東京国立博物館で「総合文化展」を観た! | とんとん・にっき

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平成館で「台北國立故宮博物院 神品至宝」を観終わってから、久しぶりに東京国立博物館本館で「総合文化展」を観てきました。本館はかなり大規模な模様替えをしたと聞いているので、ゆっくり観たいと思っていたのですが、その日に行ったのはそのほんの一部、「近代の美術」というコーナーのみです。「近代の美術」は、「日本画」「洋画」「彫刻」「工芸」の4分野に分かれています。河鍋暁斎の大作「豊干禅師」が出ていましたが、圧巻は何と言ってもウィーン万博に出品したものや帝室技芸員の手による優品がそろう「工芸」部門でした。


近代の美術

・日本画

明治期に西洋から日本にもたらされた油彩画―「洋画」に対して、日本の伝統的絵画は「日本画」とよばれることになりました。天然の鉱石を砕いた粒子を膠で溶く岩絵具や墨で、絹や和紙などに描く絵画のことです。水墨画など中国に由来する絵画や、平安時代に発達して連綿と受け継がれた大和絵や、浮世絵などが、次第に融合して一つの流れとなりました。そこでは西洋美術の手法を吸収して、日本画に活かそうとする作品も描かれました。また、伝統的な表現を研究することで、新たな日本画のなかに再生しようとする絵画も生まれました。





近代の美術

・洋画

文明開化によって西洋文明が日本にもたらされ、絵画の世界では油彩画が日本に導入されました。日本で描かれた油彩画を「洋画」といいます。明治時代、日本は世界に肩を並べるために、先進国として恥ずかしくない芸術の体裁を整えるため、遠近法などの西洋画法が必要な表現であったのです。当初、技術的な部分で西洋絵画の内容や画法を学んでいましたが、次第に西洋近代の価値観や思想が日本に紹介されて、個性や自我などが絵画にあらわされることになります。さらに日本古来の価値観を洋画のなかで表現しようとする画家もあらわれました。





近代の美術

・彫刻

近代以前の日本彫刻の中心は木彫の仏像でした。明治時代になると彫刻教育のために招かれたヴィンチェンツォ・ラグーザなどによって、粘土や石膏をもちいた写実的な表現がもたらされます。仏師であった高村光雲はそれに憧れ、木彫で写実的な表現を取り入れた作品をつくりました。明治30年代後半になると、ロダンの作品に感銘を受けた荻原守衛や高村光太郎などが、表面的な写実にとどまらない内的な生命感や作家の個性を作品に求めました。明治末から大正頃には、光雲に学んだ平櫛田中等が、伝統技法である木彫によって新たな表現を模索した作品を残しました。




近代の美術

・工芸

明治初期、博物館は国内の産業を発展させる「殖産興業」政策と深いかかわりがありました。そこでは高原の輸出が重要であり、その結果、東博に明治初期の工芸の優品が多く収蔵されることとなりました。明治中期以降、「殖産興業」は工芸から工業へと移り、博物館の目的も日本の美術を示すことへと変わります。その中で、工芸も含めて「美術」と考える日本的美術観を世界に広めることが重要となっていきました。それを目的に参加したシカゴ・コロンブス世界博覧会出品作や、国が特に任命した美術・工芸作家「帝室技芸員」による優品が、東博近代工芸コレクションのもうひとつの柱となっています。