文芸3誌の特集「追悼・大江健三郎」! | とんとん・にっき

文芸3誌の特集「追悼・大江健三郎」!

文芸誌がそれぞれ特集で大江健三郎さんを追悼しています。 ここでは文芸誌3誌、「新潮」令和5年5月号、「永遠の大江健三郎文学」と、「文學界」令和5年5月号「追悼・大江健三郎」、そして「群像」2023年5月号、追悼・大江健三郎を取り上げます。

 

「新潮」令和5年5月号、「永遠の大江健三郎文学」

 

追悼 永遠の大江健三郎文学
筒井康隆「お詫びその他。」 

四方田犬彦「Numquam est」 

野田秀樹「作家はカタルシス」

川上弘美「重層」
尾崎真理子「時代に祝福された作家だった」

多和田葉子「三度の出会い」

島田雅彦「戦後民主主義のレジェンドかつパンク」

町田康「魂のこと」
岡田利規「大江さんの若さ」

平野啓一郎「戦後民主主義と文学」

中村文則「存在そのものが、文学のような人」

佐藤厚志「大江さんの笑いを引き継いで」
《再掲載》大江健三郎「難関突破(ブレックスルー)」

 

 

「文學界」令和5年5月号、「追悼・大江健三郎」

 

追悼 大江健三郎
蓮實重彦「ある寒い季節に、あなたは戸外で遥か遠くの何かをじっと見すえておられた」
多和田葉子「個人的な思い出」
町田康「狂熱と鬱屈」
中村文則「再読する(リリード)、ということ」
〈対談〉島田雅彦×朝吹真理子「理性と凶暴さと」
松浦寿輝「誠実と猛烈」
安藤礼二「大江さんからの最後の手紙」
阿部和重「Across The Universe――大江健三郎追悼」
長嶋有「もう、大江さん!」
星野智幸「『大江健三郎という権威』を批判する大江さん」
横尾忠則「散歩中の会話」

 

 

「群像」2023年5月号、追悼・大江健三郎

 

追悼・大江健三郎

朝吹真理子「すれ違っていた」

阿部和重「(ICan’tGetN0)Satisfaction-大江健三郎追悼」

いとうせいこう「私の大江健三郎」

尾崎真理子「全うされた小説家の人生」

小野正嗣「大江さんに与えられたこと」

柄谷行人「大江健三郎と私」

工藤庸子「美しい怪物 大江健三郎」

黒井千次「大江健三郎氏との触れ合い」

司修「1970『叫び声』」

中村文則「恩人として」

沼野允義「光り輝く精神の果物屋、あるいは神なきドストエフスキー」

蓮實重彦「大江健三郎の周辺では、いま、現実の女性もフィクションの女性も、自分の言葉を滑らかに語り始めている」

平野啓一郎「大江以後も書き続けるということ」

町田康「魂の行き処」

三浦雅士「起点としての『万延元年のフットボール』」

奥山紗英「追悼詩 辞書を残す人

 

柄谷行人は「大江さんと私」の最後に、以下のように書いています。

大江健三郎の訃報を聞いたとき、私は、何か重要なものの死を感じた。詰まるところ、それは、「近代文学」の終焉である。

 

ここでは、朝日新聞2023年4月28日、作家・古川日出男の「文芸時評」の冒頭部分を取り上げます。

大江作品の試み

月刊の文芸誌併せて四誌が大江健三郎を追悼する特集を組んでいる。プリズムのように大江像が立ち上がる印象がある。「群像」5月号には批評家の柄谷行人が追悼文を寄せ、訃報に触れた時に感じたものを「『近代文学』の終焉である」と分析した。自分もまたそう思う。が、だから大江作品に学ばないという手はないし、終わりの向こう側にあるものを一から始めないという手もない。私見ではある時期からの大江作品は「個人的な痛みを大きな社会性に換える」試みで、要するに小ささを大きさ、巨大さに変換していた。それを「近代文学」とは異なる枠組みに応用するとはどういうことなのか?