鈴木善徳の「髪魚」を読んだ! | とんとん・にっき

鈴木善徳の「髪魚」を読んだ!

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馳平啓樹の「きんのじ」と鈴木善徳の「髪魚」を読みました。ともに第113回文學界新人賞を受賞した作品です。応募総数1985篇のなかから5篇を最終候補とし、角田光代、花村萬月、松浦寿輝、松浦理英子、吉田修一の5選考委員により選考が行われて、上の2作品が受賞したものです。略歴を見ると、馳平啓樹は、1979年生まれ、32歳。奈良県出身、京都大学法学部卒業。現在、会社員。一方、鈴木善徳は、1974年生まれ、36歳。茨城県出身、東洋大学文学部国文科卒業。現在、フリーラーター、とあります。


この2作を読んだのは、11月の第2週の初め、もう3週間も経ってしまいました。とりあえずここでは、「髪魚」を書いておきます。読んだ後に、選考委員の選評を読みましたが、候補作は全体的にレベルが高かったようです。が、しかし、読んでみて、この2作がずば抜けて突出した作品だとは思えず、これがそのまま「芥川賞候補作」になるとは、僕の感じでは残念ながら思えません。松浦理英子は「題材や方法は各人各様なのに読後の印象は不思議と似通っていて、個性を磨き上げた一篇には出会えなかった」と、選評で述べています。と、ここまでは「きんのじ」を書いたときと、ほとんどおなじです。


さて、「髪魚」は、降り続いた雨のせいで八日目に川は氾濫した、と始まります。御神籤のついた鉛筆を企画したが、今の子どもはそんなものは買わないという意見が商品企画部の大多数の意見で、そんなことより川の増水が気になり、珍しく会社を定時に出て帰宅します。だいぶ水位は低くなり、マンションになにも被害はなかった。煙草を買いに出かけたときに川原に降りてみると、なにやら蠢いている影がありました。始め、人間だと思ったが、影は呻きながら両手で泥を掻いて暴れていて、魚の下半身が泥に埋まり動けなくなっていました。のたうちまわる男の頭には、数本の白髪が泥水で頭皮にこびりついています。


上半身の瘦軀はあばら骨が浮き出ていて、下半身の鱗も所々剥がれ落ちています。なにやらぶつぶつと言葉を繰り返しています。どうやらコイツには感情があるみたいだな、と僕は男に声をかけたが、老人は口をあんぐりと開けて、僕の顔を眺めているだけで、僕らの言葉を理解できないらしい。広いベランダに空いたスペースがあるのを思い出し、100円ショップで子供用のビニールプールと長いホースを買い、自転車置き場にある共用の台車にその男を乗せて、家に連れて帰ります。


僕の部屋の中における彼の存在意義をどのように定義したら良いものか。実用性から言えば、無駄なものと言わざるを得ないし、骨董品の価値があるかと言えば判断できず、ペットセラピーのように僕を癒すものかというと、どうやらそうでもなさそうです。「すまん、すまん。すぐに水に入れてやるから」と、男をゆっくりと水が零れないようにプールの中に沈めました。翌朝、ベランダのガラス窓を叩く音が聞こえ、カーテンを開けると、ガラス越しに男がぐー、と奇妙なうなり声を上げています。「なんだ、腹が減ったのか」とベランダの窓を開きます。冷蔵庫を開けて、スーパーで買ってきた薩摩揚げを男に与えると、旨そうに食べました。


会社に行って同僚に聞くと、人魚屋の話を聞かせてくれます。「どんな人魚?」と聞かれ、「男の、高齢のヤツ」と答えると、「それってけっこう珍品だと思うよ」と言われます。人魚屋は赤羽駅の西口にありました。苔むした石段を登ると、「示現堂」という古木の板に書いた屋号が見えます。2メートルぐらいの水槽が7つほどあり、のたうつ若い雌の人魚が明かりに照らされていました。今まで写真で見た人魚は若い雌ばかりで、あの老人のような哀れな姿をした人魚は、見たことがありませんでした。人魚屋の男は、店の8代目で、家業を継いでもう20年になるという。近頃は、人魚を飼う人は少なくなり、商売も廃れ気味、とうとうこの店が、赤羽では最後の人魚屋になってしまったそうです。


店主に聞くと、雌と雄では寝姿に相違があり、自然の中でも雄は岩に靠れかかって寝るのだという。しかし、あの男を部屋に連れて帰ってから胸中に生じる不安のようなものは、いったい何なのだろうか。ベランダから覗き込む目は、自分の存在を認識できない僕の心を見透かし、生物として生きるという意味においては不必要な物質に囲まれる僕を、悲しげに捉えているのではないだろうか。餌と飼い桶の見積書は10万円、2週間前に買い換えた全自動洗濯機と変わらない値段です。部屋に持ち帰ると、手を煩わせた犯人は、ベランダの窓越しで呑気に寝ていました。


定例会議で、夏期の賞与はないと報告があります。家に帰りベランダを見ると、男は一向に気にした様子はない。窓を開けると老人の白髪が乱れます。「今日から餌の量を減らす」と言うと、男は首を傾け、洟を啜ります。銀行で預金通帳の残高を見たら、恐ろしく減っていて、残高はほとんど無いに等しかった。金のことなど気にせずに過ごしてきた自らの愚かさに声も出ませんでした。人魚の餌は1個900円、俺の昼飯の3日分です。それがわかったのかどうか、今朝も男は餌の球を一つしか食べませんでした。気のせいか、男の頭に残る毛の量が、少なくなったような気がします。


男を乗せた台車は乾いた音をさせて、道を走ります。樽から引き上げ台車に乗せたときも感じたが、人魚の体重は少しも変わっていないようです。ガラス越しに覗き込む男の顔に、我慢ができなかった。男の顔を見ないように台車を押します。ちょうど男を拾った辺りで台車を止めると、大きな雨粒が皮膚を掠めます。男の腰に手をかけて持ち上げ、川面を眺めます。微かな波紋が大きくなりながら光の輪を作ります。海の向こうに円い太陽が見えます。「ああ、お前はいままで何度も捨てられるたびに、あんな朝日を拝んできたんだな」、僕はしばらくぶりに老人の顔を正面から見つめました。腕を力強く伸ばし、人魚の軽い肉体を川面の放り込みます。


選考委員の角田光代は、「人魚がいるとあるビジョンが勝手に見えてくるという設定が面白く、現実世界からするりとビジョンの世界に行くその書き方が見事で、実際にビジョンが生々しい映像となって私にも見えた」と評しています。松浦理英子は「ここに顕れた無常感は震災後の私たちが抱いている無常感と共振するのではないか、とさえ思う」といいながら、「それにもかかわらず全体の印象がやや弱いのは、・・・物語の型の弱さ・平凡さのせいかもしれない」という。


吉田修一は、「歴史の目撃者たる老いた人魚をまず出現させ、主人公に所有させ、最終的に放棄させることで、人魚(不安)なきあとの、新たな不安の風景を読者に突きつけてくる」という。松浦寿輝は「この主題の現代化の試み自体は安部公房にも倉橋由美子にも川上弘美にもあり、手垢にまみれたものだ」という。しかし「ここに登場するのは男の、しかも老人の人魚で、この主題に必ず付きまとうエロティシズムを欠き、むしろ汚穢の領域に属する“不気味なもの”として表象されているのは面白い」ともいう。