ロミは洞窟で待っていたエスタの腕の中で目を開いた。
「おかえりなさいロミ、トニーも池のほとりに到着したわ」
ロミはエスタに礼を言った後、教授夫妻の遺体に向き直った。
二人のミイラ化した遺体は、今朝見た時より光り輝いて見えた。
きっとマックス夫妻も、息子トニーの帰還を祝福しているのだろうか。
ロミは地上の仲間たちに思念を送った。
――みんなありがとう、私たち無事に戻ってくることが出来たわ、感謝しています。
――ロミ、お帰りなさい、あわてさせるけど、すぐに洞窟を出てちょうだい。
――ここの精霊たちが教えてくれたの、地震が来るって。
ミドリとガーティーが急を伝えてきた。
ロミは二人の遺体に手を合わせたあと、もう一度正面の壁画に目をやった。
たったいま思念の旅をしてきた宇宙の絵、アンドロメダ銀河と地球を結ぶ渦巻き線、そして地表にいる三人の妖精と、太陽に祈りを捧げる裸身の乙女。
それは先祖の姿でもあり、自分でもあると思った。
正面の壁画にも手を合わせたあと、泉を回る石段を下りて、エスタとともに泉に潜った。
泉の水は不純物が漂い、にごり始めていた。
ロミはエスタの手をとり、横穴から池の底に出た。
ゆっくりと水面に向かって上昇を始めた、その時だった、地を震わす轟音が二人を追いかけ、水中に鳴り響いた。
大地の震動に池の水はかき回され、二人は水の動きに翻弄された。
つないでいた二人の手が引き離されて、エスタはそのまま上昇する水に押し上げられ、ロミは下降流にのまれて水底に引きずり込まれた。
水流はさらに洞窟へ続く横穴に入り込もうと激しい渦を巻き、ロミの身体を激しく回転させ、脚の先から引きずり込もうとしていた。ロミはもがいて手を伸ばし、横穴に突き出た岩を掴んだ。
強靭な肩から腕、そして背筋を振り絞り、懸命に水流に逆らい横穴から逃れようとしたが、水流はますます速くなり、しだいに筋肉に送り込む酸素がなくなり、岩を掴む力が抜けてきた。
――ああ、もうだめだわ。
と、あきらめかけたその時、目の前に差し出された大きな手がロミの腕を掴んだ。
横穴の上の岩に足を踏みしめ、下降流からロミを守り引き上げると、彼女の身体を胸に抱きかかえて岩をけり、彼はさらに水面に向かって上昇した。
そしてなんとか水面に浮かび上がり、激しい波が叩きつける中を、ロミはしっかりと抱きかかえられて岸にたどり着いた。
地面は横揺れを続けて立っているのも危うい足元。
彼はロミを両手で抱えて斜面を駆け上がった。
三人の妖精たちのいる場所まで上がると、彼は池の方に振り返った。
ロミはたくましい腕に抱かれたまますり鉢池を見た。
大地の揺れがおさまると激しい渦は止み、一瞬の静寂のあと、こんどは水底から激しい噴水が湧き上がり、みるみるうちに水位は上がり四人の立つ足元まで近づいた。
ようやく状況が落ち着き、ロミは自分を抱いている彼の顔を見上げた。
「いやだ、トニーどうしたの」
ロミを抱いているのは愛すべき中年男ではなく、少年でもない、若いトニー・マックスだった。
あわてて胸を隠して地面に降り立つと、ミドリが着物を肩にかけてくれた。
「ロミ、どうしたのトニーはトニーじゃない、今さら恥ずかしがることはないのに」
トニーはあらためて三人の妖精を見た。
「あなたたちが、どうしてここに?」
「トニー、この三人がいなかったら、あなたはずっと迷子のままだったかもしれないのよ」
ロミは着ものの前を合わせながら続けた。
「洞窟で見たでしょ、あの絵にあったとおり、いつも私を助けてくれていたのは、この人たちなのよ。さあ、あいさつをして、お礼を言ってちょうだい」
トニーは戸惑いながらも、三人の妖精にお礼を言った。
ロミと妖精たちは手を取り合って笹の道を登り、山頂に立ち、今では満々と水をたたえるすり鉢池に振り返り、両手を合わせて祈りを捧げた。
そして肩を抱き額を寄せ合い目を閉じて、この山の精霊たちと、集まってくれた四国八十八か所霊場の精霊たちに、感謝のエンパシーを送った。
トニーはそれを見守り、山頂からゆっくりと世界を見渡した。
砂漠の海で大クジラの背中から飛び上がり、父の魂に飲み込まれてからずっと夢を見ていたような気がする。そして再び大クジラの背中の上で、大人になったロミに抱かれて目を覚ましたのだ。
「ジェーン、さあこれで涙をお拭き」
博士は大型画面の前で泣き崩れているジェーンに、ハンカチを渡した。
大型画面は、洞窟ドームの二人のミイラ化した遺体を映して停止していた。
「ありがとう博士、ああ、なんてきれいな遺体なんでしょう」
ジェーンは涙を拭いたあと、両腕を博士の身体に巻きつけて、その肩に頭をのせた。
「父はやっぱり母を愛していたのね」
博士は腕をまわしジェーンの身体を抱いて、その額にそっとキスをした。
「ジェーン、三十年前のことだけれど、何ていうか、その・・」
「ねえ博士、私たちずっと愛し続けていたわ、それなのに二人はうまくいかなかった」
「なぜかしら?私は思うの」
ジェーンは博士のたくましい胸を指先で突ついていた。
博士はジェーンのブロンドの髪を指ですきながら聞いていた。
「あなたは何ごとも考えすぎるのよ、ああでもない、こうでもないと考えすぎるのよ。愛ってもっと単純なものよ、どう、私の眼好き?私の耳は?私の声はどう?」
ジェーンはイスをずらし博士の正面に回った。
「あの時、私は二十歳の小娘だったわ、だけどあなたはいい歳をした大人だったのよ、憶えている?あの時、結局あなたは中途半端に何も出来なかったわ、そして私があなたをベッドに突き倒したのよ」
「ほんと、情けないわ」
ジェーンは正面から博士を睨みつけた。
「でも、二十歳の小娘を前に、けだもののようになる男だったら私は愛したりしないわ、私の前で思い悩んでいたあなただから愛したのよ」
ジェーンはゆっくり博士に近寄り、両腕を博士の首に回してしっかりと抱きしめた。
抱きしめてキスをした後、博士の手を振り払って向かいのデスクに腰をのせた。
「あの時父から届いたメッセージは、あなたが読むべきものでは無かったのよ。父は母の死がほんとうに悲しかったのよ、だから私に良い人を見つけ、良い子供を産んで幸せになってほしいとメッセージを書いて寄こしたの」
「娘を愛する父親が送る一般的な言葉だったのに、ケージローあなたは誤解して私を遠ざけたのよ、考えすぎたのね、そして私は深く傷ついたわ」
博士はあの時のことを思い出していた。
アンドロイドに襲われたあと、しばらくはジェーンを研究所に住まわせて、様子をみたが、その後、何ごとも起らず平静になると元の生活に戻った。
そしてそれから続いた、週に一度のジェーンとの密会はとても幸せな時間だった。
クラブで待ち合わせ、テニスで汗を流してそのまま自宅に帰り、愛を交わし、二人で料理をつくり、あるいはテニスではなく映画を観たり、メジャーリーグを見たりした帰りのこともあった。密会が終わると十二時前にはアパートへ送り届けた。
学生だったジェーンを気遣い、一緒に生活するとか、まして結婚するとかは考えも及ばなかった。まるで、学生気分の甘い生活だった。
そしていよいよ大学を卒業して、社会人として巣立とうとしていたジェーンにとって、人生の一番大切な時に、母親の死を知らせた教授からの手紙を読み、深く話し合うこともなく、一方的に思い悩んでジェーンから遠ざかった。
結果的に博士は、孤独になったジェーンに何もしてやれなかったのだ。
「あなたは父が怖かったの?」
ジェーンの言葉に、博士は反論出来なかった。
「あなたはいつまでたっても子供なのね、周りの事を気にしすぎて、ほんとうの自分が分かっていないのよ。ヒロミのこともそうだわ、四十年間何もしてこなかった」
「あなたは愛する者に対して、するべきこと、言うべきことがまるで出来ない人なのね。今度のことが無かったら、ヒロミは永遠に自分を知らない、孤独なサイボーグのままだったわ」
言われてみれば、その通りかも知れないと博士は思った。
人生の問題をいつも先送りにして、切羽詰まって慌てふためき、終わってみれば大切なものを失っている。
「ジェーン、君の言うとおりだ、わたしが悪かった」
「君の言うとおりだ?――ねえ、他に言うことは無いの?」
ジェーンはデスクの上で脚を組みかえ、博士は目のやり場に困ったが、冗談を言うことも出来なかった。
「およそ愛については勉強してこなかったのね、あなたの頭の中にある愛の部屋は空っぽなのよ、ねえ、愛するってどうゆうことだか分かってる?」
「愛はあげたりもらったりするものでは無いのよ、一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に傷ついて助け合うものなのよ。人間は一人では生きていけないのよ、分かる?ケージロー」
ジェーンは泣いていた。
博士はジェーンの隣に並んでデスクに腰をのせ、そっと肩を包んだ。
「ケージロー、もう私に悲しい思いをさせないでね」
ハンカチで涙を拭きながら言った。
博士が何か言おうとしたが、ジェーンが先に続けた。
「何も言わないで、あなたのつまらないジョークは聞きたくないの」
そして博士の耳元で囁いた。
「今日こそ態度で示してほしいの――
――あなたが私を抱くのよ」
*参考資料 ≪無量大数≫
一、十、百、千、万、億、兆、京(けい)、垓(がい)、秭(し)、穣(じょう)、溝(こう)、潤(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうだいすう)
・垓は十の二十乗・穣は十の二十八乗・溝は十の三十二乗・無量大数は六十八乗


