田沼武能「世田谷の文化人」その2 | とんとん・にっき

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「世田谷の文化人」田沼武能

 

「田沼武能写真展

東京わが残像1948-1964」

特別企画

「世田谷の文化人」

田沼武能

 

「その1」からの続き

 

難波田龍起[洋画家、1905-1997]1988年

 

「岡本太郎[芸術家、1911-1996]1963年

 

斎藤真一[洋画家、1922-1994]1988年

 

宮本三郎[洋画家、1905-1974]1954年

 

左:織田廣喜[洋画家、1914-2012]2005年
右:「利根山光人[洋画家、1921-1994]1985年

 

駒井哲郎[版画家、1920-1976]1951年

 

柳原義達[彫刻家、1910-2004]1989年

 

佐藤忠良[彫刻家、1912-2011]2004年

 

左:萬代峰子[女優、1919-  ]
長谷川町子[漫画家、1920-1992]1962年
右:福田繁雄
[グラフィック・デザイナー、1932-2009]1981年

 

黒澤明[映画監督、1910-1998]1968年

 

田沼武能と文化人の肖像 

世界の子どもの写真や江戸情緒残る東京の写真とともに、田沼のもう一つのライフワークが、各界を代表する文化人の肖像写真です。 田沼が写真学校卒業後に入った会社では給料が期日通り支払われないこともあったといい、そこで師匠の木村伊兵衛から雑誌「藝術新潮」の仕事を紹介され、芸術家の写真を撮り始めました。その仕事が評価され、1952年からは「藝術新潮」で<芸術院会員の表情>、1955年から「新潮」で<作家の24時>といった連載を抱え個展も開催、文化人の肖像写真は若き田沼の出世作となりました。 20代半ばの若者が、自身の親より年長のその道の大家・巨匠たちと対峙する緊張感は相当なものであったに違いありません。しかし臆することもなく田沼は彼らの懐に入り、彼らも田沼に心を許し構えることなく自然体を見せているのは、写真家としての技術はもちろん、穏和な人柄によるところも大きいでしょう。仕事中の真剣な表情も、そのどちらもがその人の刻んだ歴史や内面、本質を捉えています。また生家が写真館であり、「人を撮る」という行為が無意識のうちに刷り込まれていたことも、後に「人間大好き人間」を自称する写真家・田村武能の原点となっているのかもしれません。 今回は世田谷区美術館での個展開催にちなみ特別企画として、田沼の撮影による世田谷区ゆかりの文化人の肖像写真を展示いたします。世田谷区には戦前戦後を通し、数多くの文化人が居を構え、田沼も撮影のために世田谷に通うことも多かったといいます。今回展示した23名はいずれも文学・芸術などの各分野で昭和を代表する文化人ばかりです。戦後東京の街の姿と同じく、彼らの肖像もまた、田沼の捉えた戦後の日本の「貌(かお)」なのです。

 

「世田谷美術館」ホームページ

https://www.setagayaartmuseum.or.jp/

 

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