サントリー美術館で「河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」を観てきました。観に行ったのは、2月14日です。展覧会では8回にわたっての展示替えがありますが、ここではとりあえず前半分を「前期」ということにしておきます。会期終了までにもう一回、観に行く予定です。それが「後期」になります。
河鍋暁斎(1831-89)は天保2年(1831)、下総国古河(現・茨城県古河市)に生まれました。数え2歳のときに家族とともに江戸に出て、7歳で浮世絵師・歌川国芳(1798-1861)のもとで絵を学び始めます。その後駿河台狩野派の前村洞和(?-1841)や、洞和の師・洞白陳信(?-1851)に入門し、独立後は「狂斎」と号し、戯画などで人気を博しました。そして、明治3年(1870)40歳のとき、書画会で描いた作品が貴顕を嘲弄したなどとして投獄され、以後、号を「暁斎」と改めました。
この筆禍事件や明治政府を茶化したような風刺画によって、暁斎は「反骨の人」というイメージで語られるようになります。もちろん、38歳で明治維新を迎えた暁斎が、当時の江戸っ子たちと同様、新しい政府や急速な近代化に対して複雑な思いを抱いていたことは想像に難くありません。しかし、これらの行動の根底にあったのは政府に対する強い反発ではなく、あくまでも、慣れ親しんだ江戸文化への思慕であったと考えられます。
江戸幕府の終焉とともに狩野派は衰退していきますが、暁斎は生涯、狩野派の絵師としての自負を持ち続けました。暁斎の高い絵画技術と画題に対する深い理解は、日々の収斂と古画の学習を画業の基礎とした、狩野派の精神に支えられたものでした。たとえば、晩年に日課として制作していた観音図や、先人たちの作品を丹念に写した縮図などからは、作品と真摯に向かい合った暁斎の姿がうかがえます。
本展では暁斎の没後130周年を記念し、「狩野派絵師」としての活動と「古画学習」を大きな軸としながら、幕末・明治の動乱期に独自の道を切り開いた暁斎の足跡を展望します。
(以上、「図録」のごあいさつによる)
展覧会の構成は、以下の通りです。
第1章 暁斎、ここにあり!
第2章 狩野派絵師として
第3章 古画に学ぶ
第4章 戯れを描く、戯れに描く
第5章 聖俗/美醜の境界線
第6章 珠玉の名品
第7章 暁斎をめぐるネットワーク
第1章 暁斎、ここにあり!
第2章 狩野派絵師として
第3章 古画に学ぶ
第4章 戯れを描く、戯れに描く
第5章 聖俗/美醜の境界線
第6章 珠玉の名品
第7章 暁斎をめぐるネットワーク
「河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」
多様な分野で活躍した画鬼・河鍋暁斎。その画業については、長らく風刺画や妖怪画などに焦点が当てられてきました。しかし近年の研究により、駿河台狩野家の伝統を受け継ぐ筆法と、独特な感性のもとに活躍の場を広げていった姿が明らかになりつつあります。
卓越した画技を持っていた暁斎は、着色と水墨の両方を使いこなし、仏画・花鳥画・美人画など、多岐に渡るジャンル優れた作品を遺しました。
本展では、国内の名品およびイギリスからの里帰り作品を含む約120件によって、幕末・明治の動乱期に独自の道を切り開いた暁斎の足跡を展望するとともに、先人たちの作品と真摯に向き合った暁斎の作画活動の一端を浮き彫りにします。
「サントリー美術館」ホームページ
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2019_1/
「河鍋暁斎その手に描けぬものなし」
図録
編集:池田芙美/久保佐知恵/内田洸/関千夏
(サントリー美術館)
発行:サントリー美術館
発行年月日:2019年2月6日
過去の関連記事:河鍋暁斎関連
東京富士美術館で「暁斎・暁翠伝 先駆の絵師魂! 父娘で挑んだ画の真髄」を観た!
シンポジウム「河鍋暁斎とジョサイア・コンドル―海外における評価と受容」!