佐野美術館で「仕掛けの絵師 鬼才・川鍋暁斎」展を観た! | とんとん・にっき

佐野美術館で「仕掛けの絵師 鬼才・川鍋暁斎」展を観た!



静岡県三島市の佐野美術館で「没後120年記念 仕掛けの絵師 鬼才・川鍋暁斎」展を観てきました。案内には、東海道新幹線三島駅から伊豆箱根鉄道に乗り換え、2つ目の三島田町駅より徒歩3分とあります。もちろん僕は初めて行った美術館です。佐野美術館は、(株)鐵興社を興し財をなした佐野隆一(1889-1977)により創設された美術館です。コレクションの特色は、その多彩さにあり、日本刀は特に名品が多く、その他青銅器/陶磁器・金銅仏・古鏡・古写経・日本画・能面・装身具など、東洋の古美術を中心に、国宝1件、重要文化財9件を含む約3000件がそれぞれ系統立てて集められているそうです。


さて「没後120年記念 仕掛けの絵師 鬼才・川鍋暁斎」展、暁齋が伊豆に関わりの深い画家だったことにより実現したそうです。実は「曾孫・河鍋楠美が語る暁齋」という講演会があると知り、是非とも行きたいと思ったのですが、どうしても僕の都合がつかなくて、それならば早いほうがいいと思い、思いついてすぐに行ってきたというわけです。行ったのは9月8日、ずlっと蒸し暑い日が続いたこの夏、その日は待ちに待った久し振りの小雨が降る日でした。ところが後で知ったのですが、東京は台風の影響で大雨だったようで、僕の乗った新幹線の1本後から、静岡、神奈川の大雨により運休になりました。僕自身はその間をかいくぐっての三島行き、ほとんど被害はありませんでしたが、世間では台風のもたらした大雨で、被害は甚大だったようです。


そんなことはともかく、河鍋暁齋と聞くと僕は居ても立ってもいられなくなり、三島まで行ってきたわけです。暁齋と僕との出会いは、纏まって暁齋の作品を観たということでは、東京ステーションギャラリーで開催された「国芳暁斎なんでもこいッ展だィ!」からになります。次に 成田山で開催された「酔うて候――河鍋暁斎と幕末明治の書画会」を観に行きました。これら2度の展覧会での目玉は、なんと言っても酒を飲みながら僅か4時間で描いたという、高さ4m、幅17mの「新富座妖怪引幕(仮名垣魯文贈)」でした。そして、暁齋を理解するために、ジョサイア・コンドルの記した「河鍋暁斎」を読んだことが挙げられます。つい最近、とんぼの本から「反骨の画家 河鍋暁齋」(発行:2010年7月25日)が出ました。その本の帯には「正統と異端を同時に生きた万能の絵師」とあります。


今回の「暁齋展」、出品目録を見ると、前中後期で作品の入れ替えや頁替えもありますが、119点が出品されました。展示された全作品を集中して観ると、けっこう疲れます。それはもちろん暁齋の作品の密度に拠るところが大きいことは言うまでもありません。7歳より浮世絵師・歌川国芳に学び、狩野派絵師に学んだというから凄い。それにしても暁齋の守備範囲が広いのには驚かされます。言うなれば「なんでもござれ」です。暁齋は、国芳の「奇と笑い」を継承し、かつ「正統」な狩野派の絵も継承して、「反骨の画家―正統と異端を同時に生きた万能の絵師」として、独自の境地に辿り着きました。


展覧会の構成は、以下の通りです。(図録より)

第1章 暁斎・仕掛ける――肉筆画の名品

暁齋の画技の基礎は狩野派にあります。10歳のとき駿河台狩野派の前村洞和愛徳に、のちその師洞白陳信に入門、19歳でその修行を終了しました。さらに54歳のとき駿河台狩野派の当主から画技の遵守を託されると、宗家である狩野永悳立信に再入門、その技を学びました。しかし暁齋の絵画研究は狩野派にとどまらず、水墨画や大和絵、円山、四条、南画、琳派から浮世絵諸派に及びます。暁齋の多様な「仕掛け」に意表を突かれるのは、古今の題材を自由に引き出し組み合わせることのできる豊富な画囊と、普段の精進によって体得した、どんな題材であってもそれを表現できる描写力です。


第2章 暁齋と伊豆――伊蘇普物語とゆかりの絵画

暁齋の兄、直次郎は幕末、幕府の鉄砲方として韮山代官所に出仕していました。またその子芳太郎は、徳川家達の駿府転封とともに、明治元年(1868)に東京から移住、暁齋の母とともに沼津へ移り住みます。暁齋は兄を大変慕い、母を深く尊敬し、しばしば彼らの助言を求めました。こうした艶で暁齋は伊豆や沼津を訪れ、知己を得て、多くの作品が生み出されました。その一つ「通俗伊蘇普物語」は、明治6年(1873)に出版される家ベストセラーとなり、教科書にも採用されました。また絵日記からは、多忙な日常から離れ、ゆっくりとした時をすごす暁齋の姿が垣間見られます。


第3章 暁齋・戯れる――鳥獣・妖怪・戯画
暁齋は戯画の名手として謳われます。画家として独立した1年後の28歳の頃より、「狂画」を描き初め、狂齋と号します。滑稽味と社会諷刺に富んだ戯画はまたたく間に評判になり、文久3年以降、錦絵のシリーズを多量に発表、時代の寵児となります。戯画が要因で捕らえられたという文久3年の筆渦事件以降、画号を暁齋と改めますが、ますます注文は増えるばかりでした。暁齋が描く狐や狸、妖怪や骸骨はみな生き生きと躍動しています。喜びや哀しみを全身で表現しています。そこにはリアリティがあるから、親しみを抱き、共感できるのでしょう。


図録の「仕掛けの絵師 河鍋暁齋」という解説の中で河鍋楠美は、暁齋作品の特徴を挙げています。

①写生重視と様々な転用

②暁齋の人脈と時代性

③暁齋画の多彩さ


上の特徴については、ここでは詳しくは述べませんが、最後に河鍋楠美は「暁齋の人となり」として、暁齋は学ぶことに貪欲でしかも真摯であったこと、師や親に対して孝行心の篤い人であったと述べています。そして、暁齋は本来はまじめでむしろ小心者だったこと、豪快とか豪放磊落とする人も多いが、それは酒が入って抑制がとれた時に表面化したのであるとしています。暁齋に入門して8年間も教えを受け、「暁英」の画号を得たコンデル(河鍋家ではコンドルをコンデルという)は、その著書のなかで「彼にとって酒は決して怠惰無節制な悪徳を示すものではなかった。彼はその奔放なる空想、もっとも新鮮なる構図、および大胆不敵な筆致が酒神バッカスの力によって生み出されることをわきまえていた」と暁齋の飲酒を擁護している、と述べています。それにしても一人の人間がここまで描くことができるのは、奇跡と言うほかありません。


第1章 暁齋・仕掛ける――肉筆画の名品






第2章 暁齋と伊豆――伊蘇普物語とゆかりの絵画




第3章 暁齋・戯れる――鳥獣・妖怪・戯画



「仕掛けの絵師 鬼才・河鍋暁齋」

このたび没後120年を記念して、幕末・明治期に活躍した画家・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)(天保2・1831年~明治22・1889年)の展覧会を開催します。 暁斎は下総(しもうさ)国古河(こが)(現茨城県古河市)に生まれました。まもなく江戸に移住、7歳より浮世絵師・歌川国芳や狩野派絵師らに絵を学び、27歳で独立しました。以降、狩野派の修業を基とした、圧巻の画技による歴史画や美人画、蛙、骸骨、妖怪などをモチーフに、世相を風刺した戯画で人気を博し、その名聞や作品は、明治9年に来日したフランス人収集家エミール・ギメや明治14年頃暁斎に入門した英国人建築家ジョサイア・コンドルらによって海外へも伝えられました。 また暁斎は、伊豆に関わりの深い画家でもあります。兄・甲斐直次郎は韮山代官江川坦庵の配下であり、その子芳太郎は徳川家達の駿府転封にともない暁斎の母と沼津に移り住みました。その縁で暁斎は同地をたびたび訪れ、作品を描き残しました。 本展はゆかりの地で開催される初の回顧展として、伊豆関連の作品資料を含む約100点の代表作を展示します。激動の世を鋭く鮮やかに描き尽くした暁斎、その画道一筋の生涯をご覧下さい。


「佐野美術館」ホームページ


とんとん・にっき-sano2 「仕掛けの絵師 鬼才・河鍋暁齋」

図録

発行日:2010年9月4日

編集・発行:財団法人 佐野美術館









とんとん・にっき-kawa 「反骨の画家 川鍋暁斎」

とんぼの本

発行:2010年7月25日

定価:本体1500円(税別)

著者:狩野博幸 川鍋楠美

発行所:株式会社新潮社
最初は浮世絵師のもとで、次は狩野派で修業した画家なんて暁斎のほかにいないでしょう。・・・反体制の人とも、秩序の人とも見ることができる「二重性」が彼にはある。・・・これこそ、彼の最大の特質であり、面白いところだと思います。(狩野博幸・本文より)



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