澁澤龍彦・巖谷國士「裸婦の中の裸婦」を読んだ! | とんとん・にっき

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澁澤龍彦・巖谷國士「裸婦の中の裸婦」(河出文庫:2007年4月20日初版発行)を読みました。 巖谷國士による「あとがき」によると、以下のようです。


澁澤龍彦は、1986年の3月号から1年間の予定で、「文芸春秋」誌上に連載を始めた。題して「裸婦の中の裸婦」、古今の美術作品のなかから、好みの女の裸体像を12点えらんで、それぞれについて好みのことを書きつづるという、たいていの物書きなら一度はやってみたいと思うような、だが結局は澁澤龍彦しかずばり適任の執筆者がいそうにないような、いかにも興味津々たる企画だった。


これはすこぶるおもしろい読み物となり、好評を得ていた。私自身も目を通す機会が多かった。澁澤さん、やってるなと思った。のんびり、ゆったりしていて、軽くて、啓蒙的なところも、するどい文明批評的なところもちゃんとあって、いかにも彼らしい、円熟した文章の営みであるという気がしていた。


なによりも、それぞれの美術作品を、じつによく見ている、じつによく読み解いている、と感じた。澁澤さんの文章の根本のところには、しばしば「見る」という行為があるのだ。まず対象と向きあって、すみずみまで見わたして、肝心のものを見ぬいて、それからまた自分にもどってきて、観念の操作を再開する。そのときすでに、観念はイメージとぴったり合致している。澁澤さんの対象の読みかたは、いつも「見る」体験と切り離せないものである。


ここまで少し長いが、巖谷國士の文章を載せておきました。もう、巖谷國士の文章自体、名文です。それはさておき、澁澤龍彦の連載は終らなかった。澁澤は、咽喉癌の診断を受けて入院しました。とても連載を続けられるような状態ではなく、病院に見舞った巖谷に、澁澤は筆談で「あと3回」残った連載の後を託します。そうしてできあがったのがこの「裸婦の中の裸婦」です。この本は以下のように始まります。


「裸婦の中の裸婦か。うーむ、へんな大だな。分かったような分からないような・・・」

「そんなことはないだろう。要するに、裸婦の中のいちばん裸婦らしい裸婦ということさ。あるいはまた、こういってもいいだろう。裸婦の中のもっともすぐれた裸婦、えらび抜かれた裸婦、と」

「ははあ、えらび抜かれた裸婦ね。それならば分からないことはない。もろん、それをえらぶのは、きみの鑑賞眼というわけだね」


この本は「独特の対話体」を撮っています。話の主導権を握っているのはいつも彼自身、あるいは澁澤龍彦の「私」という主体です。その相手は二人いて、ひと月おきにかわるがわる登場します。同世代らしい中年男と、だいぶ年下の女の子です。女の子は彼を「先生」と呼び、お話を拝聴している女子大生、いや自称「スーパーインテリ」な女性らしい。この辺がなかなか興味深い。


どうしてこの本のことを知ったのか、たぶん、この本にバルチュス(バルテュス)、あるいはヴァロットンが書かれていると知ったからだったと思います。バルチュスやデルヴォーは、澁澤龍彦が日本における最初の紹介者のひとりだったという。僕の好み、百武兼行の「裸婦」、いいですね。以下、12ヶ月の目次として、画像を添付しておきます。


幼虫としての女 バルチュス スカーフを持つ裸婦

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エレガントな女 ルーカス・クラナッハ ウェヌスとアモル

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﨟たけた女 ブロンツィーノ 愛と時のアレゴリー

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水浴する女 フェリックス・ヴァロットン 女と海

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うしろ向きの女 ベラスケス 鏡を見るウェヌス

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痩せっぽちの女 百武兼行 裸婦

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ロココの女 ワットー パリスの審判

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デカダンな女 ヘルムート・ニュートン 裸婦

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両性具有の女 眠るヘルマフロディトス

rafu4

夢のなかの女 デルヴォー 民衆の声

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美少年としての女 四谷シモン 少女の人形

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さまざまな女たち アングル トルコ風呂

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澁澤龍彦:

1928-87年。東京生まれ。本名龍雄。東大仏文科卒業後、マルキ・ド・サドの著作を日本に紹介するかたわら、人間精神や文明の暗黒面に光をあてる多彩なエッセイを発表。晩年は小説に独自の世界を拓いて、広く読まれた。その著作は「澁澤龍彦全集」「澁澤龍彦翻訳全集」(ともに河出書房新社)にまとめられている。


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