川上未映子「乳と卵」再読、芥川賞「選評」を読む!
2月10日の朝刊、デカデカと川上未映子の写真と「芥川賞発表受賞作全文掲載」の「文芸春秋」の一面広告が出ていました。毎月10日には必ず「文芸春秋」の広告が出るのですが、それにしても大きい、破格の扱いです。しかも、川上未映子のちょっとエロチックで、アンニュイな写真がいい。というわけで、さっそく「文芸春秋」を購入し、「芥川賞選評」を読み、受賞者インタビュー「家には本が一冊もなかった」を読み、そして芥川賞受賞作「乳と卵」を再読しました。「芥川賞発表」の掲載されている「文芸春秋」を買うのはもう長年の僕の習慣です。ですから年2回は「文芸春秋」を買うという、いわゆる「ニッパチ」、ものが売れない、本の売れない時期に芥川賞をぶっつけた菊池寛の策略に、その他の記事が面白くないことはわかってはいても、まんまとはまった一人というわけです。
まずは受賞者インタビュー「家には本が一冊もなかった」、副題には「昼は書店員、夜は新地で働く。新芥川賞作家の誕生秘話」とあります。川上は1976年生まれで現在31歳、若くして芥川賞作家になったが、経歴を観ると人生経験が豊富です。高校卒業後、書店員、歯科助手、北新地のクラブホステスなどさまざまな職業を経験した後、歌手を経て、作家デビューした、いわゆる「文学少女」とは違うタイプです。クラブホステスは弟の学資を出すため。20代半ばでCDデビュー、3年間で3枚のシングルと3枚のアルバムを出すもまったく売れなかったという。アルバムの存在を知ってもらうためにブログを始めます。でもよくある日記帳の芸のない文章の羅列だと、単なる自己容認の手段になってしまうので、フィクションや空想も交えて書くというスタイルにしました。そのブログが「純粋悲性批判」、それをまとめ処女エッセイ集として出版します。
書評誌「ダ・ヴィンチ」編集長に、いきなり「未映子ともうします。一度お会い下さい。お昼ご飯食べましょう」と電話したという逸話があります。こうなるとトントン拍子です。「早稲田文学」に推薦され書いたのが「わたくし率 イン 歯―、または世界」で、処女作がいきなり芥川賞候補になり、今回の二作目「乳と卵」で芥川賞を受賞しました。「乳の卵」は樋口一葉へのオマージュだという。「樋口一葉の文体は、見たこと、聞いたこと、感じたこと、目の前で起きていることが、カギ括弧も句点もない一文の中に編み込まれている。自分の文章を書くときにもろに影響が出た」といいます。「乳と卵」は、10日間、文芸春秋の執筆室に缶詰めになったが一枚も書けず、自宅に戻って書き始め、集中力の続く時間が短く、結局3ヶ月かかったという。実際の時間はトータルで20時間ぐらいで、助走期間が長かったそうです。
さて芥川賞受賞作「乳と卵」は、「文学界12月号」に掲載されたときに読み、これは芥川賞を受賞するのではないかと僕はその時に思いました。きっかけは文学界新人賞に楊逸の「ワンちゃん」が「文学界12月号」掲載され、その時に掲載されていた「乳と卵」が掲載されていたので、「偶然読んだ」といった方が正しいと思います。中国人が日本語で書いたという話題性で、文学界新人賞を受賞した楊逸の「ワンちゃん」が、芥川賞に近く、はるかに前評判が高かったと思います。とはいえ、どちらも「芥川賞候補作」に挙げられていないときのことです。
今回「文芸春秋」を購入して「乳と卵」を一気に一晩で再読しました。前回読んだときと較べると、読みやすく感じ、スラスラと読み終えました。この作品、会話のない母・巻子と娘・緑子、そして大阪から上京する二人を迎える妹=叔母の3人、微妙な緊張関係で成り立っています。宮本輝は「女性が書く小説の素材としては、ある意味で陳腐だが、3人の登場人物には血肉がかよっていて、それぞれの吐息がきこえる」と述べています。小川洋子は「巻子の狂気のみの焦点を絞った小説だったら、と想像した」と述べていますが、それはたしかに「余計なお世話」です。
「二泊三日の滞在という短い時間内にきっちりとドラマが構築されている。母に対する言葉を失った娘と、豊胸施術のことで頭がいっぱいの母という課題を最後のところで見事にドラマチックに解決してカタルシスに至るあたり、したたかな技量である」と、池澤夏樹はこの作品を推しています。「饒舌に語りながら無駄口は叩いていない。容れ物としての女性の体の中に調合された感情を描いて、滑稽にして哀切。受賞作にと、即決した」と、いつもは無駄口の多い山田詠美は端的に述べています。川上弘美は「もう一度会いたい人」として、「緑子」と「ワンちゃん」の二人を挙げています。「緑子について。推し量れないところがある。推し量れないけど、理解できない、ということではない。あと10年たった緑子がどうなっているのか、たいそう興味をひかれる。病んでいるのに、不思議にすこやかな印象がある」としています。
そんなこともあってか、僕は今回は特に、娘の「緑子」に則して読んでみました。なぜか「文芸春秋」、「乳と卵」の個所だけが文字が大きく、読みやすくなっていました。活字がやや角張ってはいましたが。あらためて「娘」から大人の「女」になるとは、こういうことなのか、と妙に感心しました。「あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体のなかにあって、その体があたしの知らんところでどんどん変わっていく」と緑子はいいます。「生まれるまえからあたしのなかに人を生むもとがあるということ。大量にあったということ。生まれるまえから生むをもっている」。いつもだったら、生理だとか血だとかが出てくると嫌な気分に陥るのですが、なぜか今回は清々しく読めました。
緑子が卵を自分の頭に叩きつけ、「お母さん、お母さん」と連呼し、お母さんの巻子も思い切り自分の頭に卵をぶっつけます。玉子まみれの二人。この個所は、今回は本当に笑った。「お母さん、ほんまのことを、ほんまのことをゆうてや」と緑子がいうシリアスな場面です。でも、可笑しい。「緑子、ほんまのことってな、みんなほんまのことってあると思うでしょ。絶対にものごとには、ほんまのことってあるのやって、みんなそう思うでしょ。でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで」と、巻子はいいます。緑子は「そうじゃないねん、でも色んなことが、色んなことが、色んなことが」と三回云って、緑子は泣き続け、巻子はずいぶん長い時間を黙って、緑子の背中をさすり続けます。
今回の「芥川賞選評」、村上龍の「選評」には偶然とはいえ驚きました。「今回、3作を推薦しようと思った。『ワンちゃん』、『カツラ美容室別室』、そして『乳と卵』だ」とありました。なんと、今回の芥川賞の候補作7作のうち、僕はたまたまこの3作を読んでいて、というか、この3作だけを読んでいて、このブログに書いていたからです。こういうことは、僕は長い間芥川賞受賞作を読んでいますが、初めての体験です。村上龍は、「乳と卵」については、「作者の力量と作品の完成度からすると妥当な結果だと言える」とし、「ワンちゃん」については、「ユニークさと切実さでかなりの評価を得たが、日本語表現が稚拙という理由で受賞には至らなかった。だがわたしは、移民二世や在日外国人による今後の日本語表現にモチベーションを与えるという意味でも受賞してほしかった」としています。
「カツラ美容室別室」については、「非常に好感が持てる作品で、最初から最後まで破綻がなく面白く読んだ。国家や共同体から共通の希望が失われた現代を生き延びようとする人びとが過不足なく描かれていた」としています。「だが他の選考委員の評価は低く、『スカスカで何もない』という批判が多かった。しかしこの作品は、まさに『スカスカで何もない』時代状況を映し出す優れたドキュメントとして読むことができるのだが、理解はまったく得られなかった」と(たぶん石原慎太郎を念頭において)嘆いています。僕もまったく同意見、というか、僕が思っていたことを村上龍が代弁してくれているようで、非常に嬉しい。「乳と卵」からはちょっと離れてしまいましたが。
黒井千次は「言葉のエネルギーが持続力を持つものであることを証明する作品であった。息の長い文章は『わたし』の語る大阪弁に支えられてはじめて成立すると思われる。このスタイルで今後どのような作品が生み出されるか、注目したい」と、好意的に述べてしています。高樹のぶ子は「絶対文学と文芸ジャーナリズムの間で」と意味不明の持論を展開、「『ワンちゃん』がぎりぎり許容できた」が、その他の作品は無視しています。問題の石原慎太郎はというと、「薄くて、軽い」と題して書いています。「受賞が決まってしまった川上未映子氏の乳と卵を私はまったく認めなかった。どこででもあり得る豊胸手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することはおそらくあり得まい」と、孤高を守ろうとしていますが、どうも一人浮き上がってしまっているように見えます。
平成19年12月1日発行



