世田谷美術館で「ある造形家の足跡 佐藤忠良展」を観た! | とんとん・にっき

世田谷美術館で「ある造形家の足跡 佐藤忠良展」を観た!




世田谷美術館で「ある造形家の足跡 佐藤忠良展」を観てきました。副題には「彫刻から素描・絵本原画まで:1940-2009―宮城県美術館所蔵品を中心に」とあります。1912年(明治45年)生まれの忠良は、20歳の時に画家を目指して上京、川端画学校に通いはじめます。モディリアーニに傾倒していましたが行き詰まり、マイヨール、ブールデルなどの作品写真を目にし、彫刻家志望となり、東京美術学校彫刻家彫塑部に入学します。教官には朝倉文夫、建畠大夢、北村西望、同級には舟越保武、五島一彦、山本恪ニ、昆野恆らがいました。なかでも舟越保武とは親友としてまたライバルとして、終生つきあうことになります。


1940年に結婚し、その後に長男、長女が誕生しました。敗戦色が濃くなる1944年に召集されて旧満州へ配属になります。そして終戦後はシベリアに3年間抑留され、制作活動は中断されます。戦前・戦中の作品は「女の顔」や「母の顔」など数点が残るのみで、ほとんどは戦災や戦後の混乱で焼失してしまったという。終戦から3年後の1948年にシベリアから帰還します。幼児期に父親と死別して母の手ひとつで育てられた体験とともに、佐藤忠良の人間観と芸術館を決定づけたのは、戦争体験であろう、と宮城県美術館の三上満良はいう。極限の環境の中で、故国や人間、そして芸術表現のあり方を問い直し、ヒョーマニズムの思想を培った、という。


昨年の5月に川越市立美術館で観た「宮城県美術館 佐藤忠良記念館所蔵 佐藤忠良展」が、佐藤忠良の彫刻作品を纏まって観た展覧会でした。「宮城県美術館 佐藤忠良記念館所蔵」とあるとおり、宮城県美術館には「佐藤忠良記念館」があります。僕は何度か宮城県美術館へ足を運んで、佐藤忠良の作品を観ています。宮城県美術館が出来たときに一度、そして佐藤忠良記念館が出来てから二度、忠良の作品を観に行っています。今回の展示の目玉として「蝦夷鹿」(1971年)が出ていますが、それ以外の作品はおおむね川越市立美術館の「佐藤忠良展」と同じような作品が展示されていました。


いま、僕の手元にある「忠良展」の図録は2冊あります。ひとつは「パリ展開催記念 ブロンズの詩・佐藤忠良展」、そしてもうひとつは「宮城県美術館 佐藤忠良記念館所蔵 佐藤忠良展」です。ともに表紙が1972年の作品「帽子・夏」となっています。やはりこの作品が、誰しも認める佐藤忠良の代表作と言えると思います。1981年にフランスのロダン美術館で開催された個展でもこの「帽子・夏」がポスターとして使われたという。佐藤忠良は「私の履歴書」(日本経済新聞:1988年6月)に、「帽子・夏」について以下のように書いています。


「帽子・夏」(47年)は、彼女(東京造形大学の第一回卒業生、笹戸千津子嬢)のつぶれた帽子が面白くて、かぶせてモデルにした作品である。ちゃんとしたふつうの帽子だったのだが、上に洋服の空き箱を乗せておいたため、変形してしまったのだという。初めは当時はやり始めていたパンタロンをはかせ、立たせてみたのだが、焦点が帽子と広がった裾の両極に行ってしまい、あれ?何を作ろうとしているのかなと、自分でもわからなくなってしまった。これでは駄目だと、パンタロンの裾を切ってしまい、腰かけさせた。帽子はしっかりかぶせるのではなく、無重力状態にして浮かせたかったので、鼻の穴がちょっとのぞくくらいに前のめりにして、ちょこんとのせた形にした。こうして帽子が下がった形でかかとをつけてしまうと、重心が全部下に下がってしまうので、かかとをあげ、ひじの張り、ひざの開き具合とかも、私なりにいろいろ操作してみた。腰かけているが、横からみると浮かすように随分前のめりに座っているのである。彼女の肩は本当はもっと張っているので、リアリスティックにやれば帽子の線と平行に二の字になってしまうから、かなり変形させている。彫刻でむずかしいのは、こういうシンメトリカルなもので、あまりに左右対称にすると、見ている方がウッと息が詰まってしまう。それだけに「帽子・夏」は、かなり時間のかかった彫刻であった。


展覧会の構成は、以下の通りです。


第1室: 特別テーマ「冬」
最初の展示室ではその「冬」にちなんだ作品、「ボタン」はそのひとつで、長女オリエをモデルに作られました。その他、「ラップ帽」や札幌オリンピックを記念して制作した大型の動物像「蝦夷鹿」などが展示されています。

第2室: 頭像―人間の相貌
ここでは、最初期から最新作までの頭像が展示されています。「群馬の人」は忠良にとって歴史的な代表作、「にいがた」は新潟出身の女性がモデルです。ともに作家が身近に接している市井の人物の肖像、質朴な人間像です。

第3室・第4室: 女性像―人体の構造
忠良の真骨頂は女性の裸体像にあります。「帽子・夏」は誰もが知る代表作のひとつです。1970年前後に大きな作風の変化を見せたこの一群の女性像が、時代を分けて展示されています。

第5室: 子供の情景
長男達郎、長女オリエをはじめ、朝倉摂の娘・亜古、そして長男宅に生まれた孫、竜平と未菜は、忠良が身近に接した愛すべき小さな者たちでした。と同時に、いくつもの彫刻を作った重要なモデルでもありました。

素描・水彩、そして絵本原画など
後半の部屋では、常磐炭鉱や銚子の漁村、北朝鮮や中国を旅したときに描いたスケッチ、そして何の変哲もない近隣の樹木の写生、あるいはシベリア抑留時代の光景を回想して描いた水彩画や、子供たちのために作った絵本原画や教科書など、彫刻とは少し離れたところで作られた作品が展示されています。












 

巨匠にして巨匠らしからぬ、恬淡たる制作の日々
宮城県に生まれ、北海道で育った佐藤忠良(1912-)は、1932年、20歳のときに上京し、その後、東京美術学校彫刻科に入学。以来、現在に至るまで80年近くにわたる歳月を、一貫して具象彫刻の制作に費やしてきました。今日では日本彫刻界の巨匠として広くその名を知られ、全国各地でも多数の作品が日々人々に親しまれています。本展では、そうした彫刻家としての佐藤忠良の足跡を概観しつつも、代表作を並べるだけではなく、この巨匠の知られざる側面や日常の制作の実際にも光を当ててみたいと考えました。たとえば素描や石膏原型などアトリエで生まれる習作や、初期の油彩や水彩、また絵本や挿絵、あるいは美術教科書の仕事などにも触れてみることで、ひとりの造形家・佐藤忠良の長きにわたる思索の経緯や総合的な人間観、芸術観をさぐることができるかもしれません。   佐藤忠良は、1940年から49年まで、大戦を挟んだ動乱期に世田谷に住まい、そこで彫刻家としての人生を本格的にスタートさせました。1939年に発足した新制作派協会彫刻部の創立メンバーとして、良き仲間にも恵まれ、新しい時代の人間像を作りはじめたのがこの世田谷の地だったのです。しかし終戦直前に応召し、3年間のシベリア抑留生活を経て帰国したのは1948年のこと。再び世田谷の地に住まって活動を再開し、以後、1959年には杉並に現在のアトリエを構えて、今日に至っています。   本展では、宮城県美術館の所蔵品を中心に、代表作多数を含むブロンズ彫刻・約80点をはじめ、素描・約70点、絵本・挿絵原画・約70点、および青年期の初期作品や関連資料など、あわせて全約250点を展覧いたします。


「世田谷美術館」ホームページ


とんとん・にっき-sato16 「ある造形家の足跡 佐藤忠良展」

彫刻から素描・絵本原画まで:1940-2009

―宮城県美術館所蔵品を中心に

図録

企画構成:世田谷美術館

編集:杉山悦子、小金沢智(世田谷美術館)

編集協力:三上満良(宮城県美術館)

発行:世田谷美術館



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財団法人地域創造

平成22年度市町村立美術館活性化事業

第11回共同巡回展

宮城県美術館佐藤忠良記念館所蔵 

「佐藤忠良展」
図録
発行:第11回共同巡回展開催実行委員会

2010年4月17日発行
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パリ展開催記念

ブロンズの詩・佐藤忠良展

図録

編集・発行:現代彫刻センター

表紙撮影:村井修

1981年発行





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