戦争と平和に揺り動かされた歴史の中で、人々の愛と哀しみに彩られ、幾つもの文化と芸術を現してきたパリの街を、美しい森と公園を巡り、紆余蛇行しながら北の海に向かって流れゆくセーヌの水面に、ふたつの中州が浮かんでいる。
その下流側の大きいほうの島、シテ島の一画にある千年の歴史を重ねたノートルダム寺院。その大聖堂の裏庭、マロニエの大樹の地下に隠された暗い洞窟の中で、ケージ・エジマは、座したまま目を閉じて動かなくなっていた。
シモーヌ伯母さんはエジマの肩をそっと離し、ロミと妖精たちに向かって続きを話してくれた。
「今からおよそ百年前のことだったわ、彼の父ケーイチロー・エジマはパリに来たのよ」
伯母さんの言葉を聞いて、ロミは、改めて動かなくなった男の顔を見た。
「まあ伯母様、それではこの人は、私の従兄ということになるの」
「そうね、あなたの父博士ケージローさんの、年の離れた異母兄ケーイチの子どもだからね」
伯母さんは慈しむように、動かなくなった男の顔を見た。
「でも、生まれたのは博士より先になるの、その経緯をお話するわね」
あれは、さくらんぼの実る頃、若くて背の高い男が来たの、私の家に。
雷鳴轟く雨の夜、バッグ一つで入って来たわ、肩を震わせながら、ボンソワールと言ってね。
その時、彼の片腕に掴まっていた可憐な妖精がいたの、真っ白な肌とブロンドの髪、だけどその小さな顔は、疲れ切った東洋人の悲し気な面差しだった。
雨に濡れた二人を部屋に入れて、白い妖精にはマドレーヌの服に着替えさせてあげたの。
東京からロンドンを経て、アイルランドのスライゴーからやって来たという二人は、ノックナレアの妖精の女王の神殿を守る妖精村の村長、そう、フィニアンと私の父からの手紙を見せた。
でも書かれていたのは一言だけ「未来を見通す女神の子を守ってほしい」たったそれだけ。
彼女はナツミという名前だった、とても綺麗な少女で、真綿のように真っ白な肌と、その金色に見える瞳は、まるで未来を見通すような深い知性を感じさせる人だった。
でも、初めの頃はほとんど声も出さず、ケーイチの言葉に頷くだけで、もしかしたらこの美しさは白痴美?とさえ思ってしまっていたわ、そしてその白さはアルピノの所為かと。
その頃、私の娘マドレーヌは、フィニアンの住むニューヨークとアイルランドへ行ったり来たり、パリにはなかなか戻ってこなかった。だから私は娘のように、綺麗な妖精ナツミの面倒を見たのよ。ケーイチは大学に通い、何かの研究に没頭していたから、メゾンド・エトワールの私の部屋にはいつも、私とナツミの二人だけだった。
夏が来てフランス語に慣れてくるとナツミは、自分から言葉を話すようになり、大聖堂へ連れていって欲しいと言ったの。
最初は朝のミサに連れて行き、聖母マリアに祈りを捧げ、パイプオルガンの壮大な演奏に感激していたけど、何度か足を運ぶうちに階段を上り回廊を回るようになり、彼女は精霊たちとも話すようになっていたわ。やっぱり彼女は東洋の島国の妖精だったのね。
その年は、世界中で天変地異が起こり、ニューヨークには神の怒りが落ち、アフリカには民族同士の争いで、疑心暗鬼と見失った愛のために、偽りの神話が始まっていた。そして大勢の人々が飢えと寒さに晒されて、女や子どもたちがその無垢な命を失うことになった。
やがて秋になる頃には、ナツミはパリの街にも慣れてゆき、一人で寺院を回るようになった。私にも仕事が有り、ナツミにはもう自由に行動してもらうようになっていた。司祭や尼僧たちとも、打ち解けて会話ができるようになり、寺院や教会の精霊たちにも歓迎されるようになった。
そして秋が過ぎて冬になり、冬至の夜にマドレーヌ寺院から戻ると彼女は私に言ったわ。
「伯母さま、私は子供を授かりました」
私は驚きました、まだ15、6にしか見えない少女の口から、妊娠を告げられるなんて。
でも、それは本当のことでした。
その夜、大学から帰って来たケーイチに聞きました。
彼女はケーイチローと同じ25才、二人は従妹同士で二人とも母親を亡くし、お寺の住職をしていた祖母に育てられたこと。ケーイチは美術を志していたが、ナツミは幼いころから経を読み精霊たちと繋がることができ、ある種の霊能力に恵まれて、無言のうちに人の心を読み、その未来を見ることが出来るようになっていた。
二人はお互いを見て育ち、ナツミは国立の大学で宗教・哲学を学び、卒業すると、ケーイチローに将来のことについて話し、これからは自分のために尽くすようにとナツミは話した。彼は幼いころから体の弱いナツミを守り、一緒に育ってきた彼女の持つ神聖な愛の心を慕っており、ナツミのその言葉に深く頷いた。
それから二人は、一つひとつ準備を整えていった。ケーイチローは大学を入り直し、ナツミに言われた科学の勉強を学び、ナツミは祖母の死とともに寺院を離れ、山の手の神社の巫女となり、占いを業として人々に尽くし、結果的に有力な支援者を集めることが出来た。
そして全てが整うと、二人は半ば駆け落ちのようにして、東京を飛び出してきたのだと言った。
シモーヌ伯母さんはそこまでの話をすると、大きく息を吐き出して、ロミの顔を見つめた。
「そして、私の家で生まれたのが、この男ケージと、メグミの双子だったのです」
ロミは初めて聞く話に驚き、しばらく言葉が出てこなかった。
――ケージとメグミ、私にいとこが二人?
次項Ⅴ-22に続く
