千葉市美術館で「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」を観た!その2 | とんとん・にっき

千葉市美術館で「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」を観た!その2

「鳥文斎栄之展」チラシ

 

「千葉市美術館」入口

 

千葉市美術館で「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」を観てきました。

 

鳥文斎栄之(ちょうぶんさい・えいし1756−1829)は、旗本出身という異色の出自をもち、美人画のみならず幅広い画題で人気を得た浮世絵師です。浮世絵の黄金期とも称される天明〜寛政期(1781-1801)に、同時代の喜多川歌麿(?−1806)と拮抗して活躍しました。
当初栄之は、将軍徳川家治(1737-86)の御小納戸役として「絵具方」という役目を務め、御用絵師狩野栄川院典信(1730-90)に絵を学びましたが、天明6年(1786)に家治が逝去、田沼意次(1719-88)が老中を辞した時代の変わり目の頃、本格的に浮世絵師として活躍するようになり、やがて武士の身分を離れます。
当時錦絵(浮世絵版画)は、一層華やかな展開期にありましたが、栄之もまた浮世絵師として数多くの錦絵を制作、長身で楚々とした独自の美人画様式を確立、豪華な続絵を多く手がけたことは注目されます。さらに寛政10年(1798)頃からは、肉筆画を専らとし、その確かな画技により精力的に活躍しました。寛政12年(1800)頃には、後桜町上皇の御文庫に隅田川の図を描いた作品が納められたというエピソードも伝わっており、栄之自身の家柄ゆえか、特に上流階級や知識人などから愛され、名声を得ていたことが知られています。  

重要な浮世絵師の一人でありながら、明治時代には多くの作品が海外に流出したため、今日国内で栄之の全貌を知ることは難しくなっています。世界初の栄之展となる本展では、ボストン美術館、大英博物館からの里帰り品を含め、錦絵および肉筆画の名品を国内外から集め、初期の様相から晩年に至るまで、栄之の画業を総覧しその魅力をご紹介します。

 

展覧会の構成は、以下の通りです。

プロローグ 将軍の絵具方から浮世絵師へ

1 華々しいデビュー 隅田川の絵師誕生

2 歌麿に拮抗―もう一人の青楼画家

3 色彩の雅―紅嫌い

4 栄之ならではの世界

5 門人たちの活躍

6 栄之をめぐる文化人

7 美の極み―肉筆浮世絵

エピローグ 外国人から愛された栄之

 

3、4、5までをその2として、以下に載せます。

 

3 色彩の雅―紅嫌い

 

「六歌仙 業平」
天明7-8年(1787-88)頃

 

「風流源氏やつし 絵合」
寛政3-4年(1791-92)頃

 

「貴婦人花見」
寛政5年(1793)頃

 

「六歌仙 小野小町」
寛政5-6年(1793-94)頃

 

4 栄之ならではの世界

 

重要美術品「上野三橋」
寛政4-5年(1792-93)頃

 

「風流略六芸 画」
寛政5-6年(1793-94)頃

 

「風流略六芸 茶湯」
寛政5-6年(1793-94)頃

 

「浮世源氏八景 須磨帰帆 松風夜雨」
寛政8-10年(1796-98)頃
 

5 門人たちの活躍

 

鳥橋斎栄里
「近江八景 石山秋月 
丁子屋内 雛鶴 つるし つるの」
寛政7年(1795)頃

 

重要美術品 鳥橋斎栄里
「三ケ之津草嫁美人合 京三条砂場お万」
寛政7-8年(1795-96)頃

 

鳥高斎栄昌「恵比寿講」
寛政期(1789-1801)頃

 

鳥高斎栄昌「春駒」
寛政5-6年(1793-94)頃

 

鳥高斎栄昌
「郭中美人競 大文字屋内本津枝」
寛政9年(1797)頃

 

重要美術品、鳥園斎栄深「鷹匠」
寛政(1789-1801)後期

 

弄春斎栄江
「見立普賢菩薩図」
寛政(1789-1801)後期

 

サムライ、浮世絵師になる!

鳥文斎栄之展

図録

制作・発行:

千葉市美術館

 

朝日新聞:2024年1月30日