『神』(フェルディナント・フォン・シーラッハ/著、酒寄進一/訳)を読了。

 

 

妻を亡くした78歳の男性が、生きる気力をなくしたと医師に「自死のほう助」を求めた。この男性に致死薬を与えるべきか、法学、医学、神学の参考人などが同席のもと、公開討論会が行なわれる。

 

わたしの結論は「反対」。理由は以下のとおり。

 

実在する自死ほう助団体が受け入れているのは、「治る見込みがない病気」「耐え難い苦痛や障害がある」「健全な判断能力を有する」という条件を満たしている人。作中に登場する男性は、これらを一切満たしていない。

 

命を絶つ(致死薬を投与する)タイミングは、自死する人に委ねられているとはいえ、自ら命を絶つ行為に他者を巻き込んではいけない。(他者=おもに致死薬を処方する医師など)。未来は誰にもわからないのだから。

 

自死のほう助を認めろという一方で、死刑は廃止しろという、命を取り扱うその他との矛盾。

 

命を取り扱うことに対しての自由度を広げてはいけない。自死のほう助を認めたら、生きている人間の証言しか得られない嘱託殺人を裁けなくなる。

 

作中で、「死に寛容になれ」といったことが書かれていたが、死に対して寛容になるには、「自分や他者が生きることに寛容になる」ことが避けられないような気がする。それがどのような状態になったとしてもだ。

今は、生きることや存在することに不寛容な世界だ。こんな世の中で、自死のほう助を認めていいものなのか疑問。

 

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これだけ理由を並べたが、心の奥では認めていいのではないかと考えている気配もある。国が正式に自死のほう助を認め、自分と周囲の人たちが納得できるならば、それでいいのではないかと。たぶん、ここに着地する話。

 

だけど、でもなあ…となる。

 

とても怖い。自死を選択できるようになったら、それこそ治る見込みがない病気や耐え難い苦痛や障害があっても生きたいと思う人がどう扱われるのか。

わたしも、治る見込みがない病気を抱えているので、どうしても他人事ではない。