茨城県近代美術館で、中村彜の「アトリエ」と「作品」を観た! | とんとん・にっき

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茨城県近代美術館で、中村彜の「アトリエ」と「作品」を観てきました。

茨城県近代美術館では、「竹久夢二展」と「横山大観展」が開催されていたのですが、まずは中村彜の「アトリエ」と「作品」を以下に載せていおきまます。

 

中村彜アトリエ

実は新宿の下落合には「新宿区立中村彜アトリエ記念館」があります。茨城県近代美術館の「中村彜アトリエ」は、下落合のアトリエを模して新築したものです。

 

今回撮影できたアトリエの外観

 

新築復元されたアトリエの内部(リーフレットの写真)

(3時過ぎに無理やりお願いして飛び込んだので、家具類には白いカバー布が被せてあり、今回はアトリエの撮影は断念)

 

下落合のアトリエで制作する中村彜

 

中村彜アトリエ平面図

構造:木造平屋建て 

建築面積:76.75㎡

竣工:昭和63年3月

 

中村彜の作品

今回、常設展に出ていたのは以下の4点

中村彜「自画像」明治42年頃(c.1909)

 

中村彜「カルピスの包み紙のある静物」
大正12年(1923)」
 

中村彜「裸体」大正5年(1916)

 

中村彜「静物」大正8年(1919)

 

中村彝の略歴、作品について

水戸市に生まれた中村彝は、明治の終わりに彗星のように画壇に現れ、大正期にかけて活躍し、37 歳 で夭折した、近代日本を代表する洋画家です。
彝は5人兄弟の末っ子で、父は旧水戸藩士。幼い頃から絵ごころがあったといわれています。17 歳で 名古屋陸軍地方幼年学校を卒業しますが、結核により軍人になることを断念します。
病におかされた彝は、暖かな千葉の海岸地で転地療養を繰り返します。そこで彝は以前から好きであった絵の道を目指して房州白浜に出かけ写生をして過ごす一方、白馬会研究所や太平洋画会研究所に通い本格的に絵に取り組みました。研究所では生涯の友となる中原悌二郎や鶴田吾郎らと出会っています。
やがて、全国的な展覧会、文部省美術展(文展)が開催され、これに出品すると、その3回展で初入 選、褒状を受賞し画家として大きな一歩を踏み出します。
明治 40 年(1907)に新宿駅前に開店したパン屋「中村屋」は文化人が集うサロンの役割を果たしてい ました。相馬愛蔵、黒光(こっこう)夫妻の経営する中村屋には、愛蔵と同郷の荻原守衛(もりえ)の他、戸張孤雁、高村光太郎らが集い、美術や演劇の交流の場として、独特の賑わいをみせました。明治 44 年、彝は愛蔵、黒光夫妻の厚意で中村屋裏の木造アトリエを借りて住み、そこで制作するようになり ます。
結核が一進一退の彝の生活の面倒をみることになった相馬家の長女俊子は、やがて、彝の作品のモデルをするようになります。印象派のルノワールにあこがれた彝は、健康美にあふれた俊子をモデルに多くの優品をのこしました。ほどなく、彝は俊子に恋をしますが、その恋愛は実らず、精神的な動揺と激 しい葛藤に悩まされます。大正3年(1914)12 月、俊子との愛に悩みつつ、伊豆大島へと旅立つことに なります。大島では、いつも筆致のおだやかな彝にはめずらしい大胆な筆触の作品が描かれました。 
大正5年(1916)、パトロンからの援助などにより、現在の東京都新宿区下落合に建てられたアトリエ が、画家後半期の制作活動の舞台となります。彼は、短い画業にもかかわらず、レンブラント、セザンヌ、ルノワールなどの影響を受けつつ、西洋絵画を咀嚼しながら、真の芸術を求め続け、「エロシェンコ氏の像」(東京国立近代美術館蔵、重要文化財)、「頭蓋骨を持てる自画像」(大原美術館蔵)など数々の 傑作をのこしました。  
アトリエは、昭和 63 年、茨城県近代美術館の開館にあわせて、敷地内に新築復元されました。現在は 遺品と共に公開しています。  また、増改築を経て老朽化した当初のアトリエは、新宿区によって保存されています。

 

茨城県近代美術館」ホームページ

http://www.modernart.museum.ibk.ed.jp/index.html

 

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