藤井省三の「魯迅―東アジアを生きる文学」を読んだ! | とんとん・にっき

藤井省三の「魯迅―東アジアを生きる文学」を読んだ!

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藤井省三の「魯迅―東アジアを生きる文学」(岩波新書:2011年3月18日第1刷発行)を読みました。本の帯には「現代中国は魯迅文学を抜きにしては語れない!」とあり、そして「東アジアのモダンクラシックとなった作品を読み解き、その生涯にせまる」と続きます。最近、中国関連の、主として新書ですが、意識して読むようにしています。例えば、服部龍二の「日中国交正常化」とか、国分良成編「中国は、いま」です。実は「日中国交正常化」が2011年度大佛次郎賞、アジア・太平洋賞特別賞、ダブル受賞作だということを知り、先に読むことしたので、「魯迅―東アジアを生きる文学」が後回しになってしまいました。


が、しかし、「魯迅」については、恥ずかしながら、まったく何も知りません。もちろん名前くらいは知ってはいましたし、「阿Q正伝」などの書名もしってはいました。が、魯迅は教科書にも出てくる、中国文学では最もポピュラーな人だというが、教科書に出ていたかどうかも、まったく覚えがありません。パラパラと目次を見たときに第5章、第6章に「上海時代」とあったので、先日「上海旅行」をしたときに、この本を飛行機の中で読もうと思ったのですが、結局は読めませんでした。


本のカバー裏には、以下のようになります。

多くの教科書にその作品が採用されている魯迅は、日本で最も親しまれてきた外国の作家の一人である。その生涯を東アジアの都市遍歴という視点でたどった評伝。ハリウッド映画を楽しむ近代的都市生活者として魯迅を描きだしながら、その作品が東アジア共通のモダンクラシックとして受容されてきたことを明らかにする。


著者の藤井省三の略歴は、以下の通りです。

1952年東京に生まれる。1982年東京大学大学院博士課程修了、桜美林大学助教授を経て、現在、東京大学文学部教授、文学博士。専攻は近現代中国文学。著書に、「エロシェンコの都市物語」(みすず書房)、「魯迅『故郷』の読書史」(創文社)、「台湾文学この百年」(東方書店)、「魯迅事典」(三省堂)、「村上春樹のなかの中国」(朝日新聞社)ほか。訳書、魯迅「故郷/阿Q正伝」「酒楼にて/非攻」(光文社)ほか。


目次

まえがき
第1章 私と魯迅
第2章 目覚めと旅立ち―紹興・南京時代
第3章 刺激に満ちた留学体験―東京・仙台時代
第4章 官僚学者から新文学者へ―北京時代
第5章 恋と映画とゴシップと―上海時代(1)
第6章 左翼文壇の旗手として―上海時代(2)
第7章 日本と魯迅
第8章 東アジアと魯迅
第9章 魯迅と現代中国
あとがき
略年譜
図版出典


目次を見て、まず目に付いたのが第7章「日本と魯迅」の項、「魯迅と大江健三郎」という箇所です。早速読んでみると、興味深いことが書いてありました。大江がノーベル文学賞を受賞したとき、母の小石は「アジアの作家の中でノーベル文学賞に最もふさわしいのは、タゴールと魯迅です。健三郎は、それに比べたらずっと落ちますよ」と言ったという。彼の母は中国文学に深く傾倒して魯迅を敬愛していました。1947年、新制中学に進学した大江は、母より佐藤春夫・増田渉訳の岩波文庫「魯迅選集」をおくられ、それ以来大江は魯迅を愛読しているという。


「知識人になるために」という講演で「魯迅からどのような影響を受けたか」という質問に、大江は、「魯迅は自由に短編小説を書き、小説の形式を作ってきた。一人の知識人が世界にむかって切実なことを訴える、そういう文体を持っており、捨て身の告発をした。私も短編小説を書くときにはしばしば魯迅を思い出したものですす」と答えています。その後に、大江のデビュー作「奇妙な仕事」の執筆前に竹内訳の岩波文庫で魯迅を読み直していた、と藤井は書いています。


またもっとも面白かった、というか、興味深かったのは、第9章のラスト、「村上春樹の中の魯迅」でした。僕はまったく、一冊も村上春樹の著作を読んだことがありません。言うなれば村上の書いたものを読むことを長年、断固拒否してきたのですが、村上が中国を意識してその作品を書いてきたということを、藤井の「魯迅」で始めて知りました。村上春樹は、高校時代に魯迅を愛読していたという。「村上春樹のいわゆる青春三部作とは『僕』とその分身『鼠』、そして二人よりも20歳年長である中国人ジェイの3人が語り合う歴史の記憶なのである」と書かれた箇所。


「これに続く『ねじまき鳥クロニクル』はノモンハン事件と満州国の記憶を辿る物語であり、『中国行きのスロウ・ボート』『トニー滝谷』などの短篇小説群は中国への贖罪の意識、歴史忘却への省察であり、『海辺のカフカ』や『アフターダーク』は、たとえば香港では『内心に潜在する暴力の種を反省するよう日本人に呼びかける』作品として読まれている」と書かれています。


第5章「恋と映画とゴシップと」の項は面白い。1926年8月、魯迅は白色テロが荒れ狂う北京を脱出して、天津・南京・上海へと南下します。この逃避行に同行したのが、許広平でした。許広平は旧式結婚を拒絶して故郷広州を飛び出してきた女性で、その知性といい行動力といい、新しい女の代表でした。上海で二人は、完全な同棲生活に入り、魯迅の秘書役も務めていたという。上海では新聞発行部数が急増、大衆文化が萌芽期を迎え、文化情報ばかりでなく、センセーショナルな話題も提供していました。


魯迅の私生活もゴシップとして報じられます。妻を北京の母のもとに置いて、17歳年下の教え子と同棲する魯迅を、スキャンダルとして叩きました。「両地書」は、二つの土地の間を往来した書簡という意味です。魯迅と許広平の愛の往復書簡で、3度の転居に対応して3集に分けてまとめたものです。この3集はそれぞれ魯迅・許広平両人の師弟関係、恋人関係、そして愛人関係という3段階の関係に対応しています。


1840年のアヘン戦争以来、外からは欧米そして日本の侵略を受け、内側では太平天国軍との内戦や農民反乱によって衰弱していく中国をいかに救うか、明治維新後、日清・日露の二つの戦争を経て着実に国民国家を建設し、欧化=近代化を遂げていく日本を目の当たりにしながら、中国はいかなる近代を歩むべきなのか、これが日本留学生だった魯迅やその師・章炳麟、蘇曼珠らが20世紀初頭に取り組んだ課題でした。3人の知的格闘をたどる作業から、魯迅が光明を求めるために民族と自分自身との暗部を凝視していたことを、藤井は学んだという。