町田康の「宿屋めぐり」を読んだ! | とんとん・にっき

町田康の「宿屋めぐり」を読んだ!

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町田康の「宿屋めぐり」(講談社:2008年8月6日第1刷発行)を読みました。表紙の人形(制作:西森美美)の写真が、この作品の異様さを表しています。町田康の作品、河内十人斬りをモチーフに描いた「告白」は圧巻でした。が、しかし、町田の作品は意外と僕は読んでいないことに気がつきました。最近石原都知事が芥川賞選考委員を辞退したということで、話題になっていましたが、朝日新聞(2012年2月7日朝刊)のインタビュー記事「芥川賞を語る」のなかで、3人の作品を取り上げて高い評価を与えていました。辻仁成「海峡の光」(1996年下期)、町田康「きれぎれ」(2000年上期)、青来有一「聖水」(2000年下期)がそれです。

町田康の「きれぎれ」の選評で石原は、以下のように述べています。「それぞれが不気味でおどろおどろしいシークエンスの映画のワイプやオーバーラップに似た繋ぎ方は、時間や人間関係を無視し総じて悪夢に似た強いどろどろしたイメイジを造りだし、その技法は未曾有のもので時代の情感を伝えている」。いま、この選評を読んでみるとまったくもって「宿屋めぐり」にもあたっているから、さすがは文学者、見事というほかない。僕ももちろん芥川賞受賞作「きれぎれ」は読んでいますが、十数年経っているので記憶が定かでない。本棚の見えるところには、処女小説「くっすん大黒」とか、エッセイ集「へらへらぼっちゃん」とか、ツタヤで買ってそのまま読んでいないものが数冊あります。


実は「宿屋めぐり」は、3年半前に発売と同時に購入したのですが、その後積んでおくだけでなかなか読めませんでした。600ページもの大作、ということも読み始めることを恐れた理由ですが、なんのことはない、読み始めると面白い、あれよあれよという間に読んでしまいました。世の中に充満する偽と真をめぐる話、とくに前半の「ドライブ感」は凄い、時代は一切無視した語り口で、一気に引き込まれます。登場人物の唐突なネーミングがまた驚きです。さもありなん、本の帯には「執筆7年。各紙誌絶賛、傑作長編小説!」とあり、第61回野間文芸賞受賞作です。


執筆7年。新たな傑作長編小説の誕生!
主はいつも言っていた。「滅びにいたる道は広く、光にいたる道は狭い。おまえらはいつも広い道ばかり行こうとするが、それは天辺から誤りだよ」 主の命により大権現へ大刀を奉納すべく旅をする鋤名彦名は、謎のくにゅくにゅの皮に呑まれ、「偽」の世界にはまりこむ。嘘と偽善に憤り真実を求めながら、いつしか自ら嘘にまみれてゆく彦名の壮絶な道中。その苦行の果てに待ち受けるものは。俺は俺の足で歩いていくのだ。俺の2本の足で正しい道を。


「あらすじ」はというと、121ページに肴春五郎親分に彦名が正直に話そうとする箇所に、少し長いですが、前半部分の話がよく整理されています。


本当の名前を鋤名彦名ということ。主の命で燦州大権現に刀を奉納しに行く途中であること。主がおそろしいこと。あらぬ誤解を受けて法師に殴りかかられたこと。湖から這い上がってきた奇怪な虫に襲われたこと。もともと住んでいたのとは別の妙な世界にのみ込まれたこと。思想がだだ洩れて困っているときに酒坂石ヌという邪悪な幼なじみにたばかれて女郎殺しの罪を着せられて役人に追われていること。その女郎は気が狂っているうえに性格が悪かったこと。珍太という詐欺芝居をして暮らしている男に大事な名刀を盗られたうえ密告されて闘京新吾親分に追い回されたこと。闘京新吾親分はにやにや笑いが貌に貼りついたままで気味が悪かったこと。珍太のせいで善良な菰被りが死んだこと。巻鮨蝶五親分の賭場で如何様賭博に引きかかり一文なしになったこと。その際、しゃぶ中が暴れたのを自分のせいにされて全国の博徒の間に廻状が回って六十余州に身の置きどころがなくなったこと。やっとたどり着いた山猟師の店では腹が減って死にそうだったこと。


肴春五郎親分に盃をもらおうとして断られ、「俺はいったいどうすればよろしいので・・・」と言うと、肴春親分は彦名にこう言います。「おまえはその白いくにゅくにゅの皮を探せ。それからその皮を通って元の世界に戻り、本当の燦州に生き刀を納めてこい。それから主のところに戻って暇を貰ってそれからまた皮を通ってここに戻ってこい。そしたらわっしはおめぇに盃をやるよ」と言われて、127ページに彦名が反省する箇所があります。


考えてみればこの世界に落ちて以来、俺はどこか欺瞞的だった。どうせ贋の世界だ、と思って退嬰的な言動をとっていた。人間はそんなことではだめだ。いずれ生きているところが真実・真正の世界だと思って行動しなければ人生そのものが嘘になる。いく先には様々な困難が待ち受けていることだろう。でもそれを恐れて欺瞞的に生きるより困難にたち向かって生を実感した方がよい。俺はそのことを肴春親分に学んだ。いやあ、目が覚めた。あのまま欺瞞的な態度で贋の世界を漂っていたら俺はいずれひどいこと後悔することになっただろう。いやあ、学んでよかった。


そうは言っても彦名が思うほど世の中、簡単ではありません。「奇術と言って嘘をつき、群衆を欺いて銭をとる。性格が悪く男を誘惑しておもしろがってるくせに、見た目は美しい、みたいな奴らが栄える世の中を呪っていたのである」。そして「もっというと本音と建て前の距離がどんどん遠ざかってみながにやにや笑いながら心にもないことを言い、腹の探り合いをしているという腐った嘘の社会が顕現するのだ」。そんな嘘の世界を正せと、そう主の命を受けたと彦名は勘違いします。それからが彦名の意に反して、紆余曲折が延々と続くのです。


苅部直は「純粋に憧れ、偽善に転落する弱さ」と題して、以下のように言う。

純粋な正しさに憧れながら、やがて自己欺瞞に陥り偽善へと転落する、人間のどうしようもない弱さ。主人公が不快な経験に見舞われつづける、負の遍歴小説の趣向を楽しんでいるうちに、いつの0まにか切実な大問題へとひきこまれてします。読後に残った重量感は、本が分厚いせいだけでは、もちろんなかった。

もちろん小説作品は、読んでみないことにはわからないのですが・・・。


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