7年前の事、全てはこの写真から始まりました。
スーパーカブのムック本に掲載されていた写真に、スーパーカブが富士山頂に達したものがありました。
それが誰なのかまでははっきりと書いていませんでしたので、当ブログで情報募集の記事を書きました。
ホンダの古い資料を集めているツッチーさんから、ホンダの社報に富士山に登った人の名前と住所が書いてあることを教えていただきました。
なんとその人は、山梨県南巨摩郡南部町にお住いの鍋田 進さんという方でした。
104で調べ、突電してみましたら、鍋田さんはお元気でお過ごしでした。
1963(昭和38)年8月4日に、富士山頂に到達した49年前のことを聞くことができました。
ご本人に電話インタビューをすることができましたのでまとめてみたり。
スーパーカブで富士登山をした鍋田さんに、ツッチーさんから頂いた冊子『フライング』のコピーと、私が以前書いた冊子『LOVE HUNTERCUB』を送った所、ご本人よりお電話を頂けました。
鍋田さんのお話しによると・・・ 1963(昭和38)年当時、22歳の鍋田さんはある店で整備士として働いておられたそうです。
鍋田さんのお話しによると・・・
店にはホンダの営業マンが出入りしており、スーパーカブも売っていたそうです。
ある時、営業マンから「ホンダが富士山をスーパーカブで登ろうとして、失敗してしまった。」という話を聞きました。
その話を聞いて、鍋田さんは「それじゃ、俺がやってやろう!」という気持ちになったそうです。
その話を聞いて、鍋田さんは「それじゃ、俺がやってやろう!」という気持ちになったそうです。
鍋田さんの決意を聞くと、ホンダの営業マンはホンダ本社に連絡し、大きなドリブンスプロケットを取り寄せて提供してくれたとのことです。(ハンターカブ用か?)
ここで興味深いのは、ホンダがスーパーカブで富士登山にチャレンジしようとしていたことと、一度失敗したという事実があるようだということです。
このことと、上野動物園長一行による富士登山、いわゆる「ホンダ・ワークス登山隊」の登山と関係している様に思えます。
いずれにしても、鍋田さんはスーパーカブを改造し、富士登山の準備に掛かったのでした。
まず、富士登山の大ベテランであったということです。
71歳の今日まで11回も登っており、カブで登ったのは7回目の時だったそうです。
22歳までに6回も登った人はそうはいないはずです。 というのも鍋田さんは富士宮生まれで、父親は富士山で山小屋の強力(ごうりき)をしていたのだそうです。父親とともに富士山を庭のようにして育ったのでしょう。
父親の関係で「富士宮口ルート」の強力達たちと面識があったため、カブでの登山の際も協力を得ることができたそうです。走行ができない胸突き八丁(頂上の手前)では、強力が背負子で運んだ区間もあったそうです。
71歳の今日まで11回も登っており、カブで登ったのは7回目の時だったそうです。
22歳までに6回も登った人はそうはいないはずです。
父親の関係で「富士宮口ルート」の強力達たちと面識があったため、カブでの登山の際も協力を得ることができたそうです。走行ができない胸突き八丁(頂上の手前)では、強力が背負子で運んだ区間もあったそうです。
そして、カブでの登山には、鍋田さんのほか手伝ってくれる仲間が7~8人が同行して登っていたそうです。
当時の写真に写っている頂上で掲げた看板や、登山に必要な道具や水なども同行者が運んだのでしょう。きつい傾斜は前からロープで引っ張ってもらったり、後から押してもらったりしたとのことで、当時は登山者はそれほど多くなかったため、カブで登っても他に迷惑はかからなかったそうです。
多くの協力者がいたとはいえ、40kmの道のりを12時間もかけて登ったので、苦労も多く達成感のある挑戦であったと、鍋田さんはおっしゃっていました。
翌月、ホンダから富士登山の記事を掲載した社報を送ってきたそうです。
それは1963(昭和38)年9月20日発行『フライング』第5巻でした。
(社報は今も保管しているとのことでした。)
それは1963(昭和38)年9月20日発行『フライング』第5巻でした。
(社報は今も保管しているとのことでした。)
何と『フライング』には同年同月、上野動物園園長一行もモンキーとハンターカブ(Z100,CZ100、CA105T×2)で富士山頂に到達した記事が出ていたのです。
上野動物園長・林寿朗氏一行(9名?)は、8月19日に御殿場口より登頂を開始し、8合目に一泊後、20日に最高峰3,776メートル地点の山頂に到達しました。
ハンターカブは素晴しい登坂性能と往復の燃費がわずか3リットルであり、カブの優秀性を実証することができたと書かれていました。
ハンターカブは素晴しい登坂性能と往復の燃費がわずか3リットルであり、カブの優秀性を実証することができたと書かれていました。
鍋田さんの登頂は8月4日ので、「自分が16日早く上ったのだ!」と思ったそうです。
同じ社報に掲載された二つの「富士山登頂」は、45年後に先陣争いの問題を引き起こすことになるのでした・・・。
現在、鍋田さんは多くの車両を所有なさっておられるそうですが、ホンダが好きで、二輪、四輪ともホンダ製品を愛用されているとのことでした。
1947年製の自転車補助エンジン、モンキーA型、メッキゴリラも保管中。
四輪はNSXにも乗っていたそうで、現在はFitとFit Hybridを所有されています。 そんな「ホンダ党」の鍋田さんが激怒する記事が『Honda Magazine』の出たのは2008年の夏でした。(2008年7月発行 SUMMER号)
四輪はNSXにも乗っていたそうで、現在はFitとFit Hybridを所有されています。
スーパーカブ50周年の紹介の中で、このように書かれていたのでした。
「1963年、当時の上野動物園園長をリーダーとするパーティが、アメリカでつくられたカブと、多摩テック遊園地内で乗り物として開発されたモンキーで、富士山に登頂。
それがバイクによる富士山初登頂とされています。(以下略)」
それがバイクによる富士山初登頂とされています。(以下略)」
鍋田さんは「上野動物園園長が富士山初登頂」というのを観て「立場的に上の人が初登頂というのがふさわしいと思って、ホンダは歴史を偽ったのか?」と思ったそうです。
そこで、記事の訂正を電話で申し入れたのですが、納得のいく説明は無くて思わず声を荒げてしまったそうです。
「俺が16日先だったのに、どうしてだ? ホンダは知っているはずじゃないか!」
「俺が16日先だったのに、どうしてだ? ホンダは知っているはずじゃないか!」
鍋田さんの抗議が「訂正」という小さな記事で掲載されたのは同誌・2009年1月発行のWINTER号でした。
「読者から、1963年8月の登山のわずか前(同年同月)に、別の方がスーパーカブで富士山頂に到達していることの指摘がありました」という形でアナウンスがされましたが「読めないような小さな字で、余計に頭にきたよ。」と鍋田さんはおっしゃっていました。
「読者から、1963年8月の登山のわずか前(同年同月)に、別の方がスーパーカブで富士山頂に到達していることの指摘がありました」という形でアナウンスがされましたが「読めないような小さな字で、余計に頭にきたよ。」と鍋田さんはおっしゃっていました。
『Honda Magazine』の間違いはどこから起こったのでしょうか。
おそらく、過去の資料などを良く調べずにWebや雑誌などで調べて「富士山初登頂」のことをなんとなく載せてしまったのでしょう。
ホンダ社報『フライング』は資料として希少でありHonda Magazineの編集部には無かったのだと思われますが、Honda Magazine=ホンダなので、史実の公表には充分気をつけて欲しいものです。
もし間違いが鍋田さんの目に入らなかったら、誰も訂正する人が無かったかも知れないので、奇跡的にご本人が訂正を申し込まれて良かったと思います。
そもそも、「バイクでの富士登山」はカブが最初で最後だったわけではないようです。
昭和20年代後半には、他社のバイクで到達した話がありますし、1963年の後もCS90で富士山頂に到達している記事が後のホンダ社報に書かれています。
最初で最後、というのも「大間違い」でしょう。
昭和20年代後半には、他社のバイクで到達した話がありますし、1963年の後もCS90で富士山頂に到達している記事が後のホンダ社報に書かれています。
最初で最後、というのも「大間違い」でしょう。
スーパーカブが出て5年。1963年に同時に達成された富士山登頂は、どちらもホンダの宣伝がらみの色合いの濃いアクションであったと思います。
ホンダからは、「ハンターカブで高い山を制覇せよ」という通達も出ていたようですからどちらも成功して良かったには間違いなかったと思います。
ホンダからは、「ハンターカブで高い山を制覇せよ」という通達も出ていたようですからどちらも成功して良かったには間違いなかったと思います。
くしくも来年は「カブで富士山登頂50周年」です。
鍋田さんと一緒に富士山5合目まで登るイベントはどうでしょう?
・・・ちょっと考えてみたい私なのでした。
(おわり)
そして1年後、鍋田さんのお宅に伺ってご本人に直接お話を聞くことができました。
鍋田さんの話はとても貴重だったので、『別冊モーターサイクリスト』の坂本編集長に連絡しました。
記事にしてもらうこともできて、忘れ去られていた偉業が世の中に広まりました。
翌年(2013年)は、富士山登頂から50周年なので、何か偉業を称えるイベントをしよう!
ということで、7月21日に富士山ビジターセンター(現・富士山世界遺産センター)でトークショーとスバルライン五合目までのツーリング&ツーリングを行いました。
これが「スーパーカブ富士登山50周年ミーティング@富士山」で、今の「鍋田記念・富士山ヒルクライムラン」につながっています。
50名以上の沢山の参加者があり、イベントは大成功。
鍋田さんも喜んでくれました。
翌月の4日、鍋田さんは本田宗一郎さんの墓参に参加されました。
この日がちょうどスーパーカブで富士登山から50年目の日でした。
墓前で宗一郎さんの娘・恵子さんにも対面され、話がはずみました。
尾形次雄さんや、谷口尚己さんとも交流されました。。
とても喜んでおられ、富士登山の話もされていました。
この年の思い出は、鍋田さんの一生の思い出になったそうです。
というのも・・・
鍋田さんに病魔が忍び寄っていたとは・・・。
翌年・2014年5月に、鍋田さんは意識不明となり、意識が戻らないまま11月10日に亡くなられました。
享年73歳。
今年で鍋田さんが富士山山頂に着いて56年。
お祝いのヒルクライムランは、8回目を計画しています。
ぜひ、多くのスーパーカブファンに参加して欲しいです。
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