石井遊佳の芥川賞受賞作「百年泥」を読んだ! | とんとん・にっき

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石井遊佳の第158回芥川賞受賞作「百年泥」(新潮社:2018年1月25日発行)を読みました。初出は「新潮」2017年11月号で、第49回新潮新人賞受賞作です。本の帯には、「洪水の泥から百年の記憶が蘇る。大阪生まれインド発、けったいな荒唐無稽――魔術的でリアルな新文学!」とあります。

「百年泥」は、チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った私は果報者といえるのかもしれない、と始まります。

パソコンをひらいて地元テレビ局のデジタルニュースを見ると、「チェンナイで百年に一度の洪水!アダイヤール氾濫、市内ほぼ全域浸水か」との見出しが躍る。橋の下には猛烈な勢いで逆巻く川、橋の上にはそれを見物しに雲集したとてつもない人びとの群れ、百年に一度の洪水とあって、近在の人々がこぞって見物に集まってるのだ。

橋を渡るたび強烈な腐敗臭に急襲され、目をしばたかせつつ薄眼で見れば川岸のいたるところ散乱する大量のゴミ、中洲の両側に濃い緑がかった少量のグレーの水が淀む。洪水後の今、橋の上に目を移せば、川がたのしげにそこを通過したあとが一目瞭然だった。百年ぶりの洪水ということは、それは一世紀にわたって川に抱きしめられたゴミが、あるいはその他有象無象がいま陽の目を見たということだ。

都会のドブ川の、とほうもない底の底まで攪拌され、押しあいへしあい地上に捧げられた百年泥。ここにいたって、街に出てから延々とつづいていたあのねっとりむれた匂いは最高潮に達し、匂いの本源はまさにこの百年泥だったのだ。

サリー姿の40年配の女性は、いきなり泥の山の中から5歳ぐらいの男の子をつかみ出す。60年配の男二人は、百年泥の山から泥だらけの長身の若い男を引きずり出す。三人の男が馬鹿笑いを炸裂する。そのときようやく私は、さきほどから自分が感じていた違和感の内容に思い当たる。なんで私、まわりの人たちの言うことが分かるような気がするんだろう? たしか昨日までタミル語がひと言も分からなかったはずだったが。

こうなにもかも泥まみれでは、どれが私の記憶、どれが誰の記憶かなど知りようがないではないか? しかしながら、百年泥からそれぞれ自分の記憶を掘り当てたと信じきってる人びとはそれどころじゃない、めいめい百年泥のわきにべったり座り込み、一人一人がここを先途と五巡目男にむかってかきくどくのだった。

選考委員の堀江敏行は、「破天荒な設定のつながりを、緻密に説明することなくどんどん出していく。マジックリアリズムという言葉を使って評する委員もいた。制御が利いていないことが魅力になっている。新人らしい勢いと、冷静に自分の力を見極める力がある。書き手としてたいへん力があると思う。」と評しています。

石井遊佳:
1963年大阪府枚方市生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。
日本語教師。インド、タミル・ナードゥ州チェンナイ市在住。

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