辺見庸の「赤い橋の下のぬるい水」を読んだ! | とんとん・にっき

辺見庸の「赤い橋の下のぬるい水」を読んだ!

 

辺見庸の「赤い橋の下のぬるい水」(文藝春秋:1992年7月15日第1刷)を読みました。

 

本は、「赤い橋の下のぬるい水」、「ナイト・キャラバン」、「ミュージック・ワイア」の三編あるが、ここでは「赤い橋の下のぬるい水」のみを取り上げます。

 

相模湾に面したS市に赴任して一ヶ月ぐらいのある日、ぼくは駅近くのスーパー金子屋で買い物をしていた。すばらしく首の長い女が輸入チーズ売り場に立っていた。女の手がチーズの棚に伸びた。リーフパイの形のものを一枚、親指と人差し指でつまんでさりげなくハンドバックに収めてしまった。おやおや、こりゃあ万引きじゃないか。すぐ立ち去ればいいものを、女はまだその場にいた。女の内部になにか持ちきれないほどの力が働いて、目が意思に逆らってからだのなかのエネルギーを放射しているふうなのだ。ハンドバックを持つ左腕も細かに震えている。大きな耳たぶから金色のものがひとつ、煌めきながら落下した。上気した女の顔がこちらに近づいてきた。イヤリングが片方、落っこちましたよといおうとしたときには、女は後ろ姿になっていた。入れ違いに、女の立っていた位置に立ち、イヤリングを探した。足元に小さな水たまりがあり、金色のイヤリングがあった。ぼくはイヤリングをつまみ上げた。指先がぬるく濡れた。彼女が盗んだリーフパイの形のチーズに目をやった。イタリア産のフォルマジオ・アル・ペペロンチーノという名前だ。振り返ると、女はレジの横を抜けてスーパー金子屋を出ようとしていた。足早に駐車場に向かっていった。極端な内股だった。斜め後ろから僕は声をかけた。あの、ちょっと。その声で毒にあたったように彼女はからだをこわばらせた。振り向いたときには、もう怯えてはいないのだった。「チーズのことかしら」とだるそうにいった。濡れた魚のイヤリングを示し、「いや、チーズではなく、落としもの。あなたのでしょう」彼女は即座に喜ばないのだった。「見ていたの?」僕は逆に問うてみる。「なにを?」「全部よ」歩きながら、ぼくは警備員じゃないから、と安心させるようにいってみたり、名刺をわたしてよろしくといってみたりした。「見たこと、黙っていただけますか」「いってもしかたがない・・・」「絶対黙っていてください。絶対に」「チーズ、どうすればいいかしら」いまからお金を払ってもかえって面倒なことになるんじゃないですか。「それなら、食べましょうか。今度、いっしょに」いいながら女が腰から運転席に乗り込み、車の外に置き去りにした白い脚をたたみかけた。パンプスが一瞬宙に浮いて、かしいだ靴の両の踵から銀色のなにかが滴った。水?焼けたコンクリートがそれをジュッと吸った。車が走り去った。ぼくは灰色の吊しのスーツを着て、「安心」と「安い掛け金」について熱っぽく説き、クッキングペーパーと計量カップを配って歩いたが、契約は一件も取れなかった。ぼくは途方に暮れて橋の欄干にもたれていた。暑くて世界中が連鎖も循環もやめているようだった。橋の下の鯉だけが元気だった。視界が急に青く染まった。見上げると、青い日傘がぼくの頭上にかかっていた。青白く透けた女の顔があった。その下に長い首が生えていた。あっとぼくが驚くと、その首が、日傘といっしょにゆっくり手前にかしいだ。先日はありがとうございました、と女がいった。橋のたもとの果物屋で八朔を買っていたらぼくをみかけたという。「あのチーズ、食べにきません?私の家に」返事も聞かずに女が先に歩いていく。女がうたうようにいった。「私はサエコ。この川は木越川」サエコはぼくより二つ年上だった。自宅で和菓子をつくって、S市とその近郊の店舗に卸しているという。「もうすぐよ。もうすぐ、四の橋よ」ぼくの目の前に真っ赤な橋がかかっていた。四の橋。目にしみるほど赤い、木造の太鼓橋だった。「このあたりの水は、海がすぐ近くなものだから、塩水も淡水もまざりあってるのね。海でも川でもあるというわけよ。変な水ね。汽水というらしいわ」冷えたフォルマジオ・アル・ペペロンチーノが一枚、ちゃぶ台の透明ガラスの皿に、冷や汗をかいて横たわっていた。「ちょうど半分に切りましょうね」私とあなたで罪を半分こにしましょうね、と聞こえた。スーパー金子屋のイタリア産のチーズが二つに切られてここにある。万引きした女とそれを目撃したぼくがいま、チーズを挟んで座っている。ぼくたちの連鎖は突然に速度を増していた。ぼくの口のなかのものと同じ味と匂いが寄ってきて、匂いが重なり、二人の口いっぱいに溶けて崩れた。女がぼくに静かにかぶさっていた。女は羽根布団のように軽くぼくの腰の上で浮いてはまた沈んだ。サエコがぼくを跨いだまま上体を直角に起こして大きく息を吐いた。ぼくも下から気息を合わせた。腰がぬるくだるかった。腰湯をつかっているように腰の感覚が溶けているのだった。サエコの腿と膝がぼくをつよく締めてきた。「ああ、下に、下に。おばあちゃんが、下に・・・」階下に誰かいるのだ。合点しかけたとき、突然に鼓膜から噴き出したかと思うほどの激しい水音がした。同時にぼくは股間がつよくなにかに洗われているのを感じた。おそらく、先刻から少しずつ濃さを増していた水の気配が、いつか臨界にきて、決壊して迸るのではないかと予感していたためだ。ぼくは音と圧力につられ、あおむけたからだごと高揚した。水音は間歇して二度、三度とつづき、僕はそのたびに温かく激しく表れて、まなうら青くめくるめいた。世界はすみずみまで、ぬるい湯に満たされていった。そんな馬鹿なことがあるわけない、とあなたはいうかもしれないな。あるんだな、それが、とぼくはできるだけ気張らずにいうしかない。女はうつむいて八朔を剝いていた。「驚いたでしょう。お願いだから、絶対に黙っていてね、誰にもよ」いったところで、ひとにはとても信じてもらえないだろう。「下におばあさんがいるの?」と問うて話の筋を違えてみた。水をもたらしたのは女だけれども、巻き込まれ夢中になったのはぼくなのだと思いいたって恥ずかしかったのだ。「ええ、祖母がいるの。和菓子づくりの名人よ。むかしのことだけど。」「さっきはね、その祖母がいるところに、水が垂れていきはしないか心配だったの…」ここでまた、ぼくの連鎖妄想が始まった。チーズ・女・万引き→イヤリング→ぼく→橋・日傘・女・ぼく→チーズ・セックス→祖母→次?次はなんなんだ。「初めて?」「ええ、初めてよ。あなたとで、初めてこんなひどいことになったのよ」「スーパー金子屋で、フォルマジオ・アル・ペペロンチーノを盗んだときも、たしかに水があった。あれも今日と同じ水なのだろうか」「そう、ほんとうに恥ずかしいけど・・・同じ水よ」「どうしてチーズを盗んだの?」「水が、からだにたまったからなの・・・」「水がたまると、ものを盗むの?」「ひどいことをしている、してはいけないことをしている、と思うと、出るの。はずかしいわ」「もうしないわ。盗みなんかもともとしたくなかったの。もうしない。もしかしたら、もうしなくてすむかもしれない。あなたがいれば・・・」「ぼくがいれば?」「そう。あなたがいて、水を全部出してくれれば・・・」勿論、ぼくは、うん、うん、うんと三つ頷いた。ぼくがサエコにかかわって水を出しつくすという、覚束ない契約めいたものが、それで自然に成立した。

以下、略