「生誕130年記念中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」展を観た! | とんとん・にっき

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中村屋サロン美術館で、「生誕130年記念中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」展を観てきました。観に行ったのは8月13日のことです。今日(9月9日)の朝日新聞夕刊に「斎藤与里のまなざし」展が取り上げられて、詳細な解説が載っていました。取り急ぎ、この記事を書いています。


今回は留学時代から晩年までの油彩画や板絵など約40点が展示されています。朝日の記事によると、「興味深いのは、西洋的表現から動画的な作風への変遷」とあります。展示会場も二部屋に分かれており、作品から受ける印象も、同じ人の作品かと思うほど、違った印象を受けます。初期の「薔薇咲く庭(朝―バラと少女)」の力強い色彩と比較して、終戦から故郷の加須市に疎開してからの「少年の頃」や「鞆の浦」など、子供の絵のように大らかでユーモラスです。


僕はどちらかというと、斎藤の戦前の作品が好きです。圧巻はチラシにもなっている「K子像」でしょう。これは名作です。たまたま好きな作品を投票することをやっていました。僕は「初秋(眠れる女)」もよかったのですが、「台湾の娘達」に投票しました。投票箱に入れて、くじを引いたら大当たり、、次回の招待券をいただきました。斎藤与里は、留学で「日本人は日本人らしい絵をつくりだすべきだ」と語ったという。


ホームページに、今回の「見どころ」が以下のようになりましたので、載せておきます。


覚醒と模索

1906年、斎藤与里は師 鹿子木猛郎につきパリに留学し、セザンヌやゴッホから派生したポスト印象派やフォーヴィスムなどの新しい芸術に触れました。帰国後は彼の地で出会い親友となった彫刻家の荻原守衛(碌山)らと中村屋に集い、「中村屋サロン」を形成。また、パリで得た芸術観を日本に発表すべく、美術雑誌に執筆するほか、1912年には岸田劉生、萬鉄五郎、高村光太郎らと反アカデミズムのフュウザン会を結成し展覧会を開催、日本近代洋画界に衝撃を与えました。
確立

美術評論活動などにも力を入れてきた与里ですが、1930年代半ばになると、制作活動に専念。フォーヴィスムに通じる躍動感のある筆致で、印象的な画面を作りあげました。鋭い視線で制作をしていた与里ですが、1945年に故郷の埼玉県加須市に戻ると、作風は淡い色使いと柔らかな筆遣いに変化。日本に根ざした油彩画を創り上げようとしました。








朝日新聞:2015年9月9日夕刊
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「生誕130年記念中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」

中村屋サロンの芸術家の中で、当時パリで流行していた芸術の影響を最も受けたといえる画家斎藤与里。1885(明治18)年、現在の埼玉県加須市に生まれた与里は洋画家を志し、20歳で鹿子木孟郎に師事すると、1906年、鹿子木に付いてパリに留学しました。そこで与里はヨーロッパの古典芸術のみならず、当時パリで繰り広げられていたセザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、マティスら先端の芸術に触れ、自己の絵画表現を開花させます。

1908年の帰国後は、美術雑誌でヨーロッパの新しい芸術思潮を伝えるとともに、1912(大正元)年に岸田劉生、高村光太郎、萬鉄五郎らとフュウザン会を結成。展覧会を行い、日本洋画界に衝撃を与えました。また、画家として鋭い視線で制作をしていた与里ですが、1940年頃になると、豊かな感性で詩情溢れる牧歌的な画風へと変化し、に火音に根差した油彩画を創りあげようとしました。

本展では、主に故郷の加須市教育委員会の所蔵作品を中心に、斎藤与里の初期から晩年までの作品約30点をご紹介いたします。パリで培われた美しい色彩と、与里の目を通した古き良き日本の情景をお楽しみください。


「中村屋サロン美術館」ホームページ


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