山口果林の「安部公房とわたし」を読んだ! | とんとん・にっき

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山口果林の「安部公房とわたし」(講談社:2013年8月1日第1刷発行、2013年9月25日第4刷発行)を読みました。一気読みでした。


僕は安部公房の作品は、新潮社のハードケース入り「純文学書き下ろし特別作品」など、ほとんど持っていますし、同時代的に読んでもいます。が、やはり最初は勅使河原宏監督の「砂の女」(1964年)から安部公房に入りました。また、勅使河原宏監督の「他人の顔」の美術に磯崎新が参加していたことが記憶にあります。


そして「砂の女」(1962年)、「他人の顔」(1964年)、「燃えつきた地図」(1967年)、「箱男」(1973年)「密会」(1977年)、そして 「方舟さくら丸」(1984年)など。「箱男」と「方舟さくら丸」は7年もの間があいています。たまたま目の前の本棚に純文学書き下ろし特別作品の「方舟さくら丸」があります。1984年11月15日発行、となっています。その他の本はたぶん押し入れの奥深くにあると思います。「壁」(1951年)は少し前なので、同時代的に読んだわけではありませんが・・・。


「方舟さくら丸」の本の間に「新潮社版 安部公房の本」というチラシが挟まっていました。もうその時点で「安部公房全作品」第1巻から第15巻までが紹介されています。ドナルド・キーンが「世界で最も新しく、身近な文学・・・」という推薦文を書いています。面白いのは、「安部公房の作品はこれだけ海外に翻訳・紹介されております」として、「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」「第四間氷期」を取り上げて、アメリカ、イギリス、ドイツ、仏蘭西など、各国に翻訳されていることを紹介しています。当時はノーベル賞に最も近い作家といわれていましたから・・・。


abeko

そのような作家の私的なことについては、「ノーベル賞を取るまでは」という出版社側の思惑で巧妙に隠されてきました。山口果林の「安部公房とわたし」が出るまでは・・・。本の帯には「文壇騒然 メディアで大反響 発売即重版!」とあります。もちろん僕も「あの山口果林が!」とショックを受けました。すぐに読んでみたかったのですが、少し頭を冷やす時期をとってから、アマゾンで「中古品」を購入して読みました。


本の帯には、以下のようにあります。


「君は、僕の足もとを照らしてくれる光なんだ・・・」

その作家は、夫人と別居して女優との生活を選んだ。没後20年、始めて明かされる文豪の「愛と死」

1993年1月、ノーベル賞候補の文学者は、女優の自宅で倒れ、還らぬ人となった。二人の愛は、なぜ秘められなければならなかったのか?


ウィキペディアには、以下のようにあります。


女優・山口果林は、回想記「安部公房とわたし」(講談社、2013年)で、自身と20年以上に亘る愛人関係を明かし、晩年は1980年に正妻と別居し山口と事実上の夫婦関係になり、安部の病状悪化を関係者に知らせたのも山口であったと記した。


僕自身はこの本を山口果林の立場に立って好意的に読んだが、たしかに一方の側から書かれている暴露本ともいえます。過去にこの種の本で、吉行淳之介関連の本も読みました。安部公房の年譜からも、一人娘の伝記からも、山口果林との関係は、注意深く完全に消されているという。しかし、福岡伸一(青山学院大学教授・生物学)は、次のように言います。


私は本書を、透明な存在にされた著者の、ようやく到達できた切実な自己回復の書として読んだ。彼女には覚悟があるのだ。「安部公房は私を守り通してくれたのだと思っている」。作家の全身像は、ここに補完されたのではないか。(朝日新聞:2013年9月15日読書欄)


著者略歴:

女優。1947年、東京都生まれ。桐朋学園大学演劇科を卒業後、俳優座入団。桐朋学園時代より安部公房氏に師事。芸名「果林」は安部公房氏が名付けた。1970年、森川時久監督「若者の旗」に初出演しデビュー。1971年、NHK朝の連続テレビ小説「繭子ひとり」でヒロイン役を務める。俳優座、安部公房スタジオを中心とする舞台、「砂の器」ほかの映画、多数のテレビドラマに出演。


目次

プロローグ

第1章 安部公房との出会い

第2章 女優と作家

第3章 女優になるまで

第4章 安部公房との暮らし

第5章 癌告知、そして

第6章 没後の生活

エピローグ

山口果林の芸歴