小谷野敦のブログ

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 浪速大学に、志賀泉教授という女の先生がいて、岡山の修道院に住む修道女で、そこから新幹線で通ってきていた。もう五十代半ばだったが、この年になって初めて頭痛というものを知った、と言っていて、岡山から通うだけあって頑丈なんだなあ、と感心した。
 その志賀先生が睦月さんに、
 「あらっ、あなた、ラインホルド・ニーバーを知っているの」
 と言ったことがある、という話を聞いた。
 ラインホルド・ニーバーはドイツの聖職者で、断酒会で用いられる、「神よ、変えられることを変える勇気と、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい」という言葉の作者として知られる。
 睦月さんは大学に勤務してから、断酒運動に熱心になっていた。私は酒を呑まないし、アル中の恐ろしさを知りつつあったから、彼女と、アル中を描いた映画「帰れ、いとしのシバ」の話をし、「失われた週末」をまだ観ていないというので勧めたりした。
 ところが、私の手元に「失われた週末」のDVDがあったので送ってあげたら、もう購入していたけれどDVDを再生する装置がない、と言う。私が、パソコンで観たら、と言うと、PCでそういうことをするのは好きではない、と言う。なぜかと訊いたら、子供の頃に、テレビは三メートル離れて見なさいと言われておおむねそれを守っているからだと言い、結局「失われた週末」は観なかったのかもしれない。しかし大学の視聴室でも近くで観ているのだし、それでは大学の先生をするのは難しいのではないか。それならDVDプレイヤーを買えばいいのに、しかもこのやりとりが、メールの一問一答なので、理由にたどりつくまで手間がかかる。とにかく融通が利かない、睦月さんはそういう人だった。
 学生に酒の害について説いたり、断酒会を訪ねて話を聞いたりして、のちにパンフレットまで作成していた。しかし私は、それは有益な社会活動には違いないけれど、学問ではないから、博士論文を書いたことで満足しないで学問をやりなさい、と言っていた。
 ある年の秋、学園祭のあとで睦月さんは怒っていて、というのは、学園祭に行ったら学生が焼いたクッキーを売っていたという。睦月さんは全部買おうとしたがお金が足りなかったので、また戻ってくるからとっておいて、と言ったが、戻ってきた時にはもう売れていたという。
 どれくらいして戻ったのか知らないが、学生が焼いたクッキーを本気でとっておいてくれと言ったとは思わなかったのだろう。しかし睦月さんは、
 「クッキーがなくなったことよりも、嘘をつかれたことが悲しいのです」
 などと言っていた。
 夫さんについては、夫さんが東京へ出るので、自分の指示でミュージカルを観に行っています、などと言っていて、夫さんに教養を身に着けさせようとしたのだろうか、それにしてもずっと別居というのも大変ではないか。
 それから一年ほどして、私の母ががんになった。睦月さんにそれを言うと、
 「カプチーノをどうぞ」
 というメールをくれた。二〇〇六年のことだ。
 母の闘病中に私は再婚することができ、二駅隣へ転居した。
 独身の時でさえ「浪速大学修了生」などと表書きしたものを送ってくるくらいだから、それからあまり連絡はとらなくなった。
 しかし、睦月さんは大学でほかの教員からハラスメントに遭っていると言い始めた。もっとも、睦月さんの言動にはほかの教員も困らせられてはいるんじゃないか、とは思った。そのため、詳しいことを聞かないと何とも言えない、と私は言った。睦月さんは、そのことが不満だったようで、その後折に触れて、詳しいことを聞かないと何も言えないというのは……と言ってきた。だが、たとえ何が起こってもあなたが悪いんじゃない、というのは親の言うことで、親以外の人にそれを求められても困る。もちろん私だって「大変ですね」くらいは言っていたはずだ。
 それでふと、ヴァンクーヴァーで世話になった迫水先生のことを思い出した。迫水先生は長く北米にいて、日本の比較文学会に出席した時、ある教授の発表に対して質問したら、その教授が「あなたは海外生活が長いからそんな質問をするのだ。日本回帰をお勧めする」と言われたというので、これはレイシズムだ、と言ってそのことを文章に書いた。
 私はその時、電話で、どういう質問だったのですか、と訊いた。すると迫水先生は、「みんなそれを訊くんだが、内容は関係なく、そういうことを言うのがレイシズムなんだよ」と言っていた。だが、具体的にどういう発表でどういう質問をしたのか書いたほうが、読む方としては納得しやすいのだ。もちろん睦月さんのほうは、自分が受けたハラスメントについて語ること自体が嫌だったのだろうが・・・・・。
 ある時、冷蔵庫から「チッチッチッチッチッチ」という音が聞こえるので、修理屋を呼んだら、電話口で「どんな音がするんですか」と言われたので、睦月さんが口で「チッチッチッチッチッチ」と言い、男の修理屋が来たが、その時は音がしておらず、音がしないと修理ができないというので、音が始まるまで待つことにして、修理屋は二時間ほど冷蔵庫の前に座って待っていた。すると「チッチッチッチッチッチ」と鳴り始めたので、睦月さんが、「あ、それですそれです」と言って、修理できたということをミクシィに書いていた。
 睦月さんが口で「チッチッチッチッチッチ」と言ったとか、女一人暮らしのところへ上がりこんだ修理屋が、冷蔵庫の前に座って二時間音が鳴るのを待っていたというのが何ともおかしかった。
 もちろん鋭いところもあって、仲代達矢の話になった時、「私は仲代達矢さんの演技は、仲代さんが舞台稽古をしているようにしか見えないのです」などと言っていた。
 しかし、大学でのハラスメントというのはかなり深刻な事態になっていたようだった。詳しいことは結局分からずじまいだったのだが、赴任してほどないころから始まっていたようで、睦月さんがある会議である点を指摘したら、突然教授が睦月さんを怒鳴り付け始め、その容姿とか人格について延々と罵詈雑言を並べたというのだ。睦月さんは、途中から気づいて時間を図り始めたら、二十二分続いたという。
 それで睦月さんはPTSDになったのだろう、その教授と仲間たちがいたらしく、廊下などでそれらの人を見かけると身体反応が出ると言い、突然わけもなく涙が出るようになったという。そこで二年後くらいに、教授会で「注意喚起」としてそのことを報告したら、それらの教員からさらに敵視される結果になり、ついには吐き気や嘔吐すら引き起こすようになったという。
 一人だけ、小川というシェイクスピア学者の教授が、私がいる間は辞めないでくれ、と言ったというが、その教授は二〇一一年一月に六十歳で亡くなってしまったという。
 二〇一四年には、睦月さんは肺炎のため入院したのだが、入院と決まった時、これで大学へ行かなくて済む、と思ったそうだ。
 私は自分ももっと軽度なことで神経を病んで大学を辞めているし、睦月さんの性格からかなりひどい状態なのが分かったし、長崎出身の人が札幌に独り暮らしでそれは大変だし、大学を辞めた方がいい、と勧めたのだが、睦月さんは、こんなことで辞めるのは悔しい、札幌で死んでもいい、とまで言うのだった。
 大学のハラスメント対応の部局に報告したが、その結果が思わしくなかったので、さらに外部の弁護士などからなる人権救済の申し立てをした、とも言っていた。
 私がツイッターを始めたのは二〇〇九年だが、数年して、睦月さんがいるのに気づいた。ところが、美味しいプリンを売っている店があって、プリンはおやつにもってこいなんです、と書いていた。もってこい、というあたりが睦月さんなのだが、あまりにたびたびプリンを買いに行くので、店の人が「おーい、プリンの人が来たよー」と言うそうである。
 だいたい、睦月さんはどう見ても肥満なので、甘いものをあまりとるのはいけないと思うのだが、とにかく妙に滑稽なので、そういうことをツイッターで言うのはやめたほうがいい、と言ったら、「なぜプリンのことを書いてはいけないのですか。禁プリンファシズムです」などと、私が常々「禁煙ファシズム」と言っているのをまねて言っていたが、「あなたのためですからおやめなさい」と言ったら、「『あなたのため』と言われたからやめます」と言ってやめはしたが、ツイッターアカウント自体を消してしまった。
 二〇一四年の暮れに、年明けにちょっとした手術を受ける、と言っていて、それも気になったので、二〇一七年二月二十二日にメールを出して、様子を聞いたが、返事はなかった。最近どうも私に被害を受けていると思っていたようだし、それでかなと特に気にもせずにいた。
 翌年の五月になって、しかし、北大のサイトから名前が消えているのに気づき、とうとう辞職したかな、と思って、浪速大の人に聞いてみたら、よく知らないとのことで、私はてっきり辞めたんだろうと思いつつ、北大宛に問い合わせのメールを出した。すると月曜になって返事が届いていて、「睦月正子先生は昨年二月に逝去なさいました」とあったから、驚いた。軽くパニックになった私は、新屋敷ゆずかに電話してこのことを伝え、死因について鍵谷さんにメールしてみたら、北海道の自宅で亡くなっていたということしか分からない、と言っていた。
 当時浪速大にいて、数年前に睦月さんと会食したという戸上先生にメールしてみたら、多分その年の年賀状を出したら夫さんから、死去したという返事が届いた、と言っていた。体調がいろいろ悪かったようだが、自宅で死ぬというのは事故に近いだろう。
 しかし、ずいぶん生きづらい人生だったろうなあ、と思った。

(おわり)