卵の四角というのは「あり得ない」という例えだと見当がつくが、「晦日の月」は旧暦が太陰暦であったことを認識していないとなかなか見当のつかないことだと思う。今ではすっかり太陽暦に人々は慣れてしまったが、歴史的に人類は太陰暦と共に過ごしてきた時代の方がずっと長い。日本での太陽暦の採用は明治5年からだからまだ150年ちょっとで、江戸時代はまだ太陰暦であった。

 太陰暦では1カ月は文字通り月の満ち欠けの周期を表す言葉だった、晦日は(つごもりとも読むが)月の満ち欠けで、月がすっかり隠れて見えなくなる状態(新月)を意味する。「みそか」と読むのはひと月を三十日とすることからそのように読むこととなったのだろう。整理すると次のようになる。晦日には決して月が出ることはないのである。

  • 朔日(ついたち):月が新しく始まる日(新月)。
  • 望月(もちづき):月が満ちる日(満月・15日頃)。
  • 晦日(つごもり):月が隠れて終わる日(月末)。

太陰暦と太陽暦は大小の月や閏月などという点でシステムがかなり違うが、国際基準の太陽暦に合わせたため季節感がかなりずれてしまった。古典文学を鑑賞する時はその点に留意する必要がある。毎年正月には年賀状を出すことになっているが、「新春を寿ぎ‥‥」などと型通りの論言を並べるのは如何なものかと思う。新暦の一月一日は文字通りの厳寒期でとても「春」などと言えたものではない。旧暦の元旦は大体新暦の元旦より一か月以上遅い、今年2026年の場合は2月17日であった。やはり冬至からかなり日が経って昼の時間が長くなったことを実感できなければ「新春」とは言えまい。桃の節句を3月3日としても桃の花なんぞ全然咲いていない、7月7日に七夕祭りをやっても梅雨の最中だからたいてい雨に降られてしまう。織姫と彦星は増水した天の川を渡れずに会うことができないだろう。 「五月雨をあつめてはやし最上川」を文字通りの五月の雨と読んでしまっては少し迫力に欠けるような気がする。やはりこれは梅雨の長雨を満々とたたえて流れる大河でなくてはならない。 太陰暦の知識などなくともちゃんと生活できると言われればその通りかもしれないが、歴史を正しく認識したり古典文学をきちんと味わうためには知っておいた方が良いような気がする。この辺は義務教育できちんと教えておくべきだと個人的には思うのだがどうだろう。

 

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  このスキャンダルに関して「いつまで下らないことで他人の脚を引っ張っているのだ」という声も少なからず上がっているらしい。そしていまだに日本人の過半数が高市さんを支持していると聞くと愕然とせざるを得ない。注意深くニュースを読み解いていけば、これは内閣の一つや二つが吹っ飛んでいてもおかしくない話である。

 高市事務所の依頼で中傷動画を制作したという人物はかなりあやしい人物である。自ら中傷動画を制作したという時点で好ましからざる人物に違いないが、しかも高市事務所の依頼でそれをやったとばらすという不思議な人物でもある。しかし悪いことをしたが途中で改心して正直に告白した、などというそんな話ではないらしい。どうやら、初めからサナエトークンで濡れ手で粟の儲けの為に高市事務所に近づいたようだ。それで高市さんが権力を握るためのお手伝いを一生懸命にやったのだろう。そのかいあって高市事務所の覚えもめでたく、サナエトークンのリリース時に高市事務所公認のアカウントがそのことについて触れてくれてもいたらしい。しかし、そのサナエトークンが無登録業者による暗号資産販売であるとして「資金決済法」に触れるらしいとのことで、「サナエトークンについて高市事務所は一切関与していない」とやったらしい。その結果、総理大臣のお墨付きだと思われていたサナエトークンは当然のごとく暴落する。高値で購入した顧客は大損してその業者に対して訴訟を起こす。訴えられた業者は、「俺は決してだましたわけではない、確かに高市事務所のお墨付きをもらったんだ。その為に中傷動画も作って高市事務所に協力したんだ。」と言いたかったわけである。

 当初高市さんは「私も秘書もその人とは面識がない」などとすっとぼけていたが、第一公設秘書とその人物が頻繁に連絡を取り合っていた事実をしめす証拠がぼろぼろと出てきた。高市さんもはじめは苦し言い訳をしていたが、どう考えてみてもこれは詰んでいる。あげくの果てに、「秘書の作成した陳述書を提出するのでそれを答弁の代わりとして下さい。」「わたし寝る間もないんです。」と言い出した。はぁ、である。これが一国の総理大臣の言うことかと耳を疑うばかりである。日本国国会の品位を汚しているという意識は全く無いらしい。

 高市さんの支持者は「いい加減な人物が持ち込んだネタでデマをまき散らす週刊誌の話を何時までやっているんだ。」と言うが、そのいい加減な人物の言うことがすべてがガセネタであるとは限らない。少なくともその「いい加減な人物」と高市事務所がかなり頻繁にやり取りしていたことをうかがわせる事実がある訳なのだから、後ろ暗いことがないというなら、もっとはっきり事実を明確に喋ればいいのである。聞かれたことにまともに答えようとしないから疑念が広がっていくのは仕方ないことだろう。

 

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 国会でサナエトークンが問題になっている。いわゆる暗号資産らしいのだが、「サナエ」という冠がついていることから高市総理が関係しているのではないかと思い購入した人もいるらしい。ところが高市氏本人が自分とはまったく関係が無いと表明したので、その価格は暴落したらしい。しかし、それだけのことならただの経済事案であって国会で取り扱うべき事案でもないように思える。

ところが話を聞いていると高市氏とはまるきり関係のない話でもないようなのである。高市さんは当初「サナエトークンという言葉すら聞いたことがない」と答弁していたのだが、あとで秘書からの聞き取りの内容と過去の答弁に違いがあったと釈明し始めたのだ。

 

 高市さんの答弁で感じるのは、聞かれたことに対してまともに答えようとしないことである。どうやら何を聞かれようと初めから答え方が決まっているみたいな答え方をする。サナエトークンの発行主催者と公設第一秘書との関係について聞かれているのにそれには答えず、「秘書の陳述書を提出します」と明後日の方向から返事が返ってくる。なぜ陳述書? このような問題にかかずらわっていると総理の仕事に差し障るからだという。なら、とっとと公設第一秘書を参考人として国会で証言させればよい、後ろ暗いことがなければそれでかたが付くはずである。

 

 高市さんは地盤・看板・カバンもないまま政治家になり、総理に上り詰めた人である。ある程度清濁併せ呑む豪胆さがなければここまでこれなかっただろう。後援会に少々あやしい人が混じっていたとしても不思議ではない。しかし、そのことは国会の場における説明責任とは何のかかわりもないことである。国会で訊ねられたことに対しては誠実に正面から答えるべきだと思う。一国の首相の説明責任の重さを受け止めて欲しいと思う。

 

 もともと私にとって高市さんの印象はあまり良くない。とにかくまともな対話が成立しない人だと思っている。一方的に話したいタイプの人なのだろう。そういう風に考えると党首会談をすっぽかしたのも記者会見をしたがらないのも説明がつく。聞かれたことに答えるのは苦手で自分の方から一方的に発信したいタイプの人であることは間違いない。発信する能力は政治家として必要であることは間違いないが、それは説明責任を伴っていなければただのハッタリ屋に成り下がってしまう。個人的見解を言わせてもらえば高市さんはハッタリ屋だと思う、国会答弁を聞いている限りではそうとしか思えない。

 

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 無限ホテルというのは客室が無限にあるホテルである。普通のホテルは満室になるともうそれ以上は新たな客を止めることは出来ないのだが、この無限ホテルはたとえ満室になったとしても新たな客をいくらでも止める事が出来るのである。どうするかというと、満室になった後に訪れた宿泊客は1号室に案内する。そしてすでに1号室に泊まっていた客には2号室に移動してもらう。同様に2号室に泊まっていた客は3号室へ‥‥と繰り返す。こうすれば部屋は無限にあるのでいくらでも新しい客が来ても理論上は大丈夫というわけである。

 

 これはドイツの有名な数学者ヒルベルトの提示した有名な「無限ホテルのパラドックス」というものである。明らかに直観的にはありえないのだが、現代数学では論理的に正しいということになっている。本来は無限という言葉は文字通り「限りがない」という意味であって、その全貌を私たちの理性は把握できないはずのものである。しかし、「そこにアイはあるんか?」で「現代数学では矛盾なく定義できればそれは数学的対象になりうる」と述べたが、そういう意味で現代数学では平然と実無限という対象を定義して、無限集合を扱うことができるのである。

 

 われわれが日常的に「無限」という言葉を使う場合はそれは可能無限のことである。自然数はいくら数えても数え終えることがない、つまり限りがないから無限というのだが、現代数学では一挙に自然数の全体という実無限というべきものを扱っているのである。現代数学におけるパラドックスにはほとんどこの実無限という概念が絡んでいると見て差し支えない。この無限ホテルのパラドックスについて常識的な事を言えば、無限に部屋があるホテルが満室になっているという設定が既にパラドックスになっている。いやそれ以前に無限に部屋があるホテルは何時まで経っても完成するはずがないのである。 「無限の部屋数を持つホテル」という言葉に数学者は矛盾がないというが、「無限の部屋があるホテルがある」と言ってしまえばそこには矛盾があるとみるのが常識というものではないのだろうか? 

 

 集合論の公理に選択公理というのがある。

空でない集合を要素として持つ任意の集合に対し、それらの集合のそれぞれから要素を1つずつ選び出して新しい集合を作ることができる

実はそれほど大したことは言っていない。一個以上のまんじゅうを乗せた皿がいくつかあるとする。それぞれの皿からまんじゅうを一つずつ取り出して新しい別の皿にのせることができる、という当たり前のことを述べているに過ぎない。直観的には当たり前すぎることだが、集合論ではこの当たり前のことをわざわざ公理として定義しておかねばならないのである。しかし、この公理をわざわざ追加することによって直感に反するような奇妙な定理も証明できてしまうような事態も生じてくるのです。その様な複雑化を現代数学の豊かさととらえることもできますが、直感的には「何だかなぁ」という気がしないでもないのです。

 

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 学者が口をそろえて「日本にはそんな伝統はない」というのだが、夫婦別姓反対論者はなぜか「伝統」という言葉を口にする。源頼朝の正妻は北条政子だということを習わなかったのだろうか? 決して源政子とは名乗ったことはない。彼女が公式の文書に署名する時は「平政子」(「平」は本姓)である。たとえ源氏の夫に嫁いでも平氏であることには変わりはない。大河ドラマで有名になった篤姫は島津斉彬の養女とな時点で「源 篤子」となった。(「源」は島津家の本姓である。)さらに将軍家の正妻となるためには家格を上げる必要があって近衛家の養女となっている。この時点で「藤原 敬子」となり、夫がなくなり出家するまではこの名で通した。出家後は「天璋院」となり、明治になって戸籍法ができた時に初めて「徳川 天璋院」と登録したのである。

戸籍の概念自体が明治になってできたものであることぐらいは知っておくべきだろう。「姓名」の概念が戸籍法の以前と以後ではまったく違うものとなっている。

 

 ところで高市総理の本名が一時「山本早苗」であったことはご存じだろうか? 政治家としての通称名としては一貫して「高市早苗」で通していたが、山本拓氏と最初の結婚をした時に戸籍名は「山本早苗」となったのである。現在の日本では結婚するとたいていの場合は妻が夫の姓を名乗ることになる。それで日本は男優位の社会であると言われたりもする。それで高市さんの場合であるが、夫婦はその後離婚して高市さんはもとの「高市早苗」に戻った。彼女はその後、以前夫であった山本拓氏と再婚したのだが、今度は拓氏の方が妻の姓に合わせて「高市拓」となったのである。これで貸し借りなしの夫婦平等ということになるわけだが、この時点で拓氏は議席を失っており立場的に優位な奥さんの方に合わせるしかなかったというのは勘繰り過ぎかもしれない。それはまあ良いのだが、夫の拓氏には連れ子が3人いるが彼らはいずれも山本姓のままである。

 

 たしか、選択的夫婦別姓制度に反対する大きな理由として、「家族が同氏となることで夫婦・家族の一体感が生まれ、子の利益にも資する」というのがあったはずではなかったか。お子さん達はかなりの年齢に達しているのでいまさら「高市」に変えるというのは現実的ではないかも知れないが、だったらそこは妻であるサナエさんの方が「山本」になった方がより家族の一体性を作ることができたのではないか。まあ長男の山本建さんは高市さんのことを「「一人の家庭人(母親)」として良好な関係を築いている」と述べているので家族関係のことに他人が口をさしはさむのは慎むべきであろう。こんなことを言うのはよけいな差し出口であることは百も承知である。ただ、高市さんは家族同姓を強力に支持しているという立場をかんがえるなら、自ら範を示してそうすべきであったのではないかと思うのである。

 

 選択的夫婦別姓制度は夫婦別姓を強制しているわけではない。同姓が良いと思う人は同姓を選択すれば良いのである。それぞれの人が良いと思う選択肢を選ぶことができる。その程度の自由はあってしかるべきである。基本的に他人への強制はあってはならないというのは近代社会の鉄則である。

 

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 このところ皇室典範の改正問題が話題に上ることが多い。なんでも喫緊の問題だとか言って大仰に構えた物言いをする人がなんと多いことか。私に言わせれば今の日本にとって喫緊の問題は他にも山積しているような気がするのだが‥‥。なんでも高市首相は国会の場で、女敬天皇を認めてしまえば「男系のみに受け継がれるY染色体が女系天皇によって途絶えてしまう」と述べたらしい。「はあ? なんで‥‥」と言いたくなる。Y染色体が女系天皇によって途絶えるというがそれのどこがまずいのか? それによってどのような不都合があるというのか、その説明がない。天皇家のY染色体が変わったところで日本の大勢には全く何の影響もないだろう。そんなことはみんな分かっていながら、そのことをさも重大事であるかの如く言い立てる、そんな思慮のない人間のなんと多いことよ。山積する大事な問題を後回しにしてそのようなどうでもよい問題にこだわっている政治家が多すぎる。かつては「ジャパンアズ・ナンバーワン」とまで言われた日本だが、ますます凋落していくのも仕方がないことかもしれない。

 

 衆参両院正副議長が取りまとめた国会の合意案では、旧宮家の男系男子を養子に迎える案が真剣に検討されているらしい。皇室の外部から来た人同士の子を皇統に加えることは考えられないので、これは入り婿を想定していだったはず。あくまで天皇のY染色体は神武天皇のものと同じでなくてはならないらしい。マジか? 由緒正しい血統を保つためのペアリングって、まるでペットの犬猫並みの扱いではないか。 衆参両院正副議長とか何とか云っても昔風に言えばしょせん平民の出に過ぎない輩が、そんな大それたことに口出して畏れ多いとは思わないのだろうか? そもそも結婚について言えば、日本国憲法に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」と明記されている。もちろん憲法は皇室典範よりも優先されなければということは基本の基である。他人ごときが容喙すべき問題ではないはずである。

 

 たしか皇室のそもそもの起源は天照大神だったはず。天照大神は女なのだからY染色体をもっていなかったはず。Y染色体がそんなに尊いという話は何処から出てくるのか。どうせ科学的な根拠らしいものをを示せば説得力が増す程度の、安易な発想による権威付けだろう。普段からものごとの本質について考える習慣がない人達の思いつきそうなことである。申し訳ないが一瞬だけ差別的発言を許してもらいたい。「頭が悪すぎる。」

 

 人間みな平等の思想に従えば、皇室という基本的人権を無視したシステムはあってはならないと私は考えている。このままでは皇統が滅びると真剣に心配している人も多いようだが、そんなことは要らぬ心配だと思う。大丈夫、皇室がなくなったとしても庶民の生活には何の差しさわりもないということは保障します。そんなことは本当はみんな分かっているのだろうと思うけれど、なぜかこういうことに拘りたいというのも人間の本性の一部なのだろう。しかし、世界には皇室や王室のない国も多い、その国々の人々ははたして不幸なのか? なかったらなかったで済む。そんなことはみんな分かっているはずである。ただ拘りたいだけなのだろう。 

 

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